02
昨晩の強烈な記憶は流石に薄れないようだ。夜明け近くに帰宅して一眠りし目覚めると時刻はすでに正午を回っていた。そろそろとベッドから這い出て、柄にもなく図書館へ向かった。
図書館なんて文学少女だったマイカちゃんと来たとき以来だ。
隅々まで書架を巡り歩いて両手に抱えきれないほどの本を持ってフリースペースの一角を占拠した。片端に座る学生服姿の少年と目が合った。背格好からして中学生だろうか、目が合っただけなのに睨まれるというオマケ付き。もし己の中学時代にこんなクラスメートがにいたら確実にいじめてたと思う。しかし目尻の治りかけている痣に気が付いてそんな感想は引っ込めた。きっとこの少年の瞳に俺の姿は、いじめっ子と重なり映っているに違いない。
学校つまんねえだろ、独語のつもりが彼にも聞こえたようで、一瞬の間を置いて頷くのが見えた。飛んだり引きこもっているよりはここにいるだけ健全だ。こいつは天国側の管轄がお迎えに来て欲しいなんて考えながら一冊目を捲る。
そもそも地獄とは何ぞや?
蓮池から覗き込むところが地獄か。赤く煮えた釜で茹でなぶられれば地獄か。はたまた平伏すまでサタンに説法されるのが地獄か。さり気なく余命宣告されている現状なわけだが、このまま彼女の正体を見る前では死ぬに死ねない。神話だとか昔話だとかお伽話だとか、そういった類のものを漁れば何か分かるかも。そんな根拠のない衝動だけで始めたけれども、何せヒントが少なすぎる。読み散らかした本からは何も得られないまま時間ばかりが過ぎていった。
そういえば彼女、幾つだったかな。聞いたはずなのにイマイチ記憶があやふやだ。『ご自由にお使いください』と書かれた化粧箱にわら半紙が束で入っていたから一枚拝借し、記憶の糸を手繰り寄せる。二と、四と……そうだ、五と三だ。いや、三と五だったか?
「おにーさん、うるさい」
「あ、ごめんごめん」
黙唱していたつもりが声に出ていたらしい。恥ずかしさでグチャリとメモを握り潰した。
「三とか五とか、どうしたの?」
「謎かけみたいなもの」
「そういうの結構得意だよ」
さっきまで鬱々とした表情に文学に耽っていた彼が、目を真ん丸に見開いて身を乗り出してきた。フラッとやってきた俺なんかよりここに居慣れてそうな彼の方が正解に近付けるかもしれない。
「悪魔の数字って、六がみっつだよなあ?」
「そんな非科学的なもの信じてるの?」
小馬鹿に嘲笑う横面を殴りたい衝動に駆られるが、相手は中学生だ。そこはグッと押し留める。その代わりにナンパしてたらこんなことがあったんだよと、アノ数字を指立てて彼に見せた。
「三と五って、八の間違いじゃなくて?」
俺の指を眺めて数秒、彼が鋭く指摘する。確かに八とも読めるなと、袋小路をひとつ抜けた気分になる。だからといって答えには繋がらない。しかしそれも彼が紐解いてみせたのだ。
「二と四と八なら冪演算で説明できる」
「べきえんざん?」
「二の累乗数になってるじゃん」
「るいじょう……?」
「数字の右肩に小文字で数を書く計算あるでしょ。おにーさん、もしかしなくても馬鹿?」
「うるせえなっ」
そんなのいちいち覚えていなくとも大人にはなれるのだ。もう一枚メモをいただき三文字を書き付けてみる。四桁より優しい数字に見えてしまうから不思議だ。
「二四八年前って何があったかな」
「江戸時代だね」
「江戸時代って風体じゃないんだよな……西暦二四八年は?」
「アマテラスの岩戸隠はその年の皆既日食のことだって説がある」
それは初耳だった。神話にもそれなりの根拠があるのかと関心は高まる。他にもあるのかと尋ねたら間も置かずに彼は答えた。
「卑弥呼もその頃、死んだらしいよ」
「なんでそんなことまで知ってんだ、気持ち悪い奴だな」
「おにーさんが聞いてきたんでしょ」
「悪魔の数字と同じくらい眉唾じゃないか」
「日本人だもん。こういう話はありだと思ってる」
少年らしからぬ笑みを浮かべ彼は読みさしの本をパタリと閉じた。その表題は手で隠れているが一部だけ、カミカゼの単語が覗いている。いかにも世の中を斜に構えて見ている顔付きも頷けるなかなかのチョイスだ。
「もう行くね。おにーさん、バイバイ」
立ち上がった彼の向かう先には同じ年頃の少女がいた。彼が取り出したマフラーが少女の身につけているものとお揃いだということに気付き、黙っていてもふたりの関係を理解した。
少女の視線が俺に突き刺さる。それは「読書の邪魔された」という誤解を生むような彼の発言を合図に毒々しいものに変わった。積極的な邪魔などしていないし、仮に邪魔していたとしても睨むことないだろう。
並んで図書館を出るふたりの後ろ姿。さらりと流れる少女の黒髪を見て、そういえばあの子もあれくらい黒かったという情報が呼び戻された。
これといった実りを得られた感触もないまま、今日のところは引き上げようと本を閉じた。散らかし放題の本の山に溜め息が出てしまう。どこの書架から持ってきたなんて覚えていないし、返却カウンターに置き逃げしようと思いついたときだ。
「あ、お前ー!」
図書館内であることも憚らない音量で叫んでしまった。カウンターの内側で本など読む姿が目に飛び込んできたのだ。
「うるさいって注意されたこと忘れたの?」
「……いつからいたんだ」
「私の方が先に来てたよ」
手を合わせるように閉じた本の背表紙には『脳科学で読み解くサイコパス』なんていう最高にいかれた内容がうかがえるタイトルがある。
「悪趣味だな」
「さっきの男の子が昨日まで読んでいた本よ」
「ガキのくせに悪食な奴」
「そうかしら? 貴方よりずっと勘が良いみたいだったけど」
二四八の話か。だからと言って二百年以上生きている時点で人間なわけもなく。聞かされた年齢がそもそもデタラメと判断する方がまともだけれど、非科学の塊のようなそれも併せ呑まないと説明できないオカルト現象も目撃しているのだ。色々と考えた結果として、三途の川が勤務先という主張を受け入れつつある自分がいる。
「もう少し、ヒントないの?」
「今なら質問に答えてあげても良い気分よ」
「じゃあ昨日の続き。例えばさあ、戦争でたくさん人が死ぬようなとき、死なせたくない奴がいたらどうすんの?」
どんな答えが出てくるか。そこにはほとんど好奇心しか残っていない。
「生かすこともできる。男の子がさっき読んでた本のようなパイロットでもできたわ」
「マジか。戦場の中でも一番致死率高そうだけど?」
「ひとりくらいならなんとかなるものよ」
「大勢は無理なんだ」
「何事も制約はあるの」
親父の命を掠めとったときと同じ笑みだ。この話も本当なのかなと、不思議と疑いの念は湧いてこない。
「よっぽど品行方正な奴だったんだろうな」
「そうでもないよ。死んだ方がマシなパターンも往々にしてあるんだから」
「へえ、どんなのがあったの」
「そうね、親友を殺しちゃった子とか。自分も死のうとしたけど、心中なんてさせなかったね」
「そこは素直に死なせとこうよ。むしろ被害者を助けようよ」
「私が生かすのは、助けたい人間じゃない」
底冷えする眼光に鳥肌が立った。まさに悪魔的な凶暴さが見え隠れしているようだ。地獄はそんな色をしているのだろうか。
「私の仕事はただお迎えするだけじゃない。産まれたての精神と肉体になるまで、積み重ねた悪行も何もかも浄化してあげるんだ。その穢れは全部私の中に溜まっていく。その容量が溢れる前に吐き出すの」
ここまで言えば想像できるかしら。不吉さすら感じる声色で付け足され、脳味噌にガンガンと響いてくる。
「私の名前を聞いた人間は生きることができる。でも神じゃないから命を与えたわけじゃない。その人間は押し付けられた穢れを命の代わりに燃やすだけ。生き地獄の方が恐ろしいかもね」
「そんなこと言って、本気で俺に名前を教えないつもりだな」
彼女が手に持ったままの本を取り上げた。脳だの科学だのどうでもいい。ここまできたら男の意地だ。
「絶対に君の名前、暴いてやる」
「期待しないでおくわ」
「言っとけ」
そして、片付けておいてねと本の山を彼女に押し付けた。無秩序な量の多さに顔をしかめて瞬いた。
「なんで私が?」
「図書館員に成りすましてんだろう? だったらこれも仕事の内だ。あとこっちの本は借りていくよ」
彼女から取った本はそのまま懐に、立ち去ろうとした俺を追いかけるように彼女の声がする。
「言っておくけど、そんなに時間はないからね」
うるせえそんなもの。心で毒づいたのが感づかれたのか知らないが「次に会うのはそのときで」と付け足される。別に虫の知らせや胸騒ぎがするわけでもなく、いつも通りの感覚なのに。
夜の帳が下りた帰宅路は、街灯のほかに明かりはない。車の通行が多いのはせいぜいメインの大通りくらいのもので、一本裏道に入ってしまえばこの有り様だ。
見上げれば吐き気がするほどでかすぎる満月。その重量にふわり、引っ張られる感覚がした。足が止まってさっきまで路地に響いていた自分の靴音がしなくなる。そこでようやく他にもうひとり後ろにつけていることに気がついた。
振り返ると、俺に向けて手を組み捧げている姿があった。その手中には鈍く光る切っ先がある。
それでも冷静でいられたのはよく見知った顔だから。二十三番目の女の子。その様子を突き付けられれば流石に悟る。これが彼女の言っていたそのときか。
全速力で走れば逃げ切れそうだし、体格差を振りかざせばそのナイフを地面に叩きつけることくらいは出来るかもしれない。多少の怪我はするだろうがナイフを奪って返り討ちにすることも可能だろう。
しかし何とも形容し難い不可思議に見入られいる今、それは悪足掻きにすらならない予感があった。
一歩、二歩と刃が近付いてくる。
確かに振った事実はあれど二十三番目ともなれば慎重に取り扱ったつもりだし、そもそも別れを決意した理由は訳の分からない占星術に浸かりきったその趣味に付き合いきれなくなったからだ。ちょっとプラネタリウムに行くくらいならやぶさかでないが、そこから始まるパワーだのヒーリングだのの無駄話は本当にどうでもいい。そういえば満月の夜は月光が何やかんや作用して殺人が増えるとかなんとか言っていた。そんなもん、明るいから出歩く人が増えるだけで、分母の違いだろと指摘したらさめざめ泣くんだからやっていられない。
こんな状況で殺されるのもやってらんねえよな、なんて思ってもどういうわけか足が根を張ったように動かない。どうせなら半端なやつはやめてくれと願うばかりだ。
「…………て、よ」
静寂でも聞き取れないほど細い声だった。赤い唇が俺に何かを訴えているが、それには何も答えられない。そして最後の一歩が踏み込まれる。
鳩尾を殴られた衝撃があって膝から力が抜ける。そのあたりにある金属の冷たさがズルズルと俺の体温を奪って同化していくのだ。
「なんで、なんで。なんで、なんでよけないの。なんで……」
ナイフを手放した女の子、膝が震えているのだけが見えた。なんでという三文字が延々と降ってくるが、それはこっちの台詞だ。
腹部に目をやれば刃渡りの半分以上は身体に潜り込んでいるのを見てしまって、辛うじて膝立ちしていた姿勢も保てなくなる。鋭利な感触が堪らなくて引き抜いたら血液と脂汗が一気に吹いてくる。食いしばって面を上げれば青ざめ涙目になった顔がそこにあった。
「お前っ、早く逃げろって、バカヤロウ……!」
ひりだした大声が傷に響いて咳き込んだ。すると口の中に鉄の味がみるみる広がり溢れ出す。
その目に映る俺、かなり危うい状態なのだろう。頭を振って踵を返し逃げ出す足も震えていた。
這いつくばって路傍の石塀をかいても立ち上がれそうにない。それどころかとてつもない気怠さに襲われた。悶絶して仰向けに転がったら少しだけ楽になるが、息を吐く度にえぐる痛みが走るのだ。
こんな動機で殺されるとか恥ずかし過ぎるだろう。それでもあっさり死ねれば良かったものの、せめてイッちゃった不審者に襲われたことになって迷宮入りでもしてくんねえか、など考えられるくらいには意識も残っている。致命傷間違いなしだけど即死はしない、このまま死に損なった状態で半刻は苦しむことになりそうだ。
プラネタリウムで仲間外れの星を憐れみ悲しんでいた純粋さは、ただ可愛い子だなと評価していたのだ。でもそれで終わらずに砂漠に落ちた隕石のペンダントうん万円だのという話をされたら、猫かぶりのデート商法だと普通に疑うだろう。その内うん十万円の壺とかうん百万円の絵画が出てくるのはお約束。絶対この件に関して俺は悪くない。詐欺師でなくてホンモノさんだと分かったのは計算違いに刺された今、この瞬間からだ。
「しぶとく頑張ってるみたいね。とっくに死んでると見えていたんだけど」
「死に方まで……、予知してた、わけ?」
散々もがいて指すら動かすのが億劫になってきた頃、彼女が俺に吹き下ろす北風を遮り立っていた。
人が苦しんでいるというのに、フラっと現れたこの女、ニヤニヤしてやがる。こうやって色んな人間の命を貪ってきたのか。だんだん息が乱れてきて言いたい全ては出てこない。
「逃げれば痛い思いしなかったのに。あの子、脅かせばヨリを戻せると信じていたみたいよ。まあ、そこで貴方はきっぱり断るから殺されるんだけど」
脅されてオーケーなんてするわけないだろう。即死にならなかったのは、こいつと知り合ったがために死ぬことを分かっていたからなんだ。知らなきゃ大暴れで抵抗でもしてた。すると向こうも全力で殺しにかかってきたんだろうな、なんて思っても今さら遅い。
「どうする? このまま死んどく?」
「殺人、になる、のは、困るな……」
「死にたくないってことかしら」
「事故、とかに変えて」
「そんな調整できる訳ない」
「でも、あいつ、逮捕されるってば……」
人の心配してる場合じゃないでしょう、そう吐き捨てられたがそろそろ会話が覚束なくなってきた。ここまできても意識は明瞭なんだから参ってしまう。洒落じゃなく痛いんだ。
無理やりこじ開けている瞼では視界が霞む。それでも月が先ほどより移動していることが分かり、刺されてからそれなりに経過していることに気がついた。あと二、三ほど口をきいたらいよいよくたばると思う。
「限界みたいね」
彼女の白い手が俺の胸元を撫でる。
少しだけ待ってくれ。こんなみっともない理由で殺されたとか死んでからも赤っ恥だし、あの子だって俺みたいなクズのせいで殺人犯に成り下がるなんて御免だろう。死ぬのは構わないから死に方くらい選ばせろ。必死に唇へ言葉を乗せようとするけれど、漏れるのは喘ぎのみだ。
本当に可愛い子だったんだよ。前カノよりブスは選ばない主義だから歴代の中でとびきりの。ちょっと小さいからって仲間外れにされた星を思って泣けるなんて、いじらしいじゃないか。ただ少しだけ趣味がマニアック過ぎただけなんだ。
「冥王星か……」
絞り出した声に彼女の手が止まる。
太陽を二四八年かけてクルクル回る、ちょっと小さな天体。そいつの傍らで一緒にクルクルしているもっと小さな星がいるんだよ。彼女、三途の川のガイドさんとか言ってた。図書館で読んだ神話だか戯曲だかの中で小さな星によく似た名前を見かけたよ、冥府の川の渡し守カローン。まるでその星、彼女の名前にピッタリじゃないか。
「君の名前……、シャロン、だったら、いいな……」
「残念ね。向こうについたら貴方を沈めて遊ぼうと思ってたのに。今度こそ貴方は私のことを忘れるわ」
とうとう目も開けていられない。胸から離れた指がつつと額を滑るのだけが微かに感じられていた。