笑う鯨
太陽は天頂から落ち始めた。光線は依然として肌を突き刺してくる。
上空が、いやに晴れている。額の汗をぬぐいながら思った。船長に伝えようと、弄っていたロープを床に置いたとき、
「お———い」
遠くからの声に、顔を上げた。視線を遣ると、この船より一回り大きい帆船の上で、男が手を振っていた。男が後ろを振り向いて二、三言葉を発すると、物陰から別の男が顔を出し、船は滑らかにこちらへやってきた。近くで見ると男の船は随分新しく、鮮やかな塗装がまだ輝きを保っている。
「やあ、こんな所で人に会えるとはね。君もあれ狙いかい」
隣に寄せた船から身を乗り出し、男は尋ねた。豊かな髭を整えた、身なりのいい男だった。胸元の金のブローチがぎらぎらと眩しい。
「兄さんたちは?」
尋ねると、男は「勿論」というように口角を上げた。髭こそ蓄えているが、その下の顔立ちはまだ若い。
「俺たちもだよ。羽根兎にも棘鹿にも飽きていたところに、ちょうど噂を聞いたもんだからさ。一つ大物を狩ってやろうと思って」
「予想通り、まだ誰の手もついていないみたいだなあ」
船を固定し終えたのか、後ろからもう二人男がやってきた。二人も同様に、不釣合いな髭を生やしている。一人はがりがりに瘦せていて、一人は大きな腹を抱えていた。痩せ型の男は改めて俺をまじまじと見ると、
「でも坊主、やるなあ。どこから情報を仕入れたんだ?俺たちだってついこの間小耳に挟んだところなのに」
「君、どこの家の者だい?一人で、来たのかい?主人は?」
後からあとから出てくる疑問を並べ立てた。そのとき、男たちと俺の間に、ぷわぁーり、と灰色の煙が伸びてきた。
「いやに青いねェ」
振り向くと、船室の窓から顔を出し、煙草をくゆらせている女性がいた。
「船長」
「こりゃ荒れるね」
ゆるりとこちらを向くと、船長は気怠げな目のまま、口の端で笑った。
「お客さんたぁ珍しいこった。どうも」
会釈(のつもりだろうが顎を突き出しただけである)すると、船長の一つに縛った長い髪が風になびく。三月ほど前には真っ青だったがとっくに色は抜けていて、白鳴馬のたてがみのようである(こう言うと、船長はいつも潮風で傷みきった毛先を掴んで「いや、竹ぼうきだろ」と言う)。
船長の姿を見た男たちは、戸惑いの表情を浮かべた。ブローチの男が躊躇いがちに口を開き、
「ご婦人。貴女が、彼の主人ですか?」
「主人じゃあないね」
そう言ったきりの船長に、今度は六つの目が、助けを求めるようにこちらを向いた。
「船長だけど」
「船長……」
再び視線は船長へと向く。
「船員は他にも?」
「いや」
またこちらへ。
「俺と二人だけ」
あっちへ。
「誰かの命で、獲りに来ているのですか?」
「いーや」
「……生活のため」
「生活……あれを、売るのですか?」
「ちがうね」
「……肉は食べるし、皮は布になるし、骨は刀になる」
「えっ、あんたらまさか」
太った男が急に身を乗り出した。危うく落ちかかって、他の二人が慌てて抑え込む。
「き、聞いたことがあるぞ。代々海の怪物と共存して暮らす海の一族がいるって。なあ、そうなんだろ!あんたらが……」
「——————来るね」
船長の目つきが変わった。次いで、俺自身もその兆しを感じ取った。
「はい」
「え?おい、どうしたんだよ突然」
「兄さんたちも早く準備した方がいいよ」
手は忙しなく動かしたまま、狼狽える男たちに助言する。まだ状況を掴めていないようだ。
「もう、来るよ」
どばん、という爆音と共に、襲い来る波。音は後ろだが、三人の男が大口開けて見ているその光景は、見なくてもわかる。何度も見てきた。
立ち上がった太い水柱の中から、のっぺりとした黒い頭がぬうっと現れる。そしてでっぷりと太った、しかし筋肉を潜ませた巨体が次第に露わになる。頂点に到達すると頭部をくっと下げ、全身の骨と筋肉の音を鳴らしながら水中へと向かい、最後に角のついた尾を見せて去っていく—————
「尾角鯨だ!」
水柱となっていた水が、一斉に雨となって降ってきた。男たちはわあわあと騒ぎながら、隣の船で色めき立っている。俺は用意してあった“刈り投げ”を握り直した。縄の先に、峰の無い両刃の鎌を結んだような道具だ。
船長が水中を窺いながら、釣り竿の先に括った沖燕の死骸を、海面につけたり離したりしている。それを視界の端で確認しながら、意識を海の下へと集中する。
「…………」
ゆっくりと息を吐く。鯨と呼吸を合わせる。あの巨体の中の内臓の音を、筋肉の音を聞く。そして————
「危ない!」
「うわあっ!」
第二波は、男たちの船のすぐ近くで起きた。容赦なく肌を刺す水の粒に、太った男は頭を抱えてしゃがみ込んだ。距離を取れ、と叫ぼうとして、
「だめだ!」
船長の鋭い声に、俺は反射的に振り向いた。
「よく見な!“モドリ”だ!」
再び弾かれたように向き直ると、丁度平べったい尾が水中に吸い込まれていくところだった。そこに角は無い。
モドリか。全身から力が抜けた。————が、
「おいおいおいおい、何やってんだいアンタら!」
船長の張り詰めた声に、再び背筋が伸びた。
「えっ」
「何って……」
叱られたのは男たちのようだ。奇妙な体勢で停止している。
そしてその両手には。
何か、赤く、きらきらした。
「尾角鯨をおびき出そうと……」
「阿呆ッ!脂鮪の肉をぶちまけるバカがいるかいッ!喰われるよ!!」
青ざめた男の手から、大きな塊がぼと、っと落ちた。
脂鮪——我を忘れる程の、鯨の大好物。
ゾッ、と血の気が引いた。
「第一あいつはモドリだ、まだ尾角が刈られて三月経ってない。どっちみち生えてこなきゃ刈れないよ!」
船長の剣幕に気圧されながらも、ブローチの男はなんとか自分を奮い立たせているようだった。
「モド、リ?だの、角だのは、俺たちには関係ない!一匹狩って持って帰れれば、尾など無くても……」
「アンタらが敵うわけないだろうクソガキ!」
ざばん、とすぐそこの海が割れた。突き出した頭部は真一文字に裂け、無数の牙と赤黒い舌を覗かせている。
鯨の体内で血が沸き立っているのが、手に取るようにわかった。
「出すよ!」
船長の怒号に似た一声で、俺は金縛りが解けたかのように動き出した。
「兄さんたちも!逃げなよ!冗談抜きで喰われるよ!」
必死に手を動かしながら、腹の底から叫んだ。しかし、
「俺は、尾角鯨を狩った男になるんだ!」
ブローチ男の、震えを帯びた高らかな宣言の声。内心舌打ちをしながら、俺は船を出した。
俺と船長は、男が槍を鯨の背に突き刺すも、集まってきた鯨の大群に新品の船諸共食い散らかされるところを、遠ざかる船の上でただただ見ていた。
「バカだねェ……」
やり切れない思いを滲ませてぽつりと呟き、船長は煙を吐いた。
「……」
俺は黙って刈り投げの刃を拭き、縄を右手の四本の指に巻き取って片付けた。沖燕の死骸を釣り竿から取り外したところで、
「おや」
ぽつ、ぽつと雨が降り出した。上空を見上げると、いつのまにか灰色の雲で厚く覆われている。
「もう来るね。帰ろう」
船長は煙草をもみ消すと、陸の方を向いた。遠くで雷が鳴っている。
俺は支度をしながら、ふと、最後に一度、振り返った。すると、
「船長、あれ……」
「ん?」
もう随分遠くなった鯨の大群。そこはもう既に嵐の中であり、激しい雨と風に時折雷が走り、波は死に際の生き物のようにのたうち回っていた。
その中で鯨たちは。
笑っていた。
うっとりとしているかのような甘い声で鳴きながら。
声を出して笑ったわけでも口角を上げて笑ったわけでもない、しかし呼吸を重ねれば、その歓喜が手に取るように分かった。
「変な奴ら。楽しそうなこって」
ははっ、と船長は乾いた声で笑った。
「ま、あんな奴らに敵うはずがないってところだね」
「……」
船長が操縦に戻っても、俺は見えなくなるまで、その大群を眺めていた。陸に着くまで止まらなかった腕の震えと共に、一生消えない記憶となるだろうと思った。
俺たちは、鯨に生かされ鯨を生かし、鯨と呼吸を重ねることができる。しかし、ただそれだけなのだ。
分かることはできても、解ることはきっと一生できないのである。
———2017.07.05「鯨・煙・嵐」