下
町の門から走って五分。
門が遥か彼方に小さく見えるようになってから、お母さんが足を止めた。
「やっぱり、体がなまっているわね。たったこれだけ走っただけで息がきれ始めるなんて…」
息が乱れているようには全く見えないんだけど…
想像以上に僕のお母さんは、強靭な肉体を維持しているみたい。
「さっきの秘密の魔法をもう一度使うの?」
「ううん。ここで使うとお家の付近にさっきの竜巻がぶつかっちゃうからね。危なくて使えないわ。さっきみたいに町の防護壁にぶつけられないと使えないのよねぇ」
えっと、何か不思議な言葉が聞こえました。
さっきの大きな白い竜巻は自然に消えるように作ったんじゃなくて、町の防護壁にぶつけて無理矢理消したって聞こえたんだけど…
「お母さん…自分の意志ではさっきの竜巻って消せないの?」
「え……ま……まぁ、そんな感じかな…」
恐ろしい話でした。
確かにあんなに力強くて、自分の意志で消す事の出来ない竜巻を作れる魔法を他の誰かが知ったらと思うと、背筋が凍りつきそうです。
だって、お母さんが言ったとおり、お母さんや僕は魔力が凄く少ない家系なんだもの。
普通に魔力を持っている人が使ったら、取り返しのつかない規模の魔法になる。
そう戦慄している僕がいました。
「じゃあ、どうするの?」
「こうするのよ!」
お母さんが、僕を胸に抱いている格好から、背中に移動させ背負った。
パンツと靴下と靴を脱いで、僕の手元に渡してくる。
お母さん下着類を落ちないように、首から下げているカバンにしまっておいた。
「荷物が濡れないようにしっかり持ってね」
「はーい」
返事をするとお母さんの下半身に豹柄の毛並みが現れた。
筋肉は大きく盛り上がり、ネコ科の両足へと変化していく。
行くときにこうしなかったのは、街中でパンツや靴下を履けるスペースが無いからなんだよね。
下半身は豹で上半身は豹耳の獣人スタイルになったお母さんが、豹の様に短く一声鳴いてから駆け出した。
景色が後ろに飛んでいく。
粉雪が目の中に飛び込むと痛いほどのスピードで走り抜けるお母さん。
お家にはすぐに到着した。
「さぁ、腕によりをかけてご飯を作るわよ」
「うん、わかったけど、変身を解いたら寒いでしょ?まずは下着を履いてからだよね?」
お父さんが好き過ぎるお母さんは、たまに料理をすることに集中し過ぎて、脱いだ下着をつけないままエプロンをつけてしまうこともあるから、僕が気を付けてあげないといけないんだよな。
夏ならいいけど、冬だと風邪を引いちゃうからね。
「はぁっ!またやらかすところだった!お父さんには内緒ね?」
「何を内緒にして欲しいんだ?可愛いしっぽのままでご飯を作ろうとしたことか?」
「「お父さん!!」」
ちょうどお家に着いた時に、家の裏手にお父さんが戻ってきていたみたい。
お母さんが帰ってきたのが見えたから、作業の手を止めて、ただいまのキスをしにきたんだって…
お母さんが変身を解くのを待って、お母さんが真っ赤になるほどのキスをしてからお父さんが、作業に戻っていった。
このままだと、お母さんがご飯を作り始めるまで、長時間惚けてしまいそうなので、僕が料理の下準備を始める。
とはいっても、既に肉以外の材料は用意してあるから、氷室から取り出して解凍しておいたお肉を出してきて、買ってきた調味料と一緒に調理台に置くだけなんだけどね。
「はっ!私は何を?」
「お母さん…またお父さんにメロメロにされてただけだよ。肉の匂いで目が覚めたんだよね」
「ありがとう。ご飯の下準備は終わったみたいね」
「料理のお手伝いもするけど?」
「いいえ。これは私のお仕事なの。お母さんが責任をもって料理するのよ!」
お母さんは、料理の手伝いを凄く嫌うんだよね。
仕方ないからいつもの様に、食器の準備と料理法の観察を始めよう。
ほどなくして、お母さんの料理が出来上がり、それに合わせるようにしてお父さんの作業も終わった。
いつもの美味しいお母さんの料理を家族みんなで食べる。
今日のメインのお肉は、水辺に生息している水鹿で、その蕩けるようなお肉は、単なる水とも肉とも違うぷるっぷるのお肉で、おまけのハーブにも凄くあっていておいしかった。
「おやすみなさい。お父さん、お母さん」
あのあと、親子三人でお風呂に入って、ぽかぽかになったから、今日はもうおやすみの時間なんだ。
お父さんが狩りから帰ってきた日は、僕は早く寝る事にしてる。
お母さんに会いたくて会いたくて仕方なかったお父さんと、お父さんに会いたくて会いたくて仕方なかったお母さんを二人きりにしてあげるためだ。
「今日は、新しい魔法をお母さんに見せて貰ったから、疲れちゃった。よく眠れそうだな…」
そう呟いて、眠りに落ちた僕の耳に、深夜、ある音が響いてきた。
くぐもったお母さんとお父さんの声。
一体どうしたんだろう。
お母さんの声が切なく響いたような気がする。
そこで、僕は目を覚ました。
「なんだこれ?」
周りが燃えていた。
目を覚ましても、夢の中にいるんじゃないかという錯覚を起こした。
それ位、現実感のある光景じゃなかった。
そして…
お家の壁ががらりと崩れると、その向こうには炎を纏った猿のようなものが見えた。
隣の部屋で、眠っていたはずのお父さんとお母さんは、裸でその猿に捕まっている。
お父さんは既に意識が無い。
お母さんの身体が、次第に豹に変わっていく。
一番攻撃力の高い噛みつきでの攻撃をするための準備だろう。
猿は両手で2人を掴んでお父さんを観察しているせいか、お母さんの変化には気付いていないようだ。
僕はどうしたらいいんだろう?
僕に何が出来るんだろう?
お父さんは、凄い狩人で凄い氷の魔法を使えるのに、気を失ってしまった。
お母さんは、凄い狩人で凄い魔法を使える上に、豹の獣人なのに猿に捕まっている。
僕に…
僕に出来る事ってなんだ?
僕は、お母さんの獣人の血も薄くて、お父さんほどの魔力も持っていない。
そんな僕に出来る事。
このままじゃ、お父さんともお母さんとも会えなくなっちゃう。
何か、何かをしなくちゃ!
僕は凄い二人の子供なんだから!
何が出来るのか考えろ!!
そうか…
今日、買い物に行ったのは、きっと神様が僕にくれた贈り物なんだ。
どうなるかはわからない。
でも、やらなければ!
やらないまま、お父さんとお母さんに会えなくなるなんて絶対にいやだ!!
「大気に遊びし精霊たちよ。その遊びの時間を分けて頂戴。僕のお父さんとお母さんをいじめる悪い猿が、その力を使えなくなるように、その涙で僕たちのために猿をやっつけておくれ!」
その瞬間だった、お母さんがお願いした時の様なタイムラグは無く、お父さんとお母さんの周りに雨が集中し始めた。
僕たちのお家はまだ屋根がある。
僕の部屋とお父さんたちの部屋の壁が壊れただけで、屋根があるのに、猿に向かって雨が叩きつけられ始めた。
横殴りというには水平すぎる雨の殴打を、猿が全身で受け止め始めた。
猿の纏う炎が、雨によってどんどん弱くなっている。
とうとう猿は、お父さんとお母さんから手を離して、割って入ってきた様子の窓から外へと飛び出した。
その瞬間にお母さんは、豹と化した体をひるがえして、猿を追っていく。
そして、お母さんの牙が猿の喉をとらえた瞬間、力なく猿は倒れた。
お母さんが牙を離すと、猿の身体は燃え上がって豪雨の中で炭となり、倒れ伏す真っ黒な猿の彫像になった。
そして、お母さんが勝利の雄たけびをあげる中、次第に雨はその勢いを弱めていった。
あの後、目を覚ましたお父さんに、何か知らないか聞いてみても、猿の正体はわからなかった。
猿は疲れて眠っているお父さんとお母さんに、急に殴りかかってきたらしく、そのまま気絶させられたお父さんは猿の顔すら見ていないのだから、ある意味当たり前かもしれない。
お父さんのうめき声で起きたお母さんも、そんなに変わらない状況みたいだ。
結局、猿の彫像を冒険者ギルドに持って行った時に、凶悪な盗賊の中でも、被害にあった家は焼き尽くされるという特徴の盗賊だったのではないかという、あやふやな情報が出て来ただけだった。
もちろん、目撃情報すらない盗賊だったので、懸賞金の類はかかっていない。
最低額の盗賊討伐褒賞金を受け取れただけだった。
でも、僕は満足だ。
お父さんと、お母さんが無事だったんだから!
猿に焼かれた2人の火傷は、少し跡になったけど命に別状はない。
2人して僕に救われた時に出来たおそろいの火傷跡だといって、逆に誇らしげに皆に見せてまわるのは少しくすぐったい。
僕はといえば、少しだけ変わってしまった日常に、最初戸惑ったけど…
それも、お父さんとお母さんを助けるための尊い犠牲だったと思っているんだ。
つまり、僕を中心に、雨が降りやまなくなったわけである。
意識があるときは、一番降水量が少ない霧雨を軽く降らすくらいに調節しているけど、眠っている時は普通の雨が降り続いている。
その距離は半径200m。
どれだけ、周りが晴れていようと僕の周囲200mでは、必ず雨が降るようになった。
太陽を見ようとすると、きれいな虹が太陽を中心にまあるく見えるくらいには、薄く霧雨が残っている。
あの詠唱を使って、別の効果を上書きしようかとも思ったけど…
止める事にした。
何故って?
僕とお父さんとお母さんとの絆の様な気がするから。
一つだけ困ったのが、雪が降るまでは、大丈夫なんだけど、雪が降り始めると、雪かきが大変すぎる。
というか、風邪引いただけで、雪かきが出来なくなって、命の危険を感じるとか本当に勘弁してほしい。
なので冬の間だけは、お母さんと南の暖かい地方に避難する事にした。
ちょうど、毎年冬の間は雨が少なすぎて、水不足になっていた地方だったから、たったの半径200mとはいえ、雨を連れてきた僕はありがたがられている。
どうやって降らしているの?
と聞かれることはあったけど、体質みたいと答えておいた。
あの魔法を教える事は恐ろしくて出来る訳が無い。
家の近くから水路を作って、ため池に水をためていいかと聞かれたので、快諾したら結構な契約料を貰えることになってしまった。
うーん、昼間の間の雨の量を増やすべきか少し悩む。
元々住んでいたお家では、冬は猟に最適な時期なので、お父さんだけ単身赴任状態で済んでいる。
今年の冬の初めにお別れした時も、かなり、寂しさの滲んだ顔で、僕とお母さんを見送っていた。
愛しいお母さんと離れ離れになっちゃってごめんね…お父さん。
でも、お母さんはたまに変身して、お父さんに会いに行っているみたい。
本当に仲のいい2人だと思う。
僕も、お母さんみたいなお嫁さんを貰えたら嬉しいな。
今日も僕の周りには、雨のドームが僕たちをやさしく包んでくれている。
楽しんで頂ければ幸いです。