断章 第40話 リライト ――羅刹王・還る――
ラーマ対ヒラニヤカシプの戦い。それはラーマが終盤になり優勢な状況で戦いを繰り広げる事になったものの、ヴィシュヌの化身のヴァラーハの力を身に纏ったラーマの掌底を受けたヒラニヤカシプの危機を見て取ったヒラニヤカシプの兄ヒラニヤクーシャが介入する。
そんな兄よりの言葉で若干不承不承ではあったものの、ヒラニヤカシプも撤退を承諾。ラーマもヒラニヤクーシャとヒラニヤカシプを同時に相手にする自身の不利を悟っており、背後から一撃を仕掛けなかったヒラニヤクーシャへの礼としてそれ以上の追撃を仕掛ける事はなかった。そうしてヒラニヤクーシャとヒラニヤカシプの兄弟が去った後、ラーマは疲れた様にその場に尻もちをついた。
「……助かった。ああやって姿を現してくれなければ、危うかった」
実のところ、ラーマがヒラニヤクーシャに気付いたのではなかった。気付かされたのだ。そしてヒラニヤカシプとヒラニヤクーシャを同時に戦いを行えるほど、ラーマも自惚れてはいない。故に、彼は安堵した様に尻もちをついたのだ。そうしてその場に腰を下ろした彼は、ヒラニヤカシプの激突により半壊し外が見える様になってしまったラーヴァナの居城から外を見る。
「……ラーヴァナの神軍が……消えている」
どうやらカイトとラーヴァナの戦いは順当にカイトが勝利を収めたらしい。ラーマは友の勝利に僅かな安堵を浮かべる。そうしてそんな彼は他の戦いを確認する様に、剣を杖に立ち上がる。
実は顔面に何度か殴打を貰った以外攻撃を受けていなかった様に見えたラーマであったが、状態としてはヒラニヤカシプと同等に厳しいものがあった。故に、彼は立ち上がった所で目眩を覚える事になる。
「ぐっ……衝撃を全て遅延させたが……あはは……これはどうやら、まだ行けそうにないかな……」
意識と視界がはっきりとせず、気配だけで周囲の状況をラーマは確認。なんとか外壁の穴に手を付いて、外へと歩いていく。そもそも、何度もヒラニヤカシプの拳打を頭蓋骨に受けたのだ。それでも頭蓋骨が砕けず頭が潰れたトマトの様にならないのは流石は大英雄ラーマであるが、衝撃まで全て無効化出来るわけではない。
特殊な魔術により強制的にダメージを遅延させ、脳震盪を防いでいたのである。もし後少し決着が遅れれば、負けていたのは彼だったかもしれなかった。故に、彼は数歩歩いた所で訪れた特大の頭痛により、思わず手を滑らせる。
「ぐっ!」
『と。最後まで、手の掛かる友だ』
「……この、気配は……」
『……』
しー。小さく、まるで少しいたずらっぽく囁くような、まるで風が吹き抜けたかのような音が、ラーマの耳に響く。それに、彼は笑った。
「……単なる、風か。そうだろう……誰も居ないラーヴァナの居城の壁の中……風が吹く事もあるか」
『……』
そうだとも。ラーマには友の無言の声が聞こえた気がした。そうして友に支えられて、ラーマは壁の端まで歩いていく。
「ふぅ……我が友に似た風よ、教えてくれ……戦いはどうなった?」
『戦いは、君達の側が勝利した。ラーヴァナはすでに虫の息。長くはない。インドラジットはかつて旅人であった女傑により、虜囚となった。他のラーヴァナの盟友も、遠からず敗走するか散るか選ぶ事になるだろう』
「そうか……流石は、名にし負うアルジュナ、カルナ、クリシュナか。不甲斐ないのは、私だけかな」
ほぼほぼ相打ちとなったのは自分ぐらいなものだろう。ラーマはまだはっきりとしない意識の中、そう笑う。そうしてしばらく休んでいると痛みも引いて、視界のブレも収まった。
「……ありがとう、友よ。そしてまた世話を掛けてしまった……風よ。友に、ありがとうと礼を運んでくれ」
まだ立てずとも目の前がはっきりとした頃には消えていた友へ届く様に、ラーマは小さく礼を風に乗せる。そうして風に乗って消えていった彼の礼が今は姿を消した友に聞こえる事はなかったが、確かに届いたとラーマは思う。
そんな彼は復活した視界を使い、地面に伏し息も絶え絶えの状態のラーヴァナを見る。気付けば、戦いはもう殆ど終わっていた。が、戻るつもりはなかった。だから、その場から小さく告げる。
「……ラーヴァナ」
「……ラーマ……か? 戻ってきたのか……?」
「……いや、違う。私は戻らない。戻ってはならないのだから。それは誰よりも、貴殿がよく知っているはずだ」
「……そうか……そうだったな……」
死に瀕しているからだろう。神であるラーヴァナの感覚はいつもより鋭敏に研ぎ澄まされ、小さなラーマのつぶやきも捉えられたらしい。そんな彼の呟きにも似た言葉に、カイトもおおよその事情を察したらしい。
「……最後に、話しておきたい事でもあるか? 後で届けよう」
「無い……我とラーマの間に語らいなぞ不要だ。我とラーマは敵同士。それに過ぎぬし、それで良いのだ……何時だって、我は奴にとって通り道に過ぎぬ。それで、良いのだ」
「……」
おそらく、両者の間には不思議な絆のようなものがあったのだろう。カイトは穏やかな顔で笑うラーヴァナに、そう思う。そうして、そんな彼は気を取り直してラーヴァナへと問いかける。
「であれば、誰か他には」
「……無い。インドラジットには全てを語った。奴もまた、ここで我が散る事に異論は無い……いや、一つ。一つだけ、あった」
「聞こう」
自らの誇りである息子にさえ無いと語ったラーヴァナであったが、一転何かを思ったかの様にカイトを見る。それに、カイトもまたラーヴァナの目をしっかりと見た。
「真なる王よ。次の時代を迎え入れる王よ……貴様に、一つ言っておきたい事がある」
「……それはオレの事か?」
「然り。何時か、この世を統べるであろう者よ」
一応の確認と問いかけたカイトに、ラーヴァナははっきりと、まるで死にゆく者である事を感じさせぬ強さで頷いた。
「……忘れるな。何時の世でも、変わる事を拒む者は居る。我の様に、だ」
「……知っている。変革を拒むのもまた、人の常だ。それ故、時代の移り変わりが起きる瞬間に争いは起きる。それは、物の道理であり人の世の常だ」
「……そうか。悟っていたか」
何故カイトがそれを理解しているかはわからない。わからないが、ラーヴァナにも彼が少なくとも悟っている事だけは理解出来た。故に彼は穏やかな顔で、しかしどこか嬉しそうな顔で笑う。そうして、そんな彼が問いかける。
「……そんな時、貴様は迷わず送れるか」
「受け入れるだけだ」
「拒み、壊すのであれば」
これもまた、世の常だろう。わからぬが故に、変わりたくないが故に、排斥し破壊する。それを人は拒絶反応と呼び、カイトもまたその拒絶反応を受けた者であるし、彼の魂は無数のそういった変革による軋轢を見てきていた。故に、彼は答えを述べる。
「……その時は、守るしかないだろう」
「くっ……排するではなく、守ると言うか」
「結果が同じであれ、オレはオレの大切な物を守る為に戦うだけだ」
「そうか……良い、心がけだ」
そこまでわかっているのであれば、今更無理に何かを言う必要もないだろう。ラーヴァナはそれ故に、カイトの在り方を良しと認め上体を起こす。
「……やってくれ。それもまた、新たな時代の担い手の責務なのだ」
「……」
さんっ。カイトは自身の誇りにして半身とも言える死神の鎌を取り出して、黒白の翼を背にエレシュキガルの力をその身に宿す。その姿こそ、まさしく今に繋がる全ての総決算とでも言えるものだった。そうして、彼はオイフェに連れられやって来ていたインドラジットを見る。
「……インドラジット……だな。何か、最後に言っておきたい事はあるか?」
「……無い。羅刹王ラーヴァナは雄々しく戦い、負け、そして散るのだ。それに何の不思議があろう。そこに誉れこそあれ、止める理由なぞどこにあろうか」
どうやら語り尽くした、というラーヴァナの言葉は正しかったらしい。カイトの問いかけを受けたインドラジットであったが、彼は一切の迷いなくカイトの言葉に首を振った。そんな彼に、カイトは重ねて問いかける。
「息子としてもか」
「……であれば、一つだ……楽にしてやってくれ、真なる王よ。父は、もう疲れたのだ。時代の変革に付き合えるほどの度量は、惜しむらくは父には無かった。かといって、父もわかっているのだ。今の時代に、そしてこれからの時代に、自分は相応しくないのだと」
「……」
インドラジットの言葉に、ラーヴァナはわずかに肩を震わせる。それはまるでそれこそ我が意である、と言っているかの様であった。
「そうか……ならば、次代の担い手の一人として。新たな時代へと進む者として、神代に残りし羅刹王ラーヴァナの介錯を務めよう」
「「……」」
カイトの宣誓に、ラーヴァナもインドラジットも僅かな感謝を胸に抱く。ラーヴァナはエレシュキガルと同じではない。彼女は次代へ進みたいと願いながらも、神々の取り決めにより時代に取り残された者。ラーヴァナは次代の訪れを知りながらも、自らの意思で過去の時代に残り、軋轢を生じさせた者。決して、同じにしてはならなかった。
「……羅刹王ラーヴァナ。最期の、問いかけだ。何か、言いたい事はあるか?」
「……無い。我が人生に、神としての生涯に一切の悔いは無い。唯一悔いがあるのであれば、人の子の手を借りねば去り得ぬ我が身のみよ」
「そうか……では、また次の時代のどこかで、羅刹王であった者として会おう。羅刹王ラーヴァナよ。その時は、刃ではなく盃を交えよう」
「ああ……新たな時代の担い手よ。次は、どこかで飲み交わせる事を願おう……そして、ラーマよ。シータよ。お前達とも」
笑ったラーヴァナが最後にラーマとシータへの言葉を残し、目を閉じる。それに、カイトは死神の鎌を振り抜いた。するとまるで世界に還ったかの様に、ラーヴァナの姿が消え去った。
「……インドラジット。貴殿は、どうする?」
「それを決められるのは、俺ではないだろう」
「好きにしろ。すでに破れた貴様の生死にまで私は興味はない。死にたければ、カイトに送ってもらえ。私はやらんぞ。貴様のわがままに付き合う意味はない」
やれやれ。インドラジットの言葉に、オイフェが肩を竦める。一応、自身の調整の為に本気でやったわけではなかったが、オイフェが殺そうとしなかったわけではない。
単に自身の調整をやりながら戦った結果、インドラジットは死ななかったというだけだ。なので敗者に興味はないとばかりに、オイフェはインドラジットを解き放つ。そんな彼に、カイトは改めて問いかける。
「……どうする?」
「……好きにするさ。父に殉じたい気分でもない。かといって、弔うのも何か違うだろう」
おそらく父にとっては新たな門出なのだ。それを祝うべきである事は、インドラジットも思う。が、そうではない事は、カイトにもこの場の誰しもにも理解出来た。そんな彼に、カイトは一つの小瓶を投げ渡す。
「ほらよ」
「これは?」
「傷薬だ。そのままだと死ぬぞ」
「……それを敵である俺に渡すか」
「敵であった、であって今もはや敵でなければ意味もない言葉だ。オイフェさんの一撃だ。神だろうと普通に死ねる。姉貴に何度か殺されかけたオレが言うんだ。信じとけ」
朗らかに笑うインドラジットに、カイトもまたどこか朗らかに笑う。気付けば、全ての戦いは終わっていた。誰が生き残り、誰が散ったのか。インドラジットにはそれもわからなかった。
「そうか……では、ありがたく頂戴しておこう」
「ああ……じゃあな、インドラジット」
「メーガナーダだ」
「ん?」
「インドラが支えし者が率いる軍勢に破れた今、インドラジットを名乗るのもおかしいだろう。元のメーガナーダに戻り、何がしたいか考えてみようと思う」
「そうか……それもまた、良いだろう」
自身に背を向けてそう告げたインドラジット改めメーガナーダに、カイトは一つ頷いた。そうして、戦いの終わりと共にメーガナーダはどこかへと去っていき、カイトが彼と再会するのは遠い未来の事になるのだった。
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