断章 第29話 閑話 ――謎へ――
厄介だ。一言で言えば、現状にはそれしかない。まず第一にあまりに常識と違っている。中々柔軟な発想を持っていると思う私であるが、つくづく自分がしがない一般人でしかなかった事を思い知らされた。
これが兄であるのなら、おそらく椅子にでも座りながらそうか、とでも一言言って全てを飲み下し理解していただろう。つくづく、兄の豪胆さと才能には嫉妬しかない。
私の肝が鋼鉄で出来ているのなら、彼の肝はドラゴン……いや、龍と言うべきなのか。それぐらいには差がある。まぁ、兄に言わせればお前のその精力的な所は素直にすごいと心の底からの称賛と尊敬を露わにされるのだろう。流石に六十年も生きれば兄も私もお互いに自分が持つ物、もたざる物を理解している。嫉妬する時期なぞ遠に過ぎた。ただただお互いに尊敬を交わし合うだけだ。
「はぁ……」
とはいえ、こんな時に兄が居てくれれば、と素直に思わないでもない。あの第三の謎が見付かった日から、数日。やはり私の予想通り、次の事件は起きなかった。第一の事件も第二の事件ももう終わった事件だ。終わった事件が続くのはルール違反だ。
「……多分」
私は改めて、誰かの直筆の手紙を見る。いや、誰か、なぞと言うつもりはない。あの時、おそらく数人の目ざとい方は気付いただろう。私が僅かに眉を動かした事を。それを単なる訝しみや考察の為に出来る様にその後は偽ったが、その程度でなんとかなる程周囲の方々は愚昧ではない。ただ、何かがあるのだろうと察して何も言わなかっただけだ。
「……私は、モリアーティ教授との戦いの為にはライヘンバッハの滝には行かなかった」
これは事実だ。これをレイヴンくんに告げた時、彼は心底驚いていた。経験していない以上私が知る由もないのは当然だが、私はあの『最後の事件』を知らなかった。
が、この世界の『シャーロック・ホームズ』においては、これはそれほど重要な事件らしい。私も、聞いて思った。もし起きていたのなら私にとっても重要な事件だっただろう、と。うむ。後で可能ならば読む事にしよう。何時になるかは、わからないが。
「……貴方なんでしょう、ジェームズ」
まさかこの名を親しげに呼ぶ日が来るとは、私自身思ってもいなかった。いや、思うわけもない。親しさはない。が、それでも久しく失われていた活力が満ち溢れている事だけは、事実として実感していた。
「最後に気の利いた言葉を返せなかった詫び……か」
思い出す。最後の最後。私は彼に逃げられた。無論、懇意にしている刑事さんやワトソンくんからも全て逃げ切った。私は最後の最後で、彼に負けた。いや、彼自身も敗北したのだろう。なにせ手紙には私と君の負けだ、とはっきりと明言していたのだから。
そうして、私は一度だけ目を閉じる。何故か。その最後の時を思い出す為だ。これは私の、私と私が知るジェームズ・モリアーティとの最後の戦いだ。
『ジェームズ・モリアーティ!』
先にも言ったが、私はライヘンバッハの滝には行かなかった。いや、だがこれは間違えないで貰いたい。私は確かにジェームズ・モリアーティが手を貸した大半の犯罪において彼に勝利を収め、彼の率いていた犯罪組織を壊滅させる事に成功した。が、最後の最後で彼を取り逃がした。
この世界では、彼は最後の最後に私に戦いを挑んだ事になっているらしい。理由はレイヴンくんから聞けていない。が、私の世界では違う。彼ほどの……そうだな。この言い方しかない。彼ほどの才能と忍耐力、我慢強さを持つ男が一度負けたぐらいで武力に訴えかける事なぞあるわけがない。
彼は最後の最後まで、私と戦い続けた。私が引退したのは、はっきり言えば彼が死んだからだ。私がモリアーティ教授の足跡を辿り続け、ようやくその居場所へとたどり着けたあの日。私は彼が潜伏しているというある教会へとたどり着いた。が、一日遅かった。
『……お待ちしておりました』
これで全ての決着を。そう意気込んで警官達と共に教会に乗り込んだ私を出迎えたのは、その教会の牧師だった。それで、私も全てを察した。この世にもう私を……認めよう。私を満足させられるだけの知性を持つ稀代の大悪人が居なくなったのだと。
そうして、彼は私を教会の奥の間へと案内してくれた。ここら、日本の武道を学んだ私だ。死者を騒がせてはならない、と一緒に来てくれた警官達に断りを入れて一人先に進ませて貰った。その私の横顔に何か思う所があったのだろう。誰もがそれに納得し、私一人だけを進ませてくれた。
『モリアーティ氏のご依頼で、貴方にこれを』
『手紙、ですか?』
『はい……代筆を申し出たのですが、この手紙だけは自分で、と』
ああ、はっきりと認めよう。そこに刻まれていた文字は数日前に私が見た手紙の文字にそっくりだった。それを更に力強くしたものが、あの手紙に書かれている文字だった。そうして、私はゆっくりと手紙の封を切る。
『これを、君がなるべく早い内に見てくれる事を願う。叶うことなら見ない事を願うがね。どうやら、君と二度目の対決を私は交わせなくなった様だ……』
しばらく、私は呆然となりながらもモリアーティ教授からの手紙を読んでいた。そうして全てを読み終えた後、意を決して横たわった老人の白布を取った。
『……』
そこにあったのは、衰えながらもかつては優秀な教授だった事を伺わせる知的な顔だ。だがそれは冷たく固くなっており、目は閉じられていた。それを、私はただ複雑な顔で見るしか出来なかった。そんな私に、牧師が教えてくれた。
『昨夜……と言っても、およそ8時間程前でしょうか。嬉しそうにワインを片手に貴方の事を語った後、朝起きたらこの通りで……おそらく一切苦しむ事もなかったでしょう。まさに、眠るように息を引き取ったという言葉が相応しいでしょう』
『……』
安らかな死というものがあるのなら、私はこれ以外には考えられなかった。もし私がどう死にたいか、と言われれば素直にモリアーティ教授の死に方を申し出たい。それほどに彼の顔は安らかだった。が、偽装でもなんでもない。何人もの死を看取った私だから、分かる。これは間違いなく、死人だ。
だが、この時の私には素直になんと言えば良いかわからなかった。この手でこの男は必ず捕まえる。そう決意してやってきたのに、私よりも先に死神がこの男を連れ去ってしまった。
『彼はその時、なんと?』
『……後数日で彼が来る。それまでに死神が来るかどうかは運次第という所だろう、と』
『……そうですか……つまり、私の負けと』
『いえ、貴方は勝者で間違いない。モリアーティ氏は後数日は来ない、と高を括っていた。だが、貴方はその次の朝……この早朝にやってきた。彼と貴方の最後の戦いは、間違いなく貴方の勝利だった。ただ、第三者の介入があったというだけです』
これが何の慰めになるのだろう。私はそう思った。いや、そう思わざるを得なかった。死神という第三者が介入した、なぞ信じたくなかった。
『……』
それから、私はワトソンくんを呼んでモリアーティ教授の正式な死因や様々な鑑定を行って貰った。が、結論から言えば彼も首を振るだけだった。長年追い続けた男は、最後の最後に私も彼も、それどころかモリアーティ教授自身さえ勝てない相手によって敗北した。それが、私の世界における事実だった。
無論、警察にとってはある意味幸いだっただろう。なにせこれで犯罪界のナポレオンが姿を消してくれて、この世から居なくなってくれたのだから。わざわざ面倒な裁判をして絞首台に送る必要さえないなぞ、彼らからしてみればなんとも楽な仕事だと言えるだろう。
ただ被疑者死亡、と記せば良いだけだからだ。そんな相手の死を医者として正式に告げたワトソンくんは改めて、私を見て問いかけた。
『先生。どうしますか?』
『ふむ……』
まぁ、長い間追いかけていた相手だ。そして死んだのだ。恨みが無いわけでもないし、言いたいことが無かったわけでもない。が、流石にここまで安らかに死んだ姿を見て何かを言うのは憚られた。何より、死体をこのままにはしておけない。
そうして気付けば私はモリアーティ教授の埋葬に立ち会い、彼の墓の前に立っていた。と、そうして神妙な面持ちで彼の墓を見る私に、ワトソンくんは何を思ったのだろうか。ふとこんな事を口にした。
『まさか地獄の果てまで追いかける、なぞ言いませんよね?』
『……くっ……っははははは。いや、流石にそんな事はしないさ。そこまでしてやる義理はない』
『あはは。そうですよね。いや、失礼しました』
ああ、本当に私は良い友人を持った。モリアーティ教授の死は私にとって良い事ではないが、別の側面からは良い事なのだろう。そうして一息ついた事で、私は気分を入れ替えられた。
ああ、後にワトソンくんと手紙でやり取りを交わしたのだが、この時の私は所謂燃え尽き症候群だったそうだ。気分を入れ替えさせようと思ってあんな冗談を言った、との事だった。まぁ、流石に二十年以上も追い回した相手が見付かったと思えば死体だ。言われて私も素直に納得した。思い返してみれば、この時の私には妙な虚無感というものがあった。
「地獄の果てまでは追いかけるつもりは無かったが……」
まさか別世界まで追いかける事になるとは。が、それ故にこそやる気が満ち溢れてきた。どうやら連れ去ったのは死神ではなく、別の神様だったらしい。粋なことを、とは思わない。その所為で取り逃がした。
一度は追い詰め、しかし逃げられた相手だ。この際だ。一神教から鞍替えしても良い。彼が追いかけてこい、と言うのなら追いついて必ず彼の手に手錠を嵌めてやるだけだ。
「良し。常識は全て捨てろ。考え直せ。この世界には科学だけでは考えられない様々な力が満ち溢れている。進んだ科学と魔術が私の武器だ。一度はやった。やれるはずだ」
隠された謎というのが何かはわからない。そして何故直筆の手紙を送りながらあのコピー機を使った文字を使ったのかもわからない。が、それを解き明かすのが、探偵というものだろう。だから、私は立ち上がり改めて謎に向かう為に少し身体を動かす事にするのだった。
この世界には私の知らない様々な事がある様子です。私とて教授として一応、様々な学者達と語らってきたのですが……まさか百年もしない内にこんな事になっているとは。いえ、それはどうでも良いでしょう。
『……』
暗く冷たい部屋の中。私は静かに過去を思い出す。彼は今度は来るでしょう。私は一度彼に、彼は二度私に会っている。これの意味する所は一つ。私は死体として、彼に会っている。
「どうですか、モリアーティ教授」
『不思議な気分、としか……』
アルセーヌと名乗る彼の問いかけに、私は素直な所を答えるしかありませんでした。なにせこんな経験は人生で一度もしたことがない。一応、きちんとした対処はしてくれているのですが……それでも不思議としか言い得ません。まぁ、提案したのも自分なのでどうでも良いといえばどうでも良いのですが。
「ふふ。私も長い間人類に関わってきましたが……そんな事を自分から申し出て、しかし今の貴方の様な感想を述べたのは貴方が初めてでしたよ。大抵の人物は実際に自分がそうなってみれば泣き喚いたり、後悔したりするものですが」
『そうでしょうか……』
何故そんな事になるのでしょうか。わかりません。だって私は生きている。そして必要な事をしただけです。こうしなければ私は私が望む物を手に入れられなかった。だから、しただけだと言うのに。
なにより、彼はきちんと約束を守ってくれている。そして彼もまた、自分の思い通りに動いてくれる駒を手に入れた。とてもウィン・ウィンの関係ではないでしょうか。
「モリアーティ教授。変な人だと言われたご経験は?」
『まぁ、会う人会う人に言われた事は……でもホームズ氏よりは変わっていないと思うんですが……』
「教授とホームズ氏は表裏一体なのでしょうね」
『ああ、それは私自身そう思います』
彼との戦いは素直に楽しかった。生きている実感があった。彼は私を犯罪界のナポレオンと言ったそうですが、私は彼を敢えて探偵界のカエサルとでも言いましょう。
もし彼に専制を許せば、彼はおそらく傲慢な人間になってしまう。私が一人でも犯罪者になった様に、彼は一人であればただ正義感を振りかざす偽善者に成りかねない。彼はどこまでも善良で、普通の人間だ。探偵シャーロック・ホームズは相棒が居て初めて、成り立つのです。
だから、私は彼への願いを込めて探偵界のカエサルと名付けましょう。相棒……ブルータスに裏切られない様に戒めの意味を込めて。
「ははは……それで、教授。あとどれぐらい掛りますか?」
『そうですね……後、数日。数日もすれば気づきます。彼なら』
気付いてくれなければ困りますし。ですが、気付かない筈がないでしょう。なにせ答えは非常にわかりやすい。気付けばすぐに終わる問題です。そこまでしてどうして私達を呼び寄せなければならなかったのか。そして彼らの規模を考えれば悩む必要さえ無いでしょう。
「そうですか。まぁ、もう全て終わった後です。後もうしばらくは、自由になさってください」
『はい、そうさせて頂きます』
今頃ホームズさんは大忙しなのでしょうが、もう仕掛けの終わった身としては自由に待つだけです。なので、私はホームズさんが来るまでの間、のんびりとさせて頂く事にしましょう。
お読み頂きありがとうございました。




