断章 3つの試練 第35話 第一の試練 ――終了――
ゴルゴン三姉妹を呪いから完全解放するという偉業を成し得たカイトの話は、即座に神々の間で知れ渡る事になる。そしてそういうわけであるので、それは休む間も無く神々や英雄達の間や神域のほうぼう回って妻を助ける為の材料を追い求めていたオルフェウスの耳にもすぐに入った。
『というわけよ。助力を求めてはどうだ? あながち出来るやも知れんぞ?』
「おぉ・・・あの蒼髪の方はまさか、そんな事まで・・・」
懇意にしていた英雄の使い魔からカイトが成した事を聞いて、オルフェウスが大いに感嘆する。エウデュリケの蘇生は今まではどんな神々でも不可能だったので、心の何処かで無理なのでは、と思っていた彼女の蘇生が彼にもにわかに信じられてきていたのだ。
「これで、最後・・・」
一歩毎に高まる希望を胸に、オルフェウスは彼に与えられた最後の材料を回収する。これは誰かから貰う物では無く、魔物が闊歩する森の中から回収する物――とある木の実――だった。
(ああ・・・数千年ぶりに、血が滾る・・・)
オルフェウスは竪琴をかき鳴らしながら、心の底から湧き出る熱い気持ちを抑えつける。今歌っている歌は、数千年ぶりに歌った子守唄だ。周囲には数多凶暴な魔物が寝ていた。音楽魔術の本領発揮、というわけである。とは言え、それは穏やかな物だ。熱い気持ちを滾らせるわけにはいかなかった。
彼とて英雄として讃えられ、そしておそらく古代ギリシアの音楽家としてはその名を知らぬ者の居ない有数の音楽家なのだ。戦士達が強敵に出会い血を滾らせる様に、英雄に出会い名声を目の前にして、血を滾らせる事があった。その本質は数千年を経た今なお、失われていなかったのである。
「・・・すいません。どうやら、子守唄を歌えるのはここまでのようですね」
血の滾りを抑え切れず、オルフェウスが苦笑する。彼は音楽家だ。どうしても、感情を音楽で表現してしまう。それ故、聞こえた名声は思わず彼の血を滾らせて、音楽を激しい物へと変えさせる。それは灼熱の魔力を伴った魔の音楽。聞いた者を灰燼へと帰する灼熱の音だった。
「あぁ・・・燃え上がる様なこの思い・・・もうすぐ、貴方に・・・」
妻への恋心を燃え上がらせて、オルフェウスは魔物達を滅ぼしていく。数千年、恋心は厳寒の冬の様な悲しみを伴っていた。
だが、この数時間は逆に灼熱の夏の様に燃える様に燃え上がっていた。出来る。今の彼はそれが心の底から信じられていた。そうして、彼は数千年ぶりの灼熱の歌をかき鳴らしながら、妻の待つ冥府へと戻っていく事になるのだった。
一方、冥府ではティナが2つの鍋に様々な材料を入れて、煮込んでいた。基本的に、飲み薬の場合の調合はこんな物だ。誰もが思い描く魔女が大鍋や鍋に色々な素材を入れて煮込むのは、正しい想像だった。
「ここで砕いたガーネットを少し・・・」
「えらく火属性の素材を使うのね。鍋が2つある理由は何?」
「うむ。今のエウデュリケとやらは謂わば土を余剰に掛けられて、体内の火が鎮火してしまっておるようなもんじゃ。まずは火を入れてやって、その火を燃え上がらせてやらねばならんのじゃな」
エリザの問いかけに、ティナが答える。彼女とエルザは一足先に帰還していた。まあ、オルフェウスが率先して困難な素材の調達に走っていた為、彼女らはそこまで時間がかからなかったのだ。
そうして素材を煮込む事、丸一日。ティナは片方の鍋の火を止めて、抽出した液剤を水出しの容量で抽出していく。
「よし・・・これで良かろう。これで身体の火を燃え上がらせる薬剤は、後は待つだけじゃな」
「もう片方は?」
「もう片方はオルフェが木の実を持ち帰ってから、じゃな。このままでは効果が強い。なので些か落としてやらねばならんのよ・・・本来は強力な薬剤じゃが、効果を低下させる為には、ということじゃな」
「ああ、それで水域に生える木の実、だったわけね」
ティナから説明された意図を聞いて、エリザが何故オルフェウスにその素材を手に入れてくる様に命じたかを察する。今オルフェウスが取りに行っていたのは、神域の中にあるとある湖に側に生える木の実だった。
これは比較的簡単な物だったので、もうすぐ帰って来るだろう、というのが一同の予想だった。そして案の定、そんな話をしていると子守唄が聞こえてきた。その腰にはかごいっぱいの青い木の実が入っていた。
「ただいま戻りました・・・これが、『水珠の実』です」
「うむ・・・ではこれを絞り・・・お主が絞るか?」
「・・・はい」
「では、絞った煮汁をこれに注げ。それで終いじゃ」
最後は彼の手で完成させてやるか、との心意気を見せたティナに、オルフェウスが少しの喜びを見せて、自分が取ってきた木の実を専用の道具で潰して、渾身の力で絞り汁を鍋に注ぐ。
「良し・・・これで冷めれば、使えるのう・・・カイト。聞こえとるな?」
『アイアイマム』
「こちらの用意は整った。お主も来い」
『アイサー』
この時丁度カイトはアテネとの会話が終わった所だった為、その要請に応じてハデスの神殿を通ろうとして、ふと気付いた。
『・・・通れません』
「あ・・・私がお連れ致しましょう」
「急いとるのう」
一秒も惜しい。オルフェウスの顔からはそんな感情が滲んでいた。まあ、そう言っても鍋が冷めるのを待たねばならないので、あまり意味の無い事だろう。
とは言え、それでもじっとしては居られない、という事なのだろう。そうして、更に20分後。オルフェウスに連れられて、大鷲を肩に乗せたカイトがやって来た。
「うむ。後少し待て。中まで冷めなければ、意味がない」
「先に呪いを解いては?」
「馬鹿者。下手に解呪しては呼吸も止まるぞ」
「あ・・・」
生きている事を忘れている、という事は即ち、呼吸さえも止まってしまうのだ。なのでティナから指摘されて、オルフェウスが照れた様にそんな簡単な事にも気づかなかった、と頬を赤らめる。そうして、更に一時間。何度もかき混ぜながら中まで冷ましていたティナが、納得する。
「うむ。これで大丈夫じゃろう」
始めはグツグツと煮上がり湯気を上げていた鍋は、今では逆に冷えて手に持てる程度にまで冷えていた。そうして、ティナはその鍋の内部のまだ少し温かい部分だけを器用に掬って、小瓶に入れる。今回使うのはこの内側の部分だけだった。
「外側はまた別の薬剤として使えるので使うとして・・・良し。これで準備が出来た」
「おっしゃ。じゃあ、今度はオレの出番か」
ティナの言葉に、カイトが立ち上がる。かなり予想外の事だったが、幸いにしてノームの助力とルーン魔術を習得出来た。なので解呪の力に限って言えば、更に上に辿り着いていた。というわけで、カイトはそちらを選ぶ事にする。確実性の高い方を選ぶのは当然だった。
ちなみに、幸いと言うかなんというか、ティナが魔法陣を刻む為の小道具一式を持ち合わせていたので、カイトは貧血にならずに済んだ。
「オルフェよ。わかっておるな。お主は外に出るまでは妻を見てはならんぞ」
「はい・・・お願いします」
エウデュリケが石化から解き放たれてからは、薬を飲ませなくても試験は再開する。どれだけ見たくても、見てはいけない。かつてと同じ過ちをしてはならない。それを肝に銘じて、オルフェウスがカイトに願い出る。
それを受けて、カイトが一つの刀を取り出した。それは解呪の為の力を持つ謂わば儀式用の刀だった。巫女達が持つ刀と同じ、と思えば良い。
「さーって・・・我、土の大精霊が名代として、この世界に問おう。彼の者はかつて、試練に挑みて妻を喪った。しかし、これは本来はあらざる形であると思う。神々の試練を受けて彼の者が払った代償は、妻との時間。更には幾星霜にも及ぶ月日、彼はこの場で次の生へと旅立つ死者達の慰めを成してきた。それはやり直しに相応しい対価だろう・・・それに同ずるのであれば、我が太刀に解呪の力を乗せよ」
カイトは解呪の為に造られた謂わば退魔刀を天に掲げて、ノームの力を使って世界に問いかける。石化していた為、ノームの力も借り受けていたのである。色々とやっているのは確実に成功させる為の保険のような物だ。
「ふっ」
カイトが上段に構えた太刀を振るい、石像から光が巻き起こる。そうして、誰もが目を開けていられない程だった光は10秒ほどで収まっていき、どさり、という石の崩れる音では無い音が響いた。が、今のままでは身体は石の様に固まっており、心臓や呼吸を含めて、全く動いていなかった。
「・・・っ」
どうあっても見たい。そんな感情がオルフェウスから溢れる。だが、見る事は無い。もう二度とは嫌なのだ。しかも、二度のやり直しは無い、と言われていた。ここで見るわけにはいかなかった。
そうして、そんなオルフェウスを横目に、ティナが急いで石化の解かれたエウデュリケの口に薬を注いで、更にエリザが用意した霊峰の山頂の氷を溶かした水で強引に飲ませる。
「けふっ・・・」
エウデュリケの口から、小さく咳き込む音が聞こえた。肉体が賦活したのである。そうして、同様に身体も動く様になっていた。同時に少し冷たくはあるが、体温も戻ってきていた。
「今度は、しっかりと奥さんを送り届けてやれ」
「・・・っ」
カイトの言葉と共に感じた妻の体温に、オルフェウスが涙を流す。数千年前の感触と何ら変わる事が無い感触だった。そうして、感謝の言葉さえも言えず、オルフェウスが歩き始める。それに、カイト達も続く。
「後もうちょっと」
「ほれ、後500メートルじゃ」
カイト達からの声援を受けて、オルフェウスは一歩一歩確かに歩を進めていく。そうして少し歩くと、歌が聞こえてきた。先にエリザとエルザが出て、ケルベロスを寝かしつけてくれていたのである。
「あ、歌が聞こえてきたな・・・ほら、後もうちょっとでゴールだ」
「・・・見えた・・・」
石の通路を通ってついに見えた冥府とこの世の門に、オルフェウスがようやく声を発する。そうして、彼は再び妻を背負って歩いて行く。
「・・・あ・・・」
『オルフェウス殿。よくぞ数千年の間耐えられた』
出迎えたのはケルベロスだ。音楽は鳴り響いていたのだが、流石に何度も眠らされては眠れるか、と苦笑気味に一笑に付したのである。
『ハデス様の命により、オルフェウス殿とその妻、エウデュリケ殿を冥府から出る事を認めよう・・・新たな英雄達よ。よくぞこの神話となりし悲劇を打ち砕いた』
ケルベロスがカイト達に対して、称賛を送る。これを成し遂げたのは、まさに英雄と讃えられる事だった。
「っ・・・あぁ・・・あぁ・・・エウデュリケ・・・」
「ほれ。最後の薬を飲ませるから、少し我慢しろ」
ようやく外に出られて妻の身体を抱きしめていたオルフェウスに対して、ティナが苦笑気味にまだ早い、と告げる。そう、薬はまだ一つ残っていた。これは外に出てから飲ませる物だった。そうしてそれを飲ませると、ゆっくりとだが、穏やかな声が聞こえてきた。
「・・・う・・・うぅ・・・あな・・・た・・・?」
「あ・・・」
呼ばれた自らの名に、自らの頬に触れられた手に、オルフェウスが歓喜の涙を流す。謂わば夢のよう。そんな歓喜の涙だった。
「ああ、そうだよ、エウデュリケ・・・」
「歌が聞こえたの・・・貴方の歌が・・・綺麗な歌だった・・・」
まだ満足に動ける様な状態では無いのだろう。かすれるような声が、オルフェウスに告げられる。石化を解いたからといって、それだけでお終いなのでないのであった。
現にオルフェウスには飲み薬として、定期的に飲む様に、とティナから薬が渡されていた。これからはリハビリも必要だ。完全に元通りとなるのは、数年は掛かるだろう。
「ありがとう・・・ありがとう・・・ありがとう・・・」
2つの意味で、オルフェウスが涙を流しながら、何度も感謝を述べる。一つは、妻の称賛に対して。もう一つは、こんな奇跡を起こしてくれたカイト達に対して、だった。
『ケルベロス。悪いが、のちにオルフェウス殿にハデス様の所に来る様に伝えてくれ。流石にこの場で告げるのは憚られる、だそうだ。一応、外では待つそうだがな』
『かしこまった、ゼウスの聖獣殿』
大鷲の言葉に、ケルベロスが苦笑気味に小さく頷く。流石に再会を喜び合うオルフェウスに試練のことは頼めない、とカイトが頼んで伝言を残してもらう事にしたのだ。そうして、カイト達は一足先に神殿を後にすることになるのだった。
それから、一時間ほど。神殿の前の草原で出て待っていたカイト達だが、そこにオルフェウスがエウデュリケを背負ってやって来た。その時には泣き止み、後に聞けば神官達から水を貰い顔も洗った為、涙の跡も見えなかった。とは言え、やはり目は赤かったが、頬には歓喜の笑みが滲んでいた。
「申し訳ありません、みなさん。少し心が乱れ、皆様のお願いを失念しておりました」
「いや、良い・・・あ・・・そういえば出てもらったは良いんだけど、家とかどうなってるんだ?」
「ああ、それでしたら、一応この神域にある街に家を一件持っています。まあ、もう当分帰っていないのですが・・・」
オルフェウスが遠くに見える街を見ながら、苦笑気味にカイトに告げる。当たり前ではあるが、彼は普通に行動が出来る。出る事はあまりなかったが、無かったわけではないらしい。
どうしても英雄時代の縁から出なければならないこともあり、そういう時の為に、ゼウスから家を与えられていたのであった。メンテナンス等もゼウスが手配していたたらしいので、今でも大丈夫だろう、という事だった。
「んー・・・」
そんなオルフェウスの言葉に、カイトが頬に手を当てる。何を考えているのだ、と全員が首を傾げる間に、カイトは答えを出した。
「乗っけてこうか?」
「・・・いえ。もうしばらくは、このまま」
歩いて帰りたい、という事なのだろう。オルフェウスが少し照れながら、カイトの申し出に首を振った。幸いここから街までは巡回の道がある為、安全だった。
更に彼ほどの音楽家であれば、歌だけで魔物をどうにかすることは出来る。口さえ動けばどうにでもなった。それに歩いても一時間ほどだ。積もり積もった話を含めて歩いていけば時間は気にならないだろう。
「オリュンポスの神々の会議の際には、私をお呼びください。すぐさま参らせて頂きましょう」
「ああ、頼む・・・じゃあ、奥さんとしっかりな」
「はい」
オルフェウスはカイトの問いかけにしっかりと頷いて、ゆっくりと歩き始める。そうしてその背を見送りながら、カイトが問いかけた。
「これで、ハデスの試練突破、でいいよな?」
『うむ』
「しゃ! じゃあ、ラストもクリアして、宝物庫を開いてもらおうかな!」
大鷲の言葉に、カイトが笑いながら肩を回す。幸い、最後のポセイドンの試練のクリア方法はすでに見つけ出していた。もう問題が無い様に思えた。が、そうしてカイト達は再び神殿に戻って、そうでは無かった事を知るのであった。
お読み頂きありがとうございました。




