断章 第32話 ジェームズ・モリアーティ
ホームズの手によって若かりし頃のモリアーティの人格データのコピーが入ったサーバの電源が落とされた直後。サーバはまるでそれ自体が夢であったかのように自然と崩れ去った。
「……」
崩れ去るサーバを見ながら、ホームズは僅かな沈黙を保つ。と、それに影響されてか誰しもが沈黙を得た中、ふと部屋全体の揺れにカイトが気が付いた。
「うん?」
「ああ、そういえばうっかりしていたよ。そのスイッチ」
「うん?」
ホームズはアルセーヌの指摘を受け、手に持ったままだったスイッチを改めて見る。そうしてよく見てみれば、スイッチの横には押すな、と英語で書かれている事に気が付いた。
「これは……」
「いやぁ、申し訳ない。それ、実は自爆スイッチも兼ねていてね。ああ、始まった」
「おい、おいぃいいい!?」
唐突に轟いた爆音に、レイヴンが声を荒げてアルセーヌへと詰め寄っていく。そして勿論、爆音に合わせてさらに巨大な地響きと地震がやってきた。
「なんて事をしてやがんだ、てめぇは!」
「あっはははは! 怪盗は逃げる時、ド派手に逃げるものだろう!?」
「てめぇは何時も派手過ぎるんだよ!」
楽しげなアルセーヌの胸ぐらを掴み、レイヴンが声を荒げる。が、そんな様子にさえアルセーヌは楽しげだった。と、そんな時だ。一際大きな地響きが一同へを襲いかかった。
「おっと……これは……まずそうだ!」
「レイヴン! そいつはもう放っておけ! どうせそいつもニャルラトホテプ! 死にゃしねぇよ!」
ある意味ではアルセーヌとじゃれ合うレイヴンへと、一足先に退路の確保を行なっていたカイトが声を掛ける。気付けば既に教授達も撤退済みだった。
「ちっ! 覚えてやがれ! 今回の蜘蛛の巣の件も含めて次の時にゃぶん殴るからな!」
「あっはははは! そんな事を言っている場合かな!?」
己の胸ぐらを手放して急ぎ足で逃げ出したレイヴンに対して、崩壊する部屋に一人取り残されるアルセーヌが笑いながらそう告げる。そうしてレイヴンが通り過ぎたのを見計らった様に、出入り口が崩壊した。
「……」
崩落していく部屋の中で、アルセーヌは静かに笑う。そうして、彼はスマホを取り出した。
「やぁ、モリアーティ教授」
『ああ、アルセーヌさん。どうしました?』
「いえ、事件が終わりましたので。ご協力いただいた事へお礼でも、と」
『いえいえ。それで、彼はどうでしたか?』
どうやら、電話口の相手はモリアーティらしい。彼は楽しげに、今回の事件の首尾を聞いていた。それに、アルセーヌは自らが得た所感を語る。
「貴方が仰られた通り、変わった方でしたよ」
『それは良かった。彼は私がいなくなった後、生きがいを無くしたかの様になったそうですが……ふふ。やはり張り合いの無い相手では面白くない。発破をかけられるぐらいの役には立ちましたか』
モリアーティは自身が居なくなった後のホームズの事を又聞きでしか知らない。故に、自らの宿敵の現状にわずかな危機感を抱いていたようだ。
「あはは。それなら、心配はご無用ですよ……それで、そちらはどうですか?」
『ああ、こちらですか?』
「ええ」
『有り難い限りですよ。元々私は教授ですし……教え子に囲まれるという生活には慣れています。それに、ここは私にとって非常に興味深い場所だ』
アルセーヌの問いかけにモリアーティは非常に嬉しそうにそう語る。そんな彼は、電話口から前を向いてそちらに何時ものミステリアスな笑顔を向ける。
「……ふふ」
響いたのは黄色い声だ。まぁ、彼ほどのミステリアスな美男子だ。普通の女性なら放ってはおかないだろう。
「イギリスでも有数の大学……よくこんな所に伝手がありますね」
『あははは。どこの世界でもどこの土地でも、上に行けば行くほど闇は深いものですよ。ああ、ご安心を。貴方の身元が疑われる様なことはありません。ただ、少し口利きをして頂いただけです』
「あはは。信頼させて頂きます」
モリアーティはアルセーヌの言葉を信頼していた。彼はこういう取引は守る相手だと理解していたし、向こうが自分を有用だと判断しているとも認識している。疑われる要素はどこにもないだろう。無論、それはモリアーティ自身が迂闊な事をしなければ、だが。
そして残念ながら、彼の騙す力やのらりくらりとはぐらかす力は百年も昔に実証されている。ホームズ以外に彼を疑えた人物が居ない事が何より、それを証明している。喩え彼が犯罪を犯したとて、バレる事はあり得ないだろう。
『ああ、そう言っても肉体については既に述べた通りですので、定期的に居場所を変えた方が良いでしょう。裏に関わる者はこの地球では鉄則として覚えている事です。それだけは、どうかご理解を』
「ええ、分かっています。それについては伝手をくれて感謝しますよ」
『いえ、いえ……どうやらお互いに探偵に睨まれる事になりそうですからね。私としても定期的に貴方と組む事があるかと思いまして』
「それは……ご愁傷様と」
楽しげに、モリアーティはアルセーヌへと労いの言葉を送る。そうしてそんな彼は改めて明言した。
「まぁ、その時にはご協力させて頂きますよ。裏から、ですが」
『それで、良いですよ。貴方は蜘蛛であり、私は怪盗だ。お互いに領域が違う。そして貴方はまだ巣を張れていない。表立った支援なぞ求めませんよ』
「ふふ……しばらくは私もここで生きる力を蓄えたく思います。巣を張り巡らせるより、足元を整えねばなりませんからね。なのでしばらくはご遠慮頂ければ」
『それは勿論』
モリアーティの要請に対して、アルセーヌは笑って頷いた。と、そんな彼は一つ興味深げに問いかける。
『そう言えば……モリアーティ教授。一つお伺いしても?』
「良いですよ? 答えられる事なら、ですが」
『何故今更教授なぞ? 元教授だったはずですが……当時の貴方でも望めば教授に戻れたと思うのですが……それをなさらず何故こちらでは改めて教授なぞ?』
「……ここが、私にとって一番良い場所だからですよ」
アルセーヌの問いかけに、モリアーティはそう嘯いた。が、これは半ば嘘であると同時に、半ば本当だ。だから、彼は敢えて大学の教授を行う理由の半分を口にした。
「私は数学者である事に間違いはありませんし、数学という学問を愛しています……そこに嘘偽りはありません。なのでそれを仕事に出来る大学とは最も良い場所でしょう? まぁ、ここはハイスクールも併設されているのでそちらでも教鞭を執る事になりそうですが……どうにせよ、数字と関わって生きていける事に違いはない」
『……まぁ、そうですね』
本当ではあるし、嘘だろうな。崩落するどこかで、アルセーヌはモリアーティの嘘に気が付いていた。なにせ彼は怪盗だ。嘘なら、彼の方に一日の長がある。
が、それに彼は良しとした。そもそもの話として、この問いかけに特に意味はないからだ。敢えて言えば、彼が気になったから、というだけで良い。それ故、彼はその答えを良しとして会話を終わらせる事にする。
『では、モリアーティ教授。今回の事件はこれにて終了という事で』
「ええ……では、また次の夜会で」
モリアーティはそう言うと、スマホをポケットに仕舞い込む。そしてそれと共にアルセーヌもまた顕現の解除により崩落した異空間から脱出して、闇の中に消えた。そうして消えたアルセーヌの一方で、モリアーティは光の照らす場所で優雅に紅茶を口にする。
「……ふふ。ここは非常に未来のある者達が集う場所。だから、私はここが好きなのですよ」
モリアーティはミステリアスなれど、どこか危うい色香を感じさせる笑みを浮かべる。その笑みの先には、一人の女子生徒が居た。
「ふふ……どんな花になるでしょう。ジャック・ザ・リッパーの様な花を咲かせてくれるでしょうか」
彼女は『逸材』だ。ジャック・ザ・リッパーに匹敵する程に。モリアーティはそう思っていた。ゆえにこの学校の生徒の中でも一際目を掛けていた。無論、まだ少しの付き合いなので警戒はされている。
が、それは当然だと思っているし、だからこそ彼は楽しくも思う。この少女がどの様な経緯を見せてくれるのか。それを想像するだけで、十分過ぎるほどに楽しめる。
「彼女は何時か、罪を犯す」
自分の関わらない所で。自分の知りえない所で。何時かは分からないし、そこに興味はない。が、何か重大な罪を犯す事は確実だ。モリアーティはそれを本能で嗅ぎ取っていた。
それまでに信頼を、それこそ自分で罪を告白してくれるほどの信頼を得る必要がある。必要なら、抱いてあげるのも良いかもしれない。あまり依存されるのは好きではないが、現状だと多少自分に依存してくれた方がその後にも役に立つ事がある。必要な事なら何だってやるつもりだった。
「……あぁ、だからこの仕事はやめられないのです」
モリアーティは楽しげに、耽美な笑顔で笑う。この瞬間が、彼女がどう転落していくのかを考えている時が生きている中で一番楽しい。彼はそう思っていた。彼には生来、罪人となる素質を持つ者を嗅ぎ分けられる力があった。その嗅覚に、彼女は反応したらしい。
だがその答えが分かっても道筋、彼の数学に例えれば解法が分からないのは気に食わないそうだ。だから、彼は敢えてその咎人になる者達を放置する。そして、時には自らの知恵を授けて堕ちる手助けをする。長年観察する中で、手助けをしてやらねばならない時がある事を理解したそうだ。
しかしその結果に興味はない。最初から堕ちるのが分かっているからだ。だから、彼にとって意味がある事はどの様にしてまともな人間が異常者という結末に堕ちていくのか、答えを導き出す解法だけだ。
「ジャック・ザ・リッパー……いえ、ジェーン・ザ・リッパーとの出会いもまた、学校でしたか」
懐かしい。モリアーティはそう思う。彼女を男だと世間が誤認する様な知恵を与えたのは、自分だったな。ジャックとは名無しの権兵衛の意味。本来は男性であるかどうかも分からない筈だ。
なのに、ジャックという名を付けられたが故に誰もが切り裂きジャックは男性だと思いこんでいる。だが、そういった誤解を与えられる様にしたのは他ならぬ彼自身だった。
マスコミに手を回して、敢えてジャック・ザ・リッパーという二つ名を与えさせた。犯人は男だ、と思わせる為だ。他にも数々の策を与えてやった。それを、『逸材』を見付けて思い出した。
「あぁ、そうだ。マスコミや警察、軍への伝手も必要ですね……他にもネットの勉強もしないと。このご時世だとどこかに裏サイトもありそうですし……ああ、情報の流布の勉強も……」
必要な物は多い。なにせ行うのは犯罪だ。バレては拙いのだ。それをモリアーティはよく理解していた。だから徹底的に、それこそ病的なまでに自らの痕跡が残らない様に策を張り巡らせる。そのためには必要な物は多い。自分に直接繋がらない様に人員だって必要だ。それを準備していれば五年十年なぞあっという間だろう。
が、別に苦には思わない。その間にもあの女子生徒の様に見たいものは見れる。ただ多くの堕落を見たいのなら、より確実に罪の隠匿をしたいのなら、というだけだ。何より犯罪を後押ししてやるにも、相手の信頼を得る必要がある。その信頼を得る最高の手札は、相手が隠したい犯罪を隠蔽出来るという事だ。それを是が非でも手に入れる必要があった。
「ふふ……」
ああ、楽しいな。モリアーティは楽しげに笑う。現代は自分の常識が通じずに困る事も多いが、それ以上に楽しくて仕方がなかった。彼はホームズとは違い、実は帰ろうというつもりは一切無かった。
それこそホームズが去ったとて帰ろうとは思っていない。些か人生に面白みが無くなるとは思うが、それだけだ。なにせ彼が居た時代より今の時代の方が遥かに面白いと思ったからだ。
世界はネットで繋がった。飛行機で一日以内にどこにでも行ける。それは彼からしてみれば、世界中の多種多様な堕落を目の当たりに出来るという事にほかならない。楽園としか言い得ない時代に来たのだ。戻りたい筈がなかった。
「流石は、ミスター・ホームズ……でしょうね」
楽しげに、モリアーティは自らの仇敵に称賛を送る。彼はホームズが自分が謎を解かせたいのだと理解していたと気付いていた。
それはそうだ。彼がロンドンが好きというのは事実だが、同時に人類に滅びて貰っても困る事もまた事実だ。彼の趣味は人間の墜落する様を見る事。人類が滅びては意味がないのだ。もし人類に危機が迫れば、その時は等しく地球に住まう者としてホームズ達と手を組む事だってするだろう。それこそ、彼の側から協力を申し出る。
「さて……そう言っても。やはり何事にも開始は必要でしょう」
モリアーティは笑みを浮かべながら立ち上がる。まぁ、わかると思うが実は彼はホームズがこの地球に現れるよりも随分と前にこちらにやってきていた。が、アルセーヌからホームズを呼ぶと聞いていた。故に彼も協力をした。が、その目的は彼が語った通り、ホームズに発破を掛ける為だ。そしてそれが終わったのなら、必要な事があった。
「……驚いては、くれないでしょうね」
驚いてくれれば良いのだけども、それは望めないだろう。モリアーティはそう思っていた。が、やはり何事も始まりは重要だと彼は思っていた。それに、これは別の目的にも有効だ。だから、彼は立ち上がって今彼が抱える――と言っても流石に彼がメインというわけではないが――ゼミの生徒達の所へと向かう事にするのだった。
お読み頂きありがとうございました。




