断章 第13話 太公望・天命を覆さんとす
優れた占い師でもある太公望の占いの結果。それは、今月末にカイトが命果てるという衝撃的な内容だった。が、その内容を語って、更には竜吉公主の激怒を受けてなお、太公望はその太公望としての在り方を崩す事はなかった。
「……聞け。公主」
太公望は何時もの姜子牙としての在り方から、中国にその名を残した大軍師・太公望として語りかける。その圧力たるや武に優れていないにも関わらず、凡百の英傑であれば押し返す程だった。
「儂はかつて、お主に言うたな。お主は洪錦と結ばれる、と」
「……」
竜吉公主は昨日とは違い、無言で先を促した。これは楊戩にかつて彼が言った通り、竜吉公主にもきちんと述べている。それを彼女の強靭な意思が跳ね除けたのだ。
「が、その後万仙陣での戦いの後、お主は酔った勢いでこういうたな。儂の占いとて外れると」
「現に外しておろう。妾はこの通り、洪錦なぞという凡夫を良人なぞにはしておらぬ」
太公望の問いかけに竜吉公主は吐いて捨てる。故に彼女も心の何処かで、今回の案件も外れるのだろうと考えていた。が、そうして太公望はかつては語らなかった事を、今にして語る。
「うむ……確かに儂とて人じゃ。易経を定めた至聖伏犠ではない。過つ事はあろう。あろうが……数千も同じ結果が出れば可怪しくはあるまいよ」
「数千?」
なぜそれほどにまで自分にこだわったのか。竜吉公主は太公望の思惑に困惑する。
「お主は本来、何らかの所以で洪錦と結ばれ、万仙陣で果つるはずじゃった」
「悪い冗談じゃ」
「うむ。悪い冗談じゃ……が、それが本来のお主の天命であった」
太公望は一切の迷いなく、そして一切の偽り無く告げる。が、それに竜吉公主は笑う。
「それではまるで物語と同じではないか」
「うむ。そうじゃろう……そも、封神演義とは誰が書いたのかのう」
「?」
竜吉公主は唐突な問いかけに首を傾げる。が、この質問がこの場で出る事を理解して、その答えを理解した。
「まさか……お主か!?」
「うむ。儂じゃよ……太公望が封神演義を記す。誰もが盲点じゃろう?」
大いに驚きを露わにする竜吉公主に対して、太公望は笑う。封神演義の著者は幾つもの説があるが、どれも確たる証拠は無い。彼であっても不思議はない。そうして、彼は少しだけ呆れをにじませた。
「のう、公主。お主少々可怪しくは思うた事がないか? なぜ、明代に成立した物語であるのに、妙に事実を事細かに知っておるな、と。既に明代の頃には楊戩なぞ二郎真君と呼ばれておるし、哪吒も大本を知る者は殆どおらぬ」
「……妾は『封神演義』なぞ読んだ事はない。誰が好き好んで妾らの名を出した物語なぞ読もうと思う」
「なんじゃ。名著と思うんじゃがのう。まぁ、儂としても物語を書いたわけではなく、メモの様な形で残しておっただけじゃが……むぅ」
太公望が僅かに拗ねた様子を見せる。なお、彼が封神演義を記した理由は簡単だ。忘れない為に、である。何をか。自分の得た結論と決断に至るまでの道程を、だ。それを纏めたメモ帳の様な物があったのだが、ふとしたことで何時かの易姓革命の頃の部分を紛失してしまったそうだ。
どうやら、太公望の弟子――と言っても釣りの弟子――の一人が太公望の物語となりどうしても抑えきれず、密かに盗んで読んでいたらしい。太公望も気付いてはいたものの、殆ど気にはしなかったようだ。
それが何らかの事情で外界へ流出し、それを大本として封神演義が出来たそうだ。当人の手記だ。当時の出来事を詳しく、かつ臨場感にあふれる形で知れた事だろう。そう言う所を考えれば、太公望その人が原作者に近いと言っても過言ではないだろう。肉付けしただけ、と言う所だ。
「はぁ……まぁ、それは良いわ。さっさと先を続けよ」
「むぅ……そうよな。とりあえず先を続ける事にしよう……とりあえず、あの物語は天命に従って……否。単に儂が読んだ天命を記しただけの物が大本じゃ。つまりお主は本来、ここにはおらぬ事になる」
「……」
一度は毒気を抜かれた竜吉公主であるが、太公望の言葉の真贋を測りかねる。当たり前だ。見たのは彼一人。そして既に遠い過去になっている為、確認のしようもない。信じるか否か、でしかない。
「……信じるに足る証拠は」
「楊戩と申公豹に聞け。儂があの時、何を見て何をしたかを語ってくれよう」
「……」
竜吉公主は一度、黙考する。そして答えは長くない時間で出せた。
「良いじゃろう。お主が申公豹の名を言うのであれば、それは真実という事じゃ……で? 妾はあの男と共に闇を枕に果つると?」
太公望に対して、竜吉公主は何処か嘲笑や自嘲、様々な感情の乗せられた笑みを浮かべて問いかける。それもまた良い、と思っていた。太公望いわく、既に死んだ命だ。ならば折角得られたこの胸の高鳴りと共に果てるのも良し、と決めたかのようだった。が、太公望が言いたいのはそうではない。
「いや、違う。お主はその戦いには関わらぬし、関われぬ」
「戦いか」
「うむ。戦いじゃ」
「ならばやはり、俄には信じられぬ。哪吒と悟空の二人をしてまともに戦える様な猛者を殺すなぞ……それこそ西の大天使共でも難しい。いや、不可能じゃ」
竜吉公主はカイトの死因を聞いて、首を振る。カイトが戦って負けるまでは、まぁ良いだろう。それぐらいなら誰もが可能だろう、と明言している。勿論、斉天大聖だって哪吒だって条件さえ付けてしまえばカイトを倒せると断言する。
所詮、彼にあるのは莫大な出力と幾つかの特異な才能だけだ。なのでそれさえ封じられて真っ当な戦士として戦わせるのなら、大凡数多の英雄達が勝てるだろう。
彼――そしてギルガメッシュ――の才能なぞ所詮はそんなものだ。彼とその義父だった男は戦士として、何かただ一つの優れた物を持っているわけではない。だからこそ、数多の武器を使いこなすという異端に至ったのだ。そしてここでは、この縛りを解いている。であれば、答えは一つだ。負ける道理はどこにもない。
「うむ……儂も初めて見た時はこれは仕損じたと思うた。が、千度繰り返せど、結果は覆らず。万度繰り返せど、結果は覆らず……」
太公望はこの一年、カイトに対して無数の占いを行った。その結果はほぼ全て、固定されていた。そう、ほぼ全て、だ。
「万を超え、次の万に至り。更にそれを繰り返す事、幾度か……おそらく、億に一つの可能性じゃろう。それを、儂は一度だけ手繰り寄せた」
太公望は再び、太公望としての風格を纏う。これを確かめる為、彼は今まで動かなかったのだ。いや、動けなかったのである。天命が書き換わると信じている彼だからこそ、その書き換わった先を見通す必要があったのだ。書き換える為に必要な駒を手にする為に、である。
「たった一度。たった一度の仕損じじゃ……幾日も幾日も、誰しもを遠ざけて易を立てた。その中で唯一狂ったのは、一度だけじゃった」
どれほどの試行数を重ねたのか。余人には預かり知らぬ程なのだろう。それほどまでに、彼は何度も天命を観察した。そうして彼は太公望としての顔で、竜吉公主を見た。
「偶然。何も知らぬ童女が儂の庵へと足を踏み入れた。極度の集中故に儂はしばらく、気づかなんだ。そうして気づいた時には、童女の顔が横にあった。それにうっかり、儂は手元が狂った」
なぜ童女が立ち入り禁止にした自分の所に来たのかは、今も太公望にはわからない。幾つもの偶然が重なり、楊戩達の見回りの合間を通り抜けただけだろう。そこを詳しく知る必要は太公望にはなかった。
そしてこれは偶然や運命といった言葉で片付けられる話だ。が、彼はそれこそを待ちわびていた。あり得ぬ可能性が何らかの偶然の重なりにより起きる。それでこそ、天命は書き換わるのだ。そうして、そこで彼が見た億に一つの可能性がようやく、語られる。
「出た結果は奇しくも、女が蒼き王を救うであった」
竜吉公主を見ながら、太公望は断言する。女。この場合は、竜吉公主だった。というのも、これには一つの理由があった。
「公主。あの易姓革命の後、儂はお主の易を幾度か立てた。天命さえ覆したお主の因果がどうなるのか、と思うてのう」
「……どうなったというのだ」
「遠きにて王に侍る、と出た。あの時の儂には、この遠きにて、という意味が理解出来なんだ。場所か、時か。それともその両方か。まだ、答えは出ておらぬ」
太公望は竜吉公主の問いかけにはっきりと明言する。そうして、更に彼は告げる。
「かつて、妲妃を殺す殺さぬの瀬戸際の頃じゃ。儂は妲妃をどうするか決めるまでにお主の易を何度も立てておった。が、出来んかった。まるで強大な力に邪魔されるかの様にのう。決して、定まらなんだ」
「それがなぜ、今更読める」
「わからぬ。わからぬが、ある時唐突に王に侍ると出た」
「ある時とは?」
「……今より1300年程前の事じゃ。これが何を意味しているかは、儂にはわからぬ。が、この時を境に、お主の天命は王に侍る貴人となると出た」
太公望はわからない事ははっきりとわからないと告げる。これに一切の嘘はない。竜吉公主を彼の思惑通りに動かす為にも、今は嘘を言う場面ではなかった。
「まぁ、それは良かろう。わからぬものを考えてもどうしようもない。そうしてあの蒼き者が現れた頃、儂は易を立てた。一年先、死すると出たのはこの時よ。強い因果じゃ。大凡覆せるとは、儂にも思えぬ。が……覆して貰わねばならぬ」
太公望は底冷えするような寒さを滲ませる。覆せないのなら、いっそ不要。そう言外に告げていた。その風格は、思わず竜吉公主をして気圧される程だった。
「っ……」
「そこから先を見るべく、儂は幾度も繰り返した。死すると出た時より一年先を千度、万度繰り返し。更にその次の年を千度、万度繰り返し。そして幾度もの死の果てに儂はかの男が王となる未来を見た。天命さえ覆す真の王となる未来を見た」
轟々と、太公望の風格が膨れ上がる。その様たるや、地球全土における最高の軍師に恥じぬ風格だった。
「天命を覆す王であれば、道理さえ覆せるじゃろう。道理を覆す王を、儂は欲しておる。道理を覆し、天命を覆し……聖上を超えた至聖へ至る王となれる器が、彼奴には宿る。その王を生む為に、儂はお主を選んだ」
奇しくも、太公望はニャルラトホテプと同じ結論を得ていた。だが、これは決して無責任な発言ではない。だからこそ、彼はこの土壇場まで時間が掛かったのだ。
どうやれば、その億に一つの可能性を拾えるのか。それを知る為に彼はそれこそ幾度となく倒れる程に易を立てて、未来を視たのである。その億に一つの可能性を手繰り寄せる為に、である。そんな太公望に、竜吉公主が問いかけた。
「なぜ、妾じゃ」
「……わからぬ。あえて言えば童女の顔が一瞬、お主の顔に見えたというだけじゃ」
少しだけ疲れた様に、太公望が首を振る。ここは本当に自信はないのだろう。が、もう時間は無かった。億に一つの可能性を手繰り寄せる為にも、竜吉公主を紹介せねばならないのだ。これとて上手く行くとは限らない。今回は偶然、上手く事が運んだだけだ。そしてここから先が上手く行くかも、わからない。最後の最後は直感に頼った。もうこれ以上、打てる手は無かった。
「……それで、妾にどうせよと軍師様はお望みじゃ? 西の果ての大陸に同行せよと?」
「違う……何もするな。お主が同行し、もし分岐点に差し掛かればお主は止めよう」
「ありえぬな」
「いや、あり得る」
自らで有り得ないと断じた竜吉公主に対して、太公望は再び太公望としての風格を纏って断言する。そこには、絶対の自信があった。
「先程から見ていて、儂は理解した。公主は自身が思うておる以上に、蒼き男に惚れ込んでおる。長き時を重ねれば、それはより深まろう。お主はお主が思う以上に、弱き女じゃ」
「この竜吉公主が童女の如きに泣き喚くとでも?」
「そうなろう。そして、言おう。行けば死ぬ、とな」
あり得ぬと心の底から断言する竜吉公主に対して、太公望もまた断言する。それに、竜吉公主は吐いて捨てた。
「あり得ぬな」
「いいや、あり得るとも……あの地での戦い。お主が思う程、容易い物ではない。そしておそらく、儂が熟慮した以上じゃろう……地球人類の想像を絶する敵が現れよう。儂であれ、悟空であれ、哪吒であれ申公豹であれ誰であれ、立つだけで心折れる化物があの地へ降臨する」
この太公望の見立ては、易を立てたわけではなかった。軍師としての彼の推測だ。そこでは勿論、彼は万全に万全を期した推測を行っている。敵の上限も自分が考えうる最強を更に倍以上にしている。が、そんなものを上回る、と彼は思っていた。そうなると、もう彼でさえ想像が出来なかった。
「お主らは決して、この事を口にしてはならぬ。言霊が事象を確定させてしまいかねん」
「では、妾にどうせいと」
「……すまぬ。儂にもわからぬ。お主がどうすれば良いのかは、見通せなんだ。時間が足りぬ。たった一年しか無いとは思わなんだ。これが後10年……いや、せめて5年あればと思うのじゃが……」
太公望の風格が急速にしぼんでいき、辛そうに首を振る。どうすれば良いのかというのを教えてやれれば、と彼も思う。が、それを見極めるだけの時間が無かった。精一杯、出来る限りを尽くして、ようやく竜吉公主を見つけただけなのだ。それだって確定ではない。あまりに、時間が足りなかった。
「……」
竜吉公主は太公望が語るべき事を語り終えた事を理解した。そしてそれ故、僅かな黙考を開始する。が、答えは一つしかなかった。
「……よかろう。悟空、哪吒。この事は厳に口外を禁ずる」
「まぁ、私は良いけど……あんたはどうするの?」
「妾は妾に出来る事をしよう……それで、良いのじゃな?」
「……すまぬ」
太公望は申し訳なさそうに竜吉公主に謝罪する。この男がこれほどの苦しみを抱えているのだ。おそらく、この案件に彼は己の全てを、それこそ未来さえも投じていたのだ、と竜吉公主も気づいたのである。
「……悟空。お主、そう言えばここに来たのは気まぐれじゃというたな」
「まぁ、そうだけどね。どうせならカイトと戦ってみたかったし」
「お主、今の話を聞いてどう思った?」
「ああ、それ? ま、有り得ないわね。あいつが死ぬ? 私達が褥で七人掛かりで襲って音を上げない豪傑が? 有り得ないわね。あいつは天命さえ覆す」
斉天大聖は絶対の自信を滲ませる。天命が覆るのが可能だというのだ。であれば、彼女には一切の迷いなぞ無かった。カイトは生きて帰る。それだけである。
「子牙」
「なんじゃ」
「お主……悟空が来る事は予想の範疇か?」
「いや、流石にそれは予想しておらなんだ」
「であれば……悟空。スマヌが、頼まれてはくれぬか。適当に暴れ、露払いする程度で良い」
太公望の言葉を聞いて、竜吉公主は斉天大聖へとカイトへの同行を依頼する。それに驚いたのは他ならぬ斉天大聖だ。
「良いの? 流石に色々関わる事になるから止められると思ったんだけど」
「父には妾から頼み込もう。理由なぞこちらで取り繕う」
「じゃ、遠慮なく。というわけで、私はここで戻るね……あ、いや、ちょっと待った……あ、なら一度……」
竜吉公主の求めに気軽に応ずると、斉天大聖は何かを考えながら筋斗雲を翻す。そうして各自己が行くべき場所へと、向かう事になるのだった。
お読み頂きありがとうございました。




