断章 第45話 遠い過去
自分達は足手まといなのではないか。エレンのそんな問いかけを受けた教授は、はるか過去を思い出す。それは今から大凡一世紀ほど前の事だった。
その当時の教授は物語に語られる通り、悲愴感さえ滲んだ冷酷な戦士だった。味方の犠牲も顧みず、ただ敵を殲滅する苛烈な使命感のみが彼を縛り付けていた。とはいえ、それも仕方がない。彼が見たのは、ある意味ではとてつもない絶望にも等しい光景だった。
「……」
無数。本当に無数としか言い得ないほどの、外なる神。それを教授は目の当たりにした。ただ、恐怖しかなかった。心は折れ、膝を屈し。ただ無様な姿を晒すだけ。圧倒的な怪異の前には人とはここまで無力なのだ、と思い知らされる相手だった。
『……おや、おや……君はこんな所で挫折するのかな?』
もはや為す術もなく膝を屈して絶望する教授の前に、闇としか言い得ない摩訶不思議な存在が現れる。その声はどこか嘲笑が滲み、しかしどこか愛――と言っても言うなれば人類愛という類だが――としか言い得ない感情が滲んでいた。
「……」
『なんなのだ、これは。こんな化物達に勝つすべなぞ見えない。人類はただ、食い尽くされるしかない』
闇としか言い得ない不可思議な存在は、まるで今の教授の心の闇そのものであるかの様に彼の心を覆い尽くしていた絶望を口にする。
『……本当に? 本当に、そうかな?』
「……」
これをどう見れば人類の勝利を考えられるのか。眼の前に広がるのは、あまりに強大な力の持ち主達。それでいて、人類には決して理解し得ない感性の持ち主達だ。こんな邪心や悪意の塊の者たちに比べれば、異族なぞ人類としか言い得ない事をよく理解出来た。
まだ、彼らは少し人間とは感性が違うだけだ。人の感性の差と言い得る領域だ。それを違いと認め合えば、理解して許容し受け入れられる。勿論、それでも全ての者ではないだろう。それもまた、感性だ。
が、これはそんなものとは違う。そもそも、規格外。人間や異族、全てを総称しての人類とは規格が違う。そう、教授は心の底から理解した。それ故の絶望だ。人類とは到底相容れない感性の持ち主達が、あまりにも強大過ぎる力を持つのだ。何時かは遭遇すると理解してしまった彼にとって、人類の未来の絶望は決定的だった。
『そう……我らは君達とは規格が違う。そもそも、君たちとは製造目的も一切異なる。故に相いれなくて当然。相容れない存在として、我らや彼らは作られている』
闇としか言い得ない不可思議な存在ははっきりと、自分達が人類とは相容れないと明言する。
『……さて。そして君とて本能で理解している筈だ。人類には絶望しかないのか、と』
闇そのものは教授に向けて、真っ赤に燃える3つの目を向けて裂けた様な笑みを浮かべる。それははっきりと人外の証だというのに、そしてはっきりと邪悪なる意思だとわかるのに、やはりどうしてか人類への掛け値なしの愛情を含んでいた。
『答えは、否! 否否否否否! 人類は我らにも届き得る! さぁ、見せよう! 人類の希望の瞬きを!』
「……これ……は……」
今まで絶望しかなかった教授の窪んだ眼窩に、僅かな光が戻った。眼の前に見えているのは、無数の光。幾度も強大な邪悪に押しやられようとも、幾つもの光を奪われようとも決して潰える事なく最後の一つまで戦い続けていた。
『彼らはどこかの星のどこかの人類だ。目を失った君だが、この光は見えるだろう? そう、人類は決して、我らに屈する事なく戦い続けている』
「……」
負ける。教授は今の光景か過去の光景かわからぬものの、目の前の戦いにそう直感する。こんな相手にこんな矮小な存在が勝てるわけがない。敢えて言えばブラックホールにスペースシャトルが戦いを挑んでいる様なものだ。勝ち目なぞありえるはずがない。
『さて……どうなのだろうね? いや、いや……これが過去か未来か現在か、なぞは君にはわかっているだろう。これは、過去。偽りなき過去だ。君とて心の底ではわかっているはずだ。それでも生きるのを止めるわけにはいかないのだ、と』
教授に向けて闇そのものは笑いかける。そうして、闇そのものは結末を映す事もなく、はるか過去の光景を消し去った。
「……」
『さて……彼らは最後まで抗った。君は、どうするかね?』
闇そのものは裂けた様な笑みを浮かべ、教授へと手を差し伸べる。戦う意思がまだ少しでも残されているのなら。一歩でも前に、つま先程度でも前に進む勇気があるのなら、この手を掴め。そう言外に述べていた。
「……わた……しは……」
負けると思っている。勝てないとわかっている。この絶望を目の当たりにして、勝てる想定が出来ない。だが、それでも。身体は言っていた。まだ、倒れていない。確かに膝を屈した。だが、折れてはいない。
「貴様らの助けなぞ……」
『ははは。君はもう間違いを犯そうというのか。いいや、違うはずだ。君はそうではないはずだ』
「……」
闇そのものの指摘に教授は目を失った両のまぶたを閉じて、その間違いを噛みしめる。あの程度では勝てない。おそらくあの戦いの末路は敗北だ。教授には先程のどこかの人類の絶望的な戦いの末路が見えていた。それ故、教授は覚悟を決める。
「……良いだろう。貴様らを利用し、全てを使い。私は貴様らを倒す」
『そうだ。それで良い……ああ、自己紹介が遅れたね。私の名はニャルラトホテプ。彼らの末席に加わる者にして、彼らとは少し異なる存在だ』
闇そのものはニャルラトホテプと名乗って、教授の差し出した手を握りしめて立ち上がらせる。盲目になって少しの彼が一人で歩けるようになるのは、これから少し先の事だ。今はまだ、魔眼の使い方にも慣れていない。誰かが手を引いてやらねば歩けなかった。
そうして、教授はニャルラトホテプ達に連れられて、どこともしれない宇宙のどこかから脱出する事になる。そんな彼が連れて行かれたのは、セラエノという宇宙の片隅にある惑星の図書館だった。
「これは……酷い」
「誰だ?」
「ニャルラトホテプ様がまた誰かを運び込んだぞ!」
セラエノで教授が出会ったのは、そこを治める司書達だ。そこは外なる神の中でも人類の理解が出来る様に設計された神々によって運営される図書館だった。それ故、司書達も人類に融和的で相互理解が可能と言えた。
なお、セラエノといえば神話では金属製の霧に覆われているという話であったが、実際にはまだ大半が密林に覆われているらしい。まぁ、これを教授が知るのは、この怪我が癒えて外に出られる様になった頃だ。と、そんなセラエノの司書達の中から、一人の女性が姿を露わにした。
『ああ、丁度良かった。君かWgNsu:`を探そうと思っていた所だ。彼を癒やしてやってくれ。ハスターの力を教えてやったまでは良いが、ここにたどり着いた時点で倒れてしまってね。再び私が担いでやった次第さ』
「……次はどこのどなたをお連れになられたのですか?」
『ははは。そんなキツイ顔をしないでくれよ。彼が居た星は遠からず、宇宙に足を伸ばす。そうなれば、我々の仕事が開始だ。これも仕事さ』
ニャルラトホテプは笑いながら、女性司書へと教授を受け渡す。それに女性司書は教授に気を遣いながらも、ニャルラトホテプへの愚痴をやめなかった。
「はぁ……その度にボロボロになったけが人を運び込まれるこちらの身にもなって欲しいものですが。ここは病院ではありませんよ。どうせなら、十数年ほど前に出来た大同盟にでも依頼したらどうですか? 医療設備はこことは比べ物にならないレベルでしょう」
『ははは。君らもある意味では我らへの奉仕者。文句を言わないでくれよ。職務命令だ』
女性司書の愚痴にニャルラトホテプが笑う。ニャルラトホテプの言う通り、彼女もまたある意味では世界によって創られた存在だ。ある意味では精霊にも近い存在と見做せるらしい。
とはいえ、それ故に上位存在であるニャルラトホテプや外なる神々の一部には今回の教授の様に時折無茶振りにも等しい事を投げられる為、こういう風に嫌そうな顔をされるらしい。とはいえ、上位存在であるが故に、職務命令となれば拒否権はない。故に彼女は嫌そうな顔をやめることもなく、問いかけた。
「……今度はどの様な改造を施したのですか?」
『ちょっとした改造だよ。魔眼を埋め込んでみたり、肉体の強度を高めたり……ああ、後は寿命で潰えられても困るから寿命も伸ばしてみたりもしてみたね』
「……もはや別の生命体ではないですか。見た所、素体はヒューマノイド。寿命は伸ばして120年程度という所。が、これはもうノーマルとは言い難い」
人間とは大きくかけ離れる改造を施したニャルラトホテプに、女性司書は嫌悪感を隠す事がなかった。彼女の感性というか、ここの司書達の感性は人間寄りだった。
『ははは。毎度毎度彼の様にここに連れ込むのは、君たちとしても嫌だろう? なら、彼が窓口になってもらった方が良いさ』
「……」
それはそうだが。女性司書はニャルラトホテプの言葉に言外に同意する。できれば面倒事はなく過ごしたい。できればこんな無茶ぶりもやめて欲しい。それが彼女らの素直な願いであり、考えだ。勿論、無理がわかっている話ではあるが。故に、仕事と割り切った彼女が指示を乞うた。
「それで? 彼の傷が癒え次第、どのようにすれば?」
『ああ、それは彼の好きにさせてくれ。ふふ……どんな花になるか、非常に楽しみだ。人類の飛躍をもたらすのか、彼自身の破滅をもたらすのか……それとも、人類に破滅をもたらすのか。ふふふ……あはははは!』
教授がこの後にがむしゃらに力を求める事は見えている。そうなる様に仕向けたのはニャルラトホテプ自身だ。だから、どうなるかの結末を想像して彼は悪辣な笑みを浮かべる。そうして、それから二十年の間、教授は図書館に引きこもって外なる神についてを学ぶ事になる。
ある日の出会いから、二十年。教授は年老いることの無くなった肉体を十全に活かして、外なる神についてを学び続けた。
「……コーヒーよ」
「ああ、すまない」
やはり教授とて人の子だ。そしていくら彼が全てを犠牲にしてでも戦う力を手にしようと考えても、人とのかかわり合いは避けられない。そもそもここでは彼は一切の関わりがなく、そして地球でさえ無いのだ。自給自足で生きてはいけない。
そして司書達はここの専門家だ。二十年掛けても半分どころか一割も読み終えられないほどの書物があるセラエノにおいて、彼らの助力は非常に有用だった。故に司書達とはそこそこ親しくしていた。そうなれば親しくする者も現れて、愛する者の一人は出来よう。それはなんの因果か、かつてニャルラトホテプから教授を引き取った女性司書だった。
「……行くの?」
「ああ……地球は私の故郷であり、帰るべき地だ。何時か、君にも見せよう」
おそらくこの後十数年に渡って見せないほどに柔和な表情を、教授が浮かべる。ここは彼にとってはもうもう一つの家とさえ言えた。司書達の数人は酒を飲み交わすほどでもある。家族と同義だ。だから、ここも大切は大切だった。だがだからこそ、彼は決意も固く上を見上げる。
「だが、だからこそ……今の地球では駄目だ。奴らは何時か飛来する」
教授は彼自身の手で擦り切れるほど読まれた書物を握りしめる。それは、地球の太古の歴史だった。そこにあったのは、かつてはアトランティスと呼ばれた文明の末路だった。
「……我が故郷の地球では、これを『審判の日』と呼び表した。その日は、近い。それを乗り越えねばならぬ。その日は十年か、二十年か……百年か。だが、そう遠くない未来の筈だ」
「……頑張って。この子と一緒に、その日を待つわ」
強い決意を滲ませる教授に、女性司書だった女が激励を掛ける。こうなる事をニャルラトホテプ達が想定していたわけではない。望んでいたわけでもない。とはいえ、その女の後ろには、一人の幼子が居た。そうして、そんな二人や懇意にしている司書達に見送られる形で、教授はセラエノを後にする。
「……では、行ってくる」
「いってらっしゃい」
「ああ……来い、バイアクヘー!」
教授はこのセラエノで二十年の月日を掛けて記した魔導書・<<セラエノ断章>>を媒体に、バイアクヘーを呼び出した。そうして、彼は二十年ぶりに地球へと帰還する事になる。
お読み頂きありがとうございました。




