断章 第44話 ギルガメッシュ叙事詩 ――第三版――
ギルガメッシュが遂にエンキドゥを友と認めた日から数日。あの日から、多くの事が変わった。まず変わったと言えるのは、女以外で彼がエンキドゥを寝所へと夜通す様になった、ということだろう。
「麦酒は飲んだ事があるか?」
「神官達から少し頂きました」
「飲めるか?」
「・・・少しだけなら」
「そうか。ならば、無理強いはせん」
エンキドゥの身体は、子供のそれだ。酒に強くは出来ていないのだろう。なのでそれを把握すると、ギルガメッシュは無理強いはしない事にする。彼は基本的には優しいのだ。
そして、もう一つ。変わった事がある。それは、私的な場におけるエンキドゥのギルガメッシュへの呼び方だった。
「それで、ギル。今日は何の用ですか?」
「ああ。貴様の事だ」
ギル。友人なのだから、私的な場でまでは陛下だのはやめろ。ギルガメッシュがそう頼んだのだ。命令ではない。友であればこその、頼みだった。
そして、エンキドゥは自分で考えた結果『ギル』と呼ぶ事にしたらしい。口調はどうやら一番初めに言葉を学んだシャムハトの物を真似たようだ。これが、素らしい。
「神々はお前を創る事に完全に成功した」
「そうなのですか?」
「ああ、そうだ。だが、だからこそ、お前は失敗作だった。神々には業腹だろうがな」
本当に楽しくて仕方がない。ギルガメッシュは笑いながら、そう断言する。
「失敗作・・・なんですか?」
「落胆するな。だからこそ、お前はこのギルガメッシュの友なのだ。大いに誇れ」
「?」
ここ久しく浮かべなかったわからない、という顔をエンキドゥが浮かべる。失敗を誇れ。言う者は多いにせよ、ここでは意味がわからない。そうして、そんなエンキドゥに対してギルガメッシュが語り始めた。
「神々はこのギルガメッシュに並び立つ英雄を創ろうとした。並び立つ英雄であり理解者であれば、諌め、自分たちの言葉を届ける事も出来るだろう、と」
「では、成功しているのでは? 私は神々の言葉でも聞き届けます」
「違う。だからこそ、だ。奴らのミスはそこにあった。このギルガメッシュに並び立つ英雄。つまり、『人の王』ギルガメッシュに並び立てる英雄だ。つまり、『人』の英雄だ。貴様はそうだろう?」
「はい。『人』の英雄です」
ギルガメッシュの言葉を、エンキドゥは認める。自分は『人』の英雄だ。それ以外の何者でもない。それこそが、今の彼の誇りだ。だが、だからこそ、神々の失敗があったのだ。
「『人』とは何だ?」
「自らの足で立ち、自らの足で歩む者です」
「そうだ・・・だからこそ、失敗作だ。聞こう。貴様は、神々の命令を聞くか?」
「それが、正しい事であれば」
「その正しい事とは如何に?」
「私が、自分で判断します。喩えギルの言葉であっても、私は私で判断します」
「そうだ」
エンキドゥの言葉に、ギルガメッシュが満面の笑みを浮かべる。自分と同じ。彼もまた、自分で判断してきた。神の言葉が正しいと思えば、それに従う。だが正しいと思わねば、それには従わない。それは彼となんら変わらなかった。
「貴様は、神々の命令には従わない・・・神の言葉は道理で無い限りは、貴様には届かない」
「あ・・・わかりました」
理解したエンキドゥが笑顔を浮かべる。これは神々にとっては忸怩たる思いだろう。自分達は完全に成功した。完璧と思える者を創った。そして、確かに目論見通りギルガメッシュの友となれた。
だというのに、それこそが失敗だったのだ。その結果が、エンキドゥという唯一にして最高の友をギルガメッシュに与えてしまうという大失態だった。
今のままなら、一人で何時か耐えきれなくなって潰えさせる事もできた。だが、二人ならば。支え合って、歩いていける。人とはどうしても孤独に耐えられない生き物だ。神々とてそうなのだ。当然だろう。ギルガメッシュの敵を増やすつもりが、うっかり味方を創ってしまったのだ。
「ようやく・・・ようやく、だ。これで、オレの国に民が来た・・・」
「お疲れ様です、ギル」
「・・・」
ぽかん、とギルガメッシュが間抜け面を晒す。彼の生涯ではじめての事だ。いや、そもそも弱音を吐いたのだって、はじめての事だ。そして、笑みを浮かべる。それは幸せそうな顔だった。
「・・・そうか。こういうものなのだな、友を得るというのは」
「そうなんですか?」
「はじめから友が居たお前には、わからんさ」
「はい、わかりました」
「わからん事が、か?」
「はい。私には、ギルがいましたから」
笑顔で頷いたエンキドゥの言葉に、ギルガメッシュが笑う。わからないという事がわかった。なんとも変な話だった。そうしてこの日から、ギルガメッシュがもう一人増える事になるのだった。
ギルガメッシュとエンキドゥが友になった日から、神官達は胃を痛める日々が続いていた。だが、逆に民草からは非常に良い印象をもたれる様になった。
というのも、ギルガメッシュは慈悲や笑顔が増え、神の使者として捉えられていたエンキドゥが人らしさを更に獲得した事により、誰からも慕われる王とその得難き友として捉えられたからだ。
「陛下! この間の果物、ありがとうございました! お陰で妻も元気を取り戻しました!」
「そうか。妻を大事にな」
「有難う御座います! 大切にします!」
「陛下! 軍の新入り達へのお言葉をお願いしたく!」
「ああ。何時だ?」
「出来れば、午後にでも!」
「良い。予定はエンキに命じて空けさせる。言葉は考えておく」
「有難う御座います!」
前は、近づきにくい王だった。それが、今は。積極的に臣下達や兵士達が声を掛けてきた。ついに友を得て、張り詰めていた糸が解れて穏やかさを得たのだ。そして、それは彼だけではなかった。
「エンキドゥ様! 西町の民がお礼を! お陰で危険な動物を避ける事ができた、と!」
「あ、はい。今から向かいます」
「エンキドゥ様ー!」
「あ・・・」
自らの名を呼ぶ黄色い歓声に、エンキドゥが少し頬を引き攣らせる。人間性を獲得した彼は、どうやら苦手意識も獲得してしまったらしい。黄色い声を上げて駆け寄ってくる女性達には流石に気圧される様になったのであった。それに、ギルガメッシュが微笑んだ。
「くっ・・・」
「嫉妬、ですか?」
「貴様・・・王への不敬で斬るぞ」
「ははは」
側付きの文官の冗談に、ギルガメッシュが睨みつける。彼が言ったのも冗談だ。切るつもりなぞまったくない。こういう風に臣下達と冗談を言い合う様になったのも、変化だ。
もうこうなっては神官達も何も言えない。王は民から慕われて、民は幸せに暮らしている。国はこの上なく上手く回っているのだ。文句の言いようがない。
「とは言え・・・よろしいのですか?」
「何がだ?」
「いえ・・・陛下とエンキドゥ様がその・・・」
「・・・構わん。女官共には好きに言わせておけ」
臣下の言葉に、ギルガメッシュが笑う。当たり前といえば当たり前だったのかもしれないが、ギルガメッシュ程の美男子が頻繁にエンキドゥの様な美少年を寝所へと連れ込むのだ。
色々な噂が立てられて然るべき、なのだろう。それぐらいの機微は彼にもわかっていた。そんな日々が、続いていた。とは言え、何の問題も起きる事が無かったのか、というと話は別だ。
「ふむ・・・神殿を作りたい、か・・・」
「どうか、御一考の程を」
神官達とて、何もエンキドゥを得たギルガメッシュを苦々しく思っていただけではない。慈悲を覚えた彼は、神官たちの言葉にも耳を貸してくれるようになっていた。それを良くも思ったのだ。そして、これはその彼らとの一幕だ。
「・・・杉が要るな」
「は・・・王には如何様にしてか、木材を手に入れて頂きたいのです」
「ふむ・・・」
確かに、自分に神は必要が無い。だが、民草には神は必要だ。それを理解していた彼は、神官達をないがしろにしたことはその実、一度もなかった。出来る限りでその願いを叶えてもきた。無理な願いには無理だ、と言っただけに過ぎないのだ。その無理を通せ、と神官達が五月蝿いだけだ。
ちなみに、この当時のウルク、ひいては南部メソポタミアには良質な木材が取れる森は殆ど存在していなかった。実は木材の入手は長年ギルガメッシュを悩ませていた問題でもあった。とは言え、それへの解決策が、今の彼には見えていた。
「エンキ」
「はい、陛下」
「・・・フンババの討伐を行う。手を貸してくれ」
「!」
ギルガメッシュから出された名前に、エンキドゥが目を見開く。フンババ。シュメール語での読み方であれば、フワワ。メソポタミアの神々の一人であるエンリルの遣わした人への厄災。討伐する事が人には恐れ多いとされる、神の獣。
その獣は、良質な杉の森を守っていた。その獣を討伐する事が出来れば、ウルクの民は良質な木材を大量に手に入れられる。民の最大限の幸福を願う王としての、決断だった。
「それは・・・王としての命令ですか?」
「違う。友としての頼みだ」
「・・・なら・・・嫌です」
「嫌?」
か細く告げられた言葉に、ギルガメッシュが思わず目を見開く。今までは、道理ではない、だのここが足りていない、だのと言う事はあった。だが、決して嫌だ、と言った事は無かった。
「なぜ、嫌なのだ?」
「・・・フンババはエンリル神の遣い。もしそれに知られれば、民草には多大な悲劇がもたらされる。彼は神々の中で最も強く、そして・・・私の個人神です。手を出せば、どうなるかわからない」
「っ・・・」
弱気なエンキドゥに、ギルガメッシュは思わず、苦渋を滲ませる。エンリルとは、メソポタミアの神話での最高神の一人。ギルガメッシュの個人神でもある太陽神シャマシュとは違い、本当に恐ろしい神だった。
彼こそが、この時代の神の権化。比較的穏健と言われるアヌやエンリルによる人類の絶滅を何度も食い止めてきたエアとは違い、正真正銘メソポタミアの人類を何度も絶滅しかけた存在だった。
「・・・わかった。手を貸してくれなくて良い。よく思い出せばお前は神に創られたのだったな。確かに、何が起きるかわかったものではない」
「っ! 違うんです。行かないでください。フンババは強大です。あなたさえ、命を落としかねない」
「いや、そういうわけにはいかん。誰かが、やらねばならん。これから冬になれば、より木材は要るだろう。あのイシュタルも何を言うかわからん。我らウルクの民は常に、木材を欠いている。これは、天命だったのだろう。誰かがやらねばならぬのなら、それは王であるオレの使命だ」
必死のエンキドゥの制止に、ギルガメッシュが首を振る。人の王であればこそ。神々の傀儡では無いからこそ。民草を最大限に幸せにする。その覚悟が、彼にはあった。それ故の、決断。彼がはじめてくだした、神への反逆。その覚悟を、エンキドゥは唯一の理解者であればこそ、理解した。
「・・・なら、願いがあります」
「なんだ?」
「あなたの母、ニンスン様へと願い出て、あなたの個人神であるシャマシュへとお願いを行ってください。あなたが神を良く思っていない事は知っています。ですが、これがお願いです・・・その代わり、私もあなたと共に行きます」
「っ・・・」
友としての願い。出来る事はしてくれ、という頼み。自分が危険な立場に陥る事を覚悟での、同行の申し出。友としての想いが、そこにはあった。それが、ギルガメッシュの頑なだった心を動かす。
「・・・わかった。あの森はシャマシュの管轄。確かに木を切る以上、管理者に許可を貰うのは道理だ・・・エンキ、行くぞ。神官共よ。祈りを捧げておけ」
「はい」
「はっ」
ギルガメッシュの出立に合わせて、各々が各々の行動に入る。そうして、エンキドゥはニンスンに出会った。そうして、ギルガメッシュが一人シャマシュへと祈りに出かけた後、エンキドゥはニンスンに呼び出された。
「・・・あなたが、エンキドゥですね」
「はい」
「・・・息子を、頼みます。彼は神々の悪徳を山ほど見てきた。私やシャマシュの言葉でも、殆ど届かない。シャマシュも心配しているのですけど・・・」
「・・・はい。私には父も母も居ませんが・・・これが、母の愛、というものなのですね。わかりました」
久方ぶりに、エンキドゥが微笑みながらわかりました、と告げる。母の愛。父の愛。それは、彼が知る事の無かった事だ。まだまだ知らない事はたくさんあったらしい。そんな彼に、ニンスンは微笑んだ。
「あら・・・じゃあ、私が、あなたのお母さんになってあげるわ。お兄さんを、よろしくね」
「え・・・?」
「帰りました、母上。シャマシュより、許可と助力を頂きました」
「あら、丁度よい所に。ギルガメッシュ。たった今から、エンキドゥを私の子供に、あなたの弟にする事にしました。弟をしっかり守るのですよ」
「・・・はい?」
帰るなり開口一番に告げられた言葉に、ギルガメッシュが目を瞬かせる。そしてエンキドゥの顔を見たが、今自分が浮かべているだろう表情そのものを浮かべていた。それに二人は思わず、顔を見合わせたまま吹き出す。
「ぷっ・・・行くか」
「はい、ギル」
こんな神様の戯言は無視に限る。二人はそう考えて、ニンスンの冗談とも本気とも取れぬ言葉を背に、フンババ退治へと向かうのだった。
「エンキドゥ・・・お兄さんを、お願いね」
ニンスンはそんな二人の仲よさげな様子に、微笑みを送る。これで良いのだ。息子には言葉は届かなくても、エンキドゥには届いただろう。彼なら、支えられる。そう思ったのだ。そうして、彼女はメソポタミアの天界へと戻るのだった。
お読み頂きありがとうございました。




