03
ミミズ腫れになっている腹の傷を指でなぞりながら俺は溜め息をついた。
どのくらい経ったのか知らないけれど、月の位置がだいぶ移っていたから何時間か路上に倒れていたままだったらしい。北国でないとはいえこの季節、よく凍死しなかったものだ。
パトロール中の警察官に叩き起こされた時は愕然とした。服は血まみれだし、刺されたあたりの衣服はザックリ裂けたままだし、血溜まりにナイフは転がったままだし。救急車とパトカーが両方到着して、うっかりパトカーの方に乗せられかけたがひとまず救急車で運ばれた。
しかし貧血に近い症状と真新しい傷跡があるものの至って正常。従って感染症の心配もない。申し訳程度に点滴だけ施されて病院からリリースされたと思ったら事情聴取だなんだと理由をつけ警察にお持ち帰りされてしまった。
「あの血溜まりに覚えはありますか」
気怠そうに初老の刑事が尋ねてくる。
嘘みたいなホントの話はしない方がいい。まさに今はその状況だ。
あれは俺の血です、傷跡はあるけど塞がっているじゃないか、死神っぽい人が助けてくれたようです。脳内で会話をシミュレーションしてみたところ、別の意味で檻付きの施設に収容されてしまいそうだ。しばらく悩んで「何も覚えていない」とだけ主張し続けるしかなかった。
現場に残された血液を分析中だと聞かされたが、結果を知らされるまでもなく自分のものだと分かっている。ナイフにはどういうわけか指紋など残っていなかったらしい。そこまでやるなら血も片してくれればこんな面倒事にならず済んだのに。
服の裂け目とミミズ腫れの位置と状態、それらをナイフの形状と照合した結果、見事に一致したとかなんとかで俺がナイフで刺されたことは決定事項になったようだ。こうして、傷は完全に塞がり被害者はなにも記憶していないという不思議な事件が出来上がった。
「犯人に繋がる手がかりが分かったら連絡しますね」
帰り際、刑事が名刺を差し出しながらそんなことを言ってきた。何かあったらここに電話してくれれば直通ですので、などと親切に添えられたがそれを利用する日はこないだろう。事故扱いにはならなかったけれど、とりあえずのところ迷宮入りは目指せそうだった。
そして彼女のことは何も忘れていなかった。
気絶するほんの一瞬手前、悲しそうな表情で呟かれた言葉まではっきり覚えていられたから。
正確に言えば忘れているけれど、思い出そうとすればするりと出てくる。少々難解なからくり箱にしまい込んだ記憶のようだった。
彼女の言葉全てが本当なら、きっと俺は一度死んだ。でも彼女の摩訶不思議で生き延びた。何が変わったかと問われれば言い難いが、ふとした瞬間に濁々とした気に触れるのだ。目に見えないし形もないそれが身体を突き抜けていく。もしかしてと振り返ってみても彼女はおらず、ビル風があっという間に消して去っていった。
数日後、俺は再び図書館へ向かった。あの時借りて懐に収めていた本はナイフが当たって破け血糊で捲ることもできないページだってある。表紙を返せば定価にして五千円オーバー。随分高いな。やっぱり弁償だよなと足取りは重い。
返却カウンターにて事情を話すと図書館員は本に触れもせず、これはダメですねえと顔を引きつられせた。
「汚損の場合は同じ資料を納めていただくことになるのですが」
「あまり本屋とか馴染みなくて……どこでなら買えますか?」
「大型書店なら在庫があると思いますよ。半年ほど前に刊行されたばかりですから」
大型書店、ねえ。その場所すら分からないんだけどと首を傾げ言いかけた時、袖口を引かれて振り向いた。
「また会ったね、おにーさん」
先日の少年が、その時とはまた違った本を片手に立っていた。
「壊した本が売ってるお店を知ってるよ」
名も知らぬ少年と肩を並べて電車に乗る姿が窓ガラスに反射して映し出される。外はいつの間にかネオンサインがやかましくなっていた。
僅か十五分ほどの乗車時間であったが、彼は借りたばかりの本に読みふけっていた。何を読んでるんだと聞いただけなのに、邪魔をするなと言わんばかりに目を剥かれた。睨むことねえだろ。覗き見た表紙には絡み合う螺旋模様が描かれていた。
辿り着いた大型書店は、俺の想像を超える大きさだった。地下一階、地上九階の合わせて十フロアで構成されたビル丸々一棟が全部本屋なのだ。ここらは何度も通り掛かって建物の存在は何となく知ってはいたが、まさか丸ごと全部で巨大な本屋だったなんて。フロアガイドの前で立ち尽くし、これは図書館何個分に相当するのかと考えてしまう。しかし彼には本の所在まで分かっているらしく迷わず専門書が並ぶ一角に俺を導いた。
「この棚のどこかにあるんじゃない」
指示された書架を端からなぞってみれば、ラスト一冊のそれはすぐに見つかった。
「場所までよく知ってたね」
「お年玉で買おうと思ってたから」
「これが最後なのに、なんか悪いな」
「別にいいよ。読みたくなったらまた借りるし」
お年玉という懐かしい響きと、少年の楽しみを奪ってしまったことにいささかの罪悪感を抱く。その代わりとして別の本をプレゼントしようと提案したら、嬉しそうなのにどこか冷めたような顔をした。
「耳の形は遺伝するんだってさ」
そう言って少年が選び取ったのはDNAがどうたらと書かれた帯付の書籍だった。
小綺麗に切り揃えられたもみあげには、引っ張り苛めたくなるような耳朶が自己主張していらっしゃる。
「幼なじみでさあ、髪の色だって全然違うのに耳の形だけまるっきり同じ子がいるんだ」
「へえ、さぞかし立派な福耳なんだろな」
「まあね。それがどうしてなのかずっと気になってて。つい最近はとこだったことが分かったよ」
はとこってなんだっけ。いとこのいとこだっけか。ともかく随分と遠縁だな。そんなことを考えていたら見透かされたのか「ひいおじいちゃんが同じ人」などと小馬鹿に吐き捨てられた。
「そのためにわざわざこんな本読むなんて真面目かよ」
「自分のことを知るのは大切だと思うけど?」
改めて、彼とはこんな縁でもなければ話すことはおろか知り合いもしなかっただろうと実感した。納本を済ませばあの図書館へ行くことはもうないし、本屋だって間違ってもこのようなコーナーに足を向けることはないのだから。
親切な申し出だったとは言え、未成年をあちらこちら連れ回してしまっている。大人の責任のようなもので、彼を最寄駅までは送り届けることにしたところ、その行き先は荻窪だった。てっきり渋谷界隈に住んでいると思っていたが、あの時現れた少女着ていた制服は図書館近くにある学校のものによく似ていたことを思い出す。わざわざ電車で彼女のいるところまで通っているなら健気ないじらしさが感じられる。冷めているようで中身はどこにでもいる男の子のようだった。
「この前いた子は彼女だろ」
「まあね」
「女の子は大切にしないと痛い目見るんだぜ。あんまり楽しそうな顔してなかったぞ」
「よく分からないんだ。つまらない顔されても、よく分からない。本当は図書館も好きじゃないらしくて。でも分からないんだよね」
「そりゃあ当たり前だよ。女の子はいつだって自分を一番で見ていて欲しいんだから」
「うーん、覚えとく」
お見送りは改札までのつもりだったけれど、雰囲気に流されるまま俺も北口ロータリーに降り立った。彼はそのまま家路に消えて行き、俺はぼんやり突っ立って一息つく。
下町よりも下町らしい香りが鼻をくすぐって、行き交う人が柔らかく色づいて見える。
赤。紫。橙。緑。藍。黄。そして黒。
視界に違和感を覚え頭を振った。数回ほど瞬きをすればさっき見えた色はもう消えている。今のは何だ。瞼を閉じて深く息を吐いた。そしてまた瞼を開けば、人間を色の霞が取り囲んでポカンと浮かび出す。何も見えない人もいて、その割合は半々といったところだ。注視しなければ見えないほど朧気な謎の色。夕日なんてとっくに沈んでいる。それが自然の色でないことは明白だ。
頭がおかしくなったかそれとも目がおかしくなったのか。いや、おそらくそんなものでなくもっともっと根が深い。深呼吸ひとつ置いて気を落ち着かせてから今一度周囲を見渡した。
そうしていると、ひとりだけ明らかにおかしな色合いを放っている青年がいた。最初は火だるまにでもなっているのかと思ったけれども、その茜色が発光して白くなる有り得なさ。そして瞬く間に泥水のような濁りが差して、周りの汚いものを全て吸い尽くしてしまったように黒くなった。
なんだろう、見えない糸に引っ張られ気がつけば彼の背中を追っていた。
ハタチそこそこ、大学生だろうか。小洒落たブーツの踵はぼとぼとと覇気のない足音しか鳴らさない。改札をすり抜けてホームに立った彼はどこか所在なさげで、その時になって俺はようやくこいつの黒があの時に酔っ払い死んだ親父と同じだということに気がついた。
彼は三歩も進めば線路に飛び込める位置にいる。そしてその向こう側にギラギラ輝く前照灯が確認できた。その瞬間に彼を取り巻く黒霞が一層濃くなって、棒立ちの足がフラフラ揺れている。
まさかそんなわけない、あるわけがない。嫌な予感を無理矢理にねじ伏せて俺はそいつに背を向けた。そして逃げ出すように階段を駆け下りて改札口を飛び出した時、けたたましい警笛音だとか誰かの悲鳴だとかが背中を突き抜けたのだ。
改札の外側から様子を伺っていると次から次にほかの利用客が降りてくる。
「参った人身事故だよ、今日は遅くなるね」
そんなことを電話で愚痴っぽく話す人もいた。どの顔もうんざりしたようなため息混じりで、しかしどこか悟った表情で改札を抜けていく。よくも悪くもこういうハプニングに小慣れてしまうのがこの街で生きる者の宿命だから。
俺は予感してしまっただけじゃないか、何をびびっているのか。
そもそもあの青年だったかも分からないのに。
心臓が飛び上がるような感覚とはまさにこのことだろう。浅く吐き出す息は乱れっぱなしで思考がバチバチと音を立てて止まる。何も考えられなくなって、右にならえで地下鉄で迂回する人の波に乗っかった。
地下鉄に流れる人と今しがた乗り換えの為に地下鉄を降りた人がぶつかり合ってホームはすぐに混雑をし始める。乗り込んだ電車もあっという間に埋まっていって、大きく車体が揺れれば肩が触れ合うほどだった。
なんとも言えぬ気持ち悪さに襲われながら固く目を閉じる。一駅、二駅とあそこから遠ざかり、これでよかったのかなんて自問自答をした。逃げ出さずに後ろから羽交い締めにでもしておけばよかったのか。それでもばったり飛んで、あの親父みたいにホロリと死んでしまったのではないか。
「この人、痴漢です!」
次から次になんなのか。目を開けると同時に左腕を掴まれる。そして車内の視線を一挙にかき集めてしまった。それとタイミングを同じくしてドアが開き、ほかの乗客の加勢もあってか突き飛ばすように車外へ放り出されてしまったのだ。
人違いだ、濡れ衣だ。どこの馬鹿女の仕業かと振り返って息を飲む。
「……なーんてね」
「笑えないぞ!」
「だって貴方、逃げたじゃない」
駆けつけてきた駅員のことは「勘違いだったみたいです」なんていたずらっぽい笑顔でいなして、シャロンは俺に向き直った。
「男にとってこういう悪ふざけ、本当に笑えないから」
「あらそう。覚えておくわ」
本当にどうかしてるぞと怒鳴りたい気持ちを抑え込む。まだここは人の目が多い。今度は俺の方から彼女の腕を取り、人気のない場所を求めて駅を出た。抵抗するわけでもなく従ってくる足音は軽やかで、傍目に見れば仲睦まじい男女の姿に見えなくもないかもしれない。
地上に上がり環七通りのすぐ手前に公園があって、吸い込まれるようにしてそこへ入る。ようやく引っ張ってきたシャロンの方を見ると、俺を嘲るような薄笑みを浮かべていた。
「新世界に来た気分はどうかしら」
「なんのことだ」
「あら、目覚めた世界は本当に元の世界なのかしら?」
一体何を言っているのだろう。言葉も出ない俺に彼女はたたみかけた。
「もしかしたら貴方は死んだのかもしれない。もしかしたら貴方は生きているけれど、それ以外は全員死んでいるのかもしれない。もしかしたら生者も死者もごちゃ混ぜの世界かもしれない。自分が見てきたものをよく考えてごらんなさい」
彼女の白い指先がすっと伸びてきて額をなぞる。一度死にかけた時もこれだった。
俺は死んでるのか。歩いたり飯食ったり誰かと話をしたりもしてるのに。こういう手合いの話はフィクションの中だけではなかったのか。
「……なーんてね。貴方はちゃんと生きているから安心して」
「人を愚弄するのもほどほどにしてくれ!」
「真面目な話なんだから。新しい世界というのは本当よ。コロッとこちら側に来てしまう人間は意外と多いの」
こちら側と言った彼女の目が怪しく光る。
「貴方、見ていたはずなのに逃げたでしょう」
「……さっきの人身事故、お前がやったのか」
「聞き覚えの悪いこと言わないで。貴方こそ、気付いていたくせにどうして逃げたのかしら」
吐息が落ちて、また強く光る瞳に吸い込まれそうになった。どうして逃げたのかと責めているようでいて真新たらしい玩具を手にした子どものように瞳を輝かせている。
「意地の悪い奴だな。見ていられるわけないだろ」
「怖かったと素直に言えばいいのに」
「誰のせいで目が変になったと思ってんだ」
「やっぱり見えていたんじゃない」
「だからなあ!」
それはお前の仕業だろう、そう責め立てようようとした唇はいつものやり方で塞がれてしまう。
「よく思い出してごらんなさい、私が貴方を助けるより前から見えていたでしょう」
唇に当てられた指先が額に移される。何かを施されているわけでもない、ただ添えられただけだ。彼女の言葉を何度も何度も頭の中で反芻しているとひとつ心当たりに辿り着いた。
「あの酔っ払い親父かよ」
私のせいじゃなかったでしょと、彼女は尊大な笑みを取り繕おうともしない。それなのにどうしてか、とぐろを巻いていた苛立ちが静かに冷めていく感じがして肩の力も抜けてしまう。
「人間、死を目の当たりにすると無いものが視えてくるなんてよくあることなの」
「俺の頭がいかれちまったとでも言うのか」
「他人がどんな人間か、手に取るように分かるなんて素敵な世界じゃない」
絶対的な楽観主義を押し付けられたようでくらりと目眩がしてしまう。そういえばと目を凝らしてもシャロンに色はなくて何も分からないままだ。
「当たり前でしょう、だって私は貴方と違うから」
「お前は読心術の心得でもあるってのか」
「視えるパターンがあるなら、聴こえるパターンだってあるかもしれないよ?」
北風が向かい立つわずかな隙間を吹き抜けた。巻き上げられた埃が目に入って視界は消されてしまう。彼女の気配が遠ざかり、咄嗟に伸ばした手は空振りだ。
「貴方を助けたのはほんの気まぐれ。だって面白そうだったから」
「ちょっと待って」
「死に行く人にしか用はないの。ばいばい」
「どこ行くんだ!」
「貴方にはもうすぐ春がくるからね。だから私とはさようなら」
煩すぎる風が今度は音も奪い去った。その風がピタリとやんで目をこすり開けた時にはもう誰もいない。足跡すらも消し去ってしまったようで、広がる世界はたぶん今までのとは少しだけ違っていた。
冬に見出された星の名が言い残したものが春だなんて。これまでのように彼女を追いかけ回してみたところで捕まえようもないんだろうという予感が漠然と広がる。それは過ぎる季節を留められないのと同じだ。
大人しく春を待っていればそのうち巡り巡ってまた冬が来るのかななんて、見上げた宇宙には何も見えないままだった。