断章 第33話 幕間・エピローグ ――光と闇の交わる場所――
エピローグですが、まだ続きます。前編のエピローグとお考えください。
アルセーヌの引き起こした事件から、数日。カイト達が今度は数日後に迫った姉妹校提携に関わるパーティの準備に勤しんでいた頃だ。レイヴンは一旦その作業を中断して、ホームズと共にとある場所にやって来ていた。理由はホームズが是非とも、と頼んだ事だ。そして同時に丁度世間が土日の休みに入って姉妹校提携の作業も中断出来たからでもある。
「ふむ……」
「どうですか、先生」
ある有名な滝を目の前にしたホームズへと、レイヴンは問いかける。事件の終了と同時にホームズはレイヴンを伴ってタイラー氏の所に感謝に行くと、その後ここに来たいと申し出たのだ。
「ライヘンバッハの滝……か。シャーロック・ホームズとジェームズ・モリアーティ教授が落ちて、モリアーティ教授が死んだ滝……」
ざー、という音を聞きながら、ホームズは只々ライヘンバッハの滝を眺める。そうして暫くの沈黙の後、ホームズが少し照れ臭そうに口を開いた。
「レイヴンくん。実に申し訳ないのだが……実は君に一つ嘘を言っていてね」
「はぁ……」
「実は私はここに一度来ているのだよ。いや、正確にはここではないがね。この滝を見たことがない、というのは真実だよ」
「え? あ、そ、そうなんですか?」
唐突なホームズの暴露にレイヴンは思わず呆気に取られた様だ。が、少しして気を取り直して問いかけた。
「でも、それなら何故ここに?」
「ああ、そうだな。ここに来たとはいえ、ここではない以上私がここに来る意味は無いと思われる」
「では、何故?」
「ふむ……興味深い質問だ。この滝に落ちたからとて、今の私では死ぬことも無し。よもや帰ることも出来ないだろう。では、その私が何故ここに来たのか。さて、何故だと思うかね?」
楽しげに、ホームズはレイヴンへと問いかける。それに、レイヴンはわずかに考えた後に答えた。
「ここに特別な意味があった……ですか?」
「うむ、正解だ。そして特別と敢えて言った事も好印象と言える。君にはわかり得ないのだからね。君はまぁ、ワトソンくんよりも賢いらしい……私が居た頃というべきか、私が居た場所というべきか……このライヘンバッハの滝の側には一つこじんまりとした教会があってね」
「ああ……それなら教会堂がこの近くにありますよ」
「ああ、いや……それではないよ。もっとこじんまりとした、本当に個人が運営している様なぐらいにこじんまりとしたものだ」
大昔を思い出す様に、ホームズはわずかに目を細める。そうして、当時を思い出しながら口を開いた。
「始めるなら、ここでないとダメなのだよ」
「ここ、ですか? 先生の世界ではここで何が起きたんですか?」
「……もう少し、待ちたまえ。そうは掛からないだろう」
レイヴンの問いかけにホームズはどこか楽しげに、しかし数日前に身に纏っていたある種の英雄としての格を身に纏う。そうして、まるでそれに呼び寄せられたかのように一人の男性が滝の逆側に現れた。
まぁ、別に珍しくもない。世界中にシャーロキアンは居るわけで、今日は土日で世間は休みだ。有名なライヘンバッハの滝に観光客が来ても不思議はないし、そんな観光客がホームズを見て親しげに話しかける。
「おや……観光ですか?」
「ええ、そんな所です。貴方は?」
「私も、そんな所です」
滝の逆側に立った観光客は楽しげに、そして同好の士と見たからか親しげにホームズの問いかけに頷いた。そんな彼はホームズへと更に問いかける。
「ここに来られたという事は……貴方達もやはりシャーロック・ホームズのファンですか?」
「あははは。私はどちらかと言えばモリアーティ教授のファンですよ。彼が居るからこそ、ホームズという男は輝いて見える。モリアーティという男はホームズという男を浮かび上がらせる影。居なくてはならない存在ですよ」
「おや……これは通な意見ですね。まぁ、かく言う私はホームズのファンですが……ですが、そうですね。どちらもどちらかが欠けては、意味のないものなのでしょう」
「そうですね」
観光客の言葉にホームズは笑って頷いた。そうして一頻り談笑を行った所で、観光客の後ろから声が掛けられた。どうやら彼も彼で何人かの同行者が居たらしい。見た所学生の様子だった。
「先生! あまり近付き過ぎると落ちますよー! 先生、どこか抜けてるんですから!」
「ああ、うん! そうだね! すぐに戻るよ! あはは。教え子達に叱られてしまいました。では、私はこれにて……こうやって出会えたのも何かの縁。また何時か、どこかでお会いいたしましょう。ミスター」
「ええ、そうですね」
観光客の言葉に、ホームズは親しげに頷いた。そうして観光客は一つ頭を下げて、こちらに手を振る若い青年達の所へと向かっていった。その背を見送りながら、ホームズが小さく呟いた。
「ええ、モリアーティ教授。何時か、必ず貴方の手に手錠を掛けに参りますよ。今回は、タイム・リミットは無しだ。地の果てまで、追いかけましょう」
「へ?」
楽しげなホームズの告げた名前を聞いて、レイヴンが目を丸くする。それに、ホームズが笑って教えてくれた。
「ここで、彼は死んだのだよ。だから、ここから始める……それだけの事だ。追っかけっこの途中だったのでね。ならここから始めるのが筋だろう、と彼なら思うと考えただけだ。存外、犯罪者でなければ私は彼とは仲良くなれそうでね。これぐらいは長い付き合いの中で理解するに至ったよ」
去っていくモリアーティの背中を見送りながら、ホームズは苦笑する様に笑う。しかしそんな彼の顔と去っていくモリアーティの背を何度も交互に見ながら、レイヴンが慌てた様に問いかけた。
「い、いえ! そうではなくて、ですね! なら何故」
「追わないのか、か?」
「……ええ」
レイヴンはホームズの問いかけに不満げに頷いた。その視線の先にはこちらを一度も振り向く事なく歩くモリアーティの背があり、金の髪が優雅に揺れていた。
どこかの貴族と言われても信じる程の優男だった。はっきりと言ってしまえば、レイヴンが抱く『モリアーティ教授』の印象とは真逆の男とさえ言えた。そんな彼の背をホームズもまた、見送っていた。が、その眼光は先程までの柔和で楽しげなものとは違い、はっきりとした力強さがあった。
「……彼は今回、一度も犯罪を行っていないからだ。我々は探偵……犯罪者を捕らえる者だ。犯罪を犯していない者を捕らえる事は出来ない。それが喩え、何時か犯罪を犯す事になろうとも、だ」
「? どういう事ですか? 今回の一件は間違いなくアルセーヌとモリアーティ教授が犯人です。それが何故……」
「ふむ……それは些か誤解があるようだ。では、今回の事件の犯人をしっかりと洗い直す事にしよう」
レイヴンの言葉にホームズはモリアーティ教授の背から視線を外す事なく、改めて問いかける。
「レイヴンくん。君は今、ようやく姿を現したジェームズ・モリアーティと出会ったわけだが……君は彼とは初対面で間違いないね?」
「ええ、まぁ……彼の人格データをコピーした存在とは会いましたが」
「そう。我々が出会ったのはモリアーティ教授をコピーしたコピーだ。本物ではない。なので突き詰めれば、今回の事件の主犯はコピー・モリアーティ、共犯がアルセーヌとなる……あの男を今ここで問い詰めたとて、彼はこう言うだろう。それは不幸な事だ。私は知人に頼まれて人工知能開発の協力をしたのだが……とね。モリアーティという名では活動していないだろうし、経歴もあのアルセーヌの手で偽造されているだろう。相手は邪神。調べるのは些か難しい作業となるだろう」
「あ……」
ホームズに指摘されて、レイヴンが目を見開いた。そう、彼らが戦ったのは、あくまでもモリアーティのコピー。当人ではない。
どれだけ当人と等しい存在であろうと、究極的には別人なのだ。コピーの犯した犯罪をオリジナルに償わせる事は出来ない。法整備がそもそもされていないし、そんな事は想定されていない。
そしてもし想定され法整備がされたとて、オリジナルが指示したという明確な証拠が無い限りは捕らえる事は出来ないだろう。そしてその指示を示す証拠はおそらく、今後も永遠に出てこないだろう。
更に言えば彼が犯した犯罪はこの地球の事ではなく、ホームズの世界での事だ。立証出来ない。つまり、彼は公的にはこの世界では何ひとつとして犯罪を犯していないのである。捕まえられる罪状がない。そうして、ホームズがレイヴンへと問いかけた。
「我々探偵が最も重要視する事……それが何かわかるかね?」
「真実を解き明かす事、ですか?」
「うむ。正解だ。が、それでは半分だ」
「はぁ……」
ホームズの言葉にレイヴンは改めて自分の頭で考える。この自分で何とか解き明かそうとする姿勢は、ホームズにとって好ましいものだった。ワトソンの様にはいかないだろうが、少なくともこの世界において自分の相棒には相応しい存在になれるだろう、と内心で認める程度には認めていた。が、それは今ではない。まだまだ彼は見習いも良い所だ。だから、ホームズは自分の答えを語る。
「冤罪を生まない事、だよ。当然だが、犯人達は犯行を隠したい。が、何より隠したいのは自分達が犯罪者だとバレる事だ。そのために犯行を隠すのだからね。だが、完璧な隠蔽は無理だ。となると、他者を犯人に仕立て上げる事もあるだろう……我々が最も心掛ける事は、その冤罪を無くす事。誤った犯人を捕らえてはならない。私はそう思っている」
「だから、モリアーティ教授を追わないと?」
「ああ。難儀な話だとは思うがね。犯罪を犯すと分かっていて、それを止めないのだから」
ホームズはレイヴンに対してわずかに苦笑気味に笑いかける。それに、レイヴンはわずかに抱いていた内心の不満を忘れる事にした。ホームズの顔から彼もまたどうにかしたいが出来ないと理解したからだ。故に、不満ではなく別の事を語った。それはとある映画の事だ。
「……二十年ぐらい前でしたか。未来を予知出来る力を持つ者の力を借りて犯罪を予知し、その犯罪者を捕まえる世界となった地球の事を描いた映画がありました。主人公はその予知された犯罪を報告する者、という所でしょうかね」
「ほう……興味深いね。その流れだと、大方主人公が犯罪者となる未来でも予知されたかね?」
「ええ……最後は紆余曲折を経てその未来予知が正確ではない、と判断され、犯罪者とされた者は全員解放されたそうです。それと同じで、彼ももしかしたら犯罪を犯さないかもしれない。そう考えましょう」
「ふむ……そうだな」
そんな事はあり得ないだろうが。二人はそう思いながらも、そして僅かなもどかしさを感じながらも今はそれで良しとしておく。彼らは探偵。真実を解き明かす者で、謎が無い以上は動けない。そうしてホームズはいつの間にかかなり遠ざかっていたモリアーティの背を改めて見据える。
「覚えておきたまえ……あれが、この世で最も恐ろしい犯罪者。ジェームズ・モリアーティだ」
「手強い相手になりそう、ですね」
「ああ、手強いとも。私が最後の最後まで捕まえる事が出来なかった男だ。時に大胆不敵に。時に蜘蛛の様に慎重に……彼以上の犯罪者を私は知らない。私とて奴の犯罪の痕跡を見つけ出すのに十数年必要だった」
何年先に動くだろうか。ホームズはモリアーティの事を考えながら、何時か届かせるという決意を胸に手を伸ばす。
「……彼はおそらく、しばらくは動かないだろう」
「どうしてですか?」
「手駒が無いからだ。彼が動く時には幾重にも渡って……蜘蛛の巣の様に策を、人脈を張り巡らせた上で事に及ぶ。私がここで孤立無援になったと同じく、彼もまたここでは孤立無援であった筈だ。ゼロから作り上げるのに何年必要なのだろうな。前の時は彼はその為だけに半生を費やした……彼はゆっくりと、蜘蛛の様に相手が罠に掛かるのを待って、闇へと捕食する。そうして自身の餌が十分に整った所でようやく、世界に打って出る。そして打って出た時には一大勢力となっている……」
何度となく、モリアーティの経歴を洗ったからだろう。ホームズはモリアーティという男の策略を理解していた。そして、逆もまた然りだ。
「前は一人で挑んだが……」
今回は探偵も二人だ。まだ片方は未熟だが、将来性はある。あの頃とは違うとホームズは考えていた。だが、それで安心出来る相手ではないとも理解していた。そうして、モリアーティの背が見えなくなった所で二人もまたライヘンバッハの滝を後にして、ロンドンへと戻る事にするのだった。
お読み頂きありがとうございました。




