断章 第43話 恐怖
カイト達の少しの考えから、地中に唐突に空いた大穴に呑まれたエレンやその他数人の腕利き達。彼らは落下の衝撃で身を失った後、深きものどもに運ばれて奥深くへと移動させれていた。
「う、うぅん……」
まぁ、単に衝撃で気を失ったというだけだ。症状としては軽度の脳震盪で間違いない。軍用アーマーが身を守ってくれていたお陰で目立った外傷も見受けられない。どうしてもアーマーでは防げない落下の衝撃で意識を失ったというだけだった。
それでも、もしこれが無ければ良くて大怪我、当たりどころが悪ければ死亡だ。十分、アメリカの最先端技術の塊はその効力を発揮してくれていた。
「ここ……は……」
周囲は真っ暗闇だ。しかも唐突に地面が崩落した所為で、エレンには何がなんだか分からない。そうして脳震盪の後遺症で呆けていた彼女だが、しばらくすると自分が崩壊した地面に巻き込まれた事を思い出した。
「っ……頭……痛い……多分打った……」
エレンは首を振って気を確かにしようとして、痛みでこれが現実だと理解する。アーマーのおかげで目立った外傷は無いが、それでも無傷ではない。と言っても、骨折などはしていない。故に彼女はズキズキと痛む全身をなんとか動かして、しっかりと現状を見直すことにした。
「えっと……安易にライトはつけるべきじゃないわよね……」
ここは敵陣だ。そしてこの中で生活していた以上、敵は暗闇の中でも視界を確保しているのだろう。であれば、安易に光を生むわけにはいかない。エレンはそう判断する。
流石に半年以上も軍の兵士達や同じ年頃の隊員達と一緒に各種の講習を受けていたのだ。一度落ち着きさえすれば、落ち着いて正常な判断が出来た。
「HMD……大丈夫。良かった……」
エレンはヘルメットが無事だった事に安堵して、まずは暗視カメラを起動させるより前に一度自分の状況を確認する事にする。何がどうなっているのかわからない。少なくとも拘束されている様子は無かったが、装備がどうなっているかはわからない。確認の為にも幾つか確認しておく必要があった。
「自己診断モード起動……」
エレンはキーボードを叩いて、自己診断機能を起動させる。この装備はハイテクの塊だ。アーマーの損傷を自動でチェックする機能も備わっていた。そうして、およそ一分。自己診断結果がヘルメットの前面に表示された。
「自己診断……あっちゃ……」
自己診断結果を見て、エレンが思わず顔を顰める。どうやら落下した衝撃で外部音声を拾う集音マイクが損傷してしまったらしい。ヘルメットの内部は有毒ガスに対応する為に完全に密閉されていて、更には閃光手榴弾等に対応出来る様に防音も備わっている。ヘルメットを脱がないと外の音は聞こえなくなってしまっていた。
この軍用アーマーは一応特殊部隊用に開発されているが、元々これは陸軍向けに開発されていた物を再設計して改良した物だ。故に元々、一般的な軍事兵器にも対応出来る様にされていたのである。ここではそれが悪く影響していた。要改良という所だろうし、この一つ後のモデルでは簡単な操作で集音マイク無しでも音が聞こえる様に出来る様になる。
「しょうがないか……えっと……周囲の空気状況確認……」
エレンはその場から動かず、周囲の状況を確認する。彼女の取れる選択肢は、二つだ。周囲の音を聞く為にヘルメットを取るか、取らないか。それしかない。
しかしそれを判断する為には、まず周囲の空気を確認する必要がある。周囲が何らかのガスで満たされていれば、当然だがヘルメットを外すと駄目だ。であれば、何よりもそれを確認する必要があった。
「ふぅ……取り敢えず、問題はなさそう……」
とはいえ、周囲が有毒ガスで満たされている事は無かったらしい。エレンはそれに安堵して、胸をなでおろす。
「ふぅ……うっ!? くさい……何この臭い……」
ヘルメットを脱いだエレンは、そうして漂ってきた潮の匂いと何かよくわからない嗅いだことのない臭いに盛大に顔を歪める。
「栗の花の臭い……? どっちかっていうと烏賊にも近い様な……海が近いから、かな……」
深きものどもは海を中心として生きている奴らだ。であれば必然として、烏賊も食料として確保しているだろう。エレンはこの臭いが食料庫が近いからなのかもしれない、と判断する。そしてそれを判断して、エレンは顔を一気に今度は別の意味で顰める。
「……私はご飯というわけ……? そりゃ、私は美少女だけどさ……」
エレンは恐怖に苛まれる己を鼓舞する様に、敢えて軽口を叩いてみる。そうでもしないとこの真っ暗闇に飲まれそうだった。
ここで、幾つか彼女にとって幸運な事がある。やはり恐怖を抱いているからか、今の彼女は平静さを欠いている状態だ。故に本当に小さな物音には気付けていない。少し離れた所で響き渡る小さくくぐもった女の声に、だ。
そして音を確認する為にヘルメットを外したおかげで、暗闇の中を見なくて済んだ。もし周囲を見れていれば、彼女は自分が辿るだろう末路を見てしまったのだ。パニックを起こさないで済んだ。
「……光は見えない……」
エレンはもし自分が落下してそのままだったのなら、と考えて上を見て、そう小さくぼやく。もし落下しただけなら、上には自分やその他の隊員達を探す救援の明かりが見えた筈だ。が、それは無かった。ということは、答えは一つだ。
「どこかに連れてこられたというわけ、ね……」
怖い。エレンは心の底から、そう思う。別に暗闇は苦手ではない。だが、少なくともこんな真っ暗闇は得た事がない。人類が暗闇を恐れた理由を彼女ははっきりと理解した。
「……誰か来るなら早く来てよ……」
暗闇は安易にエレンへと恐怖を与える。これは普通の事だ。と、そうしてエレンが蹲った少し後。唐突にカラン、という石がぶつかる様な音がした。
「誰!?」
やはり怯えていたからだろう。エレンは思わず、声を荒げて問いかける。が、これに返答はなかった。そして返答の代わりに響いたのは、深きものどもの呼吸音と女性のうめき声だった。
「っ!?」
エレンは敵が来た事を理解すると、即座にヘルメットを装着する。幸い有毒ガスは無いので密閉を待つ必要もない。なので彼女は元々万が一に備えて待機状態にしていた暗視カメラを起動して、ここが戦場なのだとつぶさに理解した。
「……え?」
見て、しまった。周囲には彼女一人だけではなく、魔術か何らかの事情により意識が昏倒して身動き一つ取れない裸の女達の姿があったのだ。流石に彼女もこの年頃までなると、これがなんの後なのかはつぶさに理解できた。
「あ……」
自分の末路を想像して、エレンが脱力する。が、脱力したのは一瞬だけだ。彼女の眼の前には、その末路をもたらす悪魔がゆっくりと近づいていたのだ。恐怖が全てを支配した。
「いや! 近づかないで!」
エレンは思いっきり声を荒げて、座ったままみっともなく深きものども達から逃げ惑う。が、それはすぐに壁に行き当たった。
「いや! いやぁあああああ!」
まるで逃げられない事を知っているかの様に。一歩一歩確かに近づいてくる深きものどもに対して、エレンはただ悲鳴しか上げられない。そうして深きものどもはエレンの服を切り裂く為に爪を伸ばした。いや、伸ばした様に見えた。
「……え?」
どさり。唐突に深きものどもが全て前のめりに倒れ伏す。それに、エレンが自分が助かった事も理解できずにただ目を瞬かせる。そうして、その倒れた先からカイトが姿を現した。
「……よう、と何時もなら言ってやりたいんだが……ちっ。これは聞いてねぇぞ、教授……」
エレンを助け出したカイトは、そのまま顔を顰めて舌打ちする。確かにエレンを掣肘する為にこの一件を仕組んだのは彼だが、その彼も深きものども達が女性を拐って凌辱していた事は知らなかった。
というより、これは実は教授も知らない事だった。ニャルラトホテプ達にそそのかされて再度の儀式を行うべく準備に奔走した深きものども達が、儀式の生贄として女性を拐っていたのである。
「……大丈夫……じゃあなさそうだな」
「あ……」
助かったのか。エレンはカイトの言葉でようやく、自分が助かった事を理解する。そうして、カイトはかなり気まずそうに視線を逸しながらエレンにタオルを差し出した。それは水で濡らした物だ。
「あー……あー……あー……うん。ほら」
「……え?」
エレンは差し出された濡れタオルの意味を、最初理解できていなかった。
「後ろ向いといてやるからとりあえず身体を拭け」
「どういう事……?」
「……非常に言い難いんだが……うん……その……ズボン」
「……え?」
エレンはカイトの指摘で、ようやく自分の股間が濡れている事に気付いた。恐怖のあまり彼女は失禁していたのである。これはカイトも非常に申し訳なかった。
本当はここまで怖がらせるつもりはなかった。ちょっと痛い目を見てもらって調子に乗らない様にしておきたかっただけだ。が、いくつかの想定外の状況があったが故、というわけだろう。
「あ……」
ズボンが濡れている事と、自分が漏らした事に気付いてエレンが真っ青だった顔を今度は羞恥で真っ赤に染める。これはまぁ、仕方がないだろう。そうして、気まずい空気の中で衣擦れの音が響いた。
彼女もこの暗闇の中だから受け取って着替える選択ができたようだ。まぁ、実際にはカイトは暗闇でも問題なく見えているのであるが、そこは知らぬが仏という所だろう。そもそも見えていなければ濡れている事を指摘できない。
「……服。脱いだら渡せ。ああ、上もだ。上は上で……まぁ、言わぬが花という所だが。ここらは水で洗い流したから、安心しろ。そのままじゃあ着れないだろう。乾かすのもなんとでもなる」
「……ん」
エレンはかなりの逡巡の後、恥ずかしげに自分の尿で濡れたズボンをカイトへと差し出した。彼女も年頃の少女だ。自分が失禁した所を見られた挙げ句、その後始末をされているのだ。その羞恥は耐え難いものだった。そうしてズボンを受け取ったカイトは、その代わりとばかりに女性用の下着を差し出した。
「後、ほら……言い難いが、数百年も前にはこういう事は普通だった。これ、使え。脱いだのは……まぁ、後でオレが焼却しておこうか?」
「……ありがと」
カイトの申し出と差し出された換えの下着をエレンはありがたく受け取った。恥ずかしいが、それよりもおしっこで濡れた下着をそのままずっと着用するというのは彼女の心情としても嫌な物があったらしい。そうして、更に数分後。エレンが暗闇の中で着替えを終えた。
「……終わった」
「ああ……立てるか?」
「……」
エレンは立ち上がろうとして、立ち上がれない事に気付いた。故に彼女は言葉数少なめに首を振る。
「……しょうがないか……ほら」
「ここの人たちは……?」
「魔術で眠らせた。場所も把握している。教授達に頼んで、救助部隊を送ってもらおう」
カイトはエレンの問いかけに、周囲の女性達についての対処を明言する。これを想定できていなかったカイトにはこの女性らを連れ帰る手段が無い。実はカイトの介入が若干遅かったのは、ここまでの道のりの安全を確保すべく周囲の深きものどもを完全に討伐していたからだ。
実はあの深きものども達はエレンを襲うべく来たのではなく、カイトから逃れてこちらにやってきたというだけだった。そうして、カイトはエレンを背負って教授達が設営中の拠点へと歩き出すのだった。
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