第四話
とある国の仲睦まじい夫婦の間に黒髪と黒い瞳を持った子供が生まれた。
母親は身体が弱く、医師にも子供は無理かもしれないと宣告されていた。
悲嘆にくれ諦めかけた時授かった小さな命に夫婦はえも言えぬ感動に震える体を互いに抱きしめ合い、喜びの涙を流した。
悲しみの淵に沈む自分たちの元に生まれてくれたこの子は天が遣わした光に違いないと。
オーフェンと名付けられた彼は両親の深い愛情を受けて健やかに成長する
ーーはずだった。
彼らが普通の父であり母であったならそんな未来があったのかもしれない。けれど運命の歯車は時として幸福を切り裂く刃となって誰の元にも残酷な現実を巡らす。
父は王であり母は王妃であった。
王族にとって最も重大な役目は国の為に後継を産むこと。けれどなかなか子宝に恵まれなかった国王夫妻に不安が広がった。
もともと身分の高くなかった王妃との婚姻を反対していた臣下たちはここぞとばかりに二人目の妻を娶るよう国王に強く進言した。
たとえ愛する人との子でなくとも国王は血を残さなければならない。
苦渋の決断の末、国王は第二妃を迎えた。
第二妃はすぐに子を身籠った。生まれた子はヨシュアと名付けられ国中が王子の誕生を祝福した。
王妃カトレアが子を授かったのはその一年後のことだった。
生まれた子供の髪と瞳は夜の闇よりも深い黒色をしていた。
聖典に記された一節に“死者は黒き揺りかごにて眠る”とある。
黒は死者が纏う色。身に付けることさえ忌避され生者がその色を宿すには余りにも不吉とされた。
王族が黒を持って生まれたなど凶兆に違いない。迷信深い年寄り連中は騒ぎ立て、オーフェンを排除しようとした。
国王はもちろん我が子を守ろうとしたが、それだけの力が彼にはなかった。
何がいけなかったのだろう。
オーフェンが黒を宿して生まれたからか。第二妃を娶ったことか。その第二妃が野心を抱き自身の子の玉座に執着したからか。そもそも下級貴族であったカトレアを周囲の反対を押し切り正妃として迎えたからか。
オーフェンの髪が黒くなかったなら、存在さえ秘匿される事はなかっただろう。カトレアとの子を諦めていなければ、身分も高く自己顕示欲の強い第二妃を迎え入れることもなく、カトレアの立場を更に王宮の隅へと追いやることにはならなかっただろう。どんなに時間がかかろうとカトレアとの婚姻を認めてもらっていれば、臣下たちの信頼を失うことなく、彼らの心を迷信に捉えさせる事もなかっただろう。
望まれぬ婚姻の元に生まれた不吉の王子。
黒き瞳は災厄を見据え黒き頭上に破滅が降り注ぐ。
国王の必死な説得に命が奪われる事はなかったもののオーフェンは秘匿され、国民が彼の存在を知ることはなかった。
けれど常に命を狙われることとなる。
世継ぎにはヨシュアがいる。第二妃と彼女を支持するものたちにとって忌み子と言えど王と正妃の血を引くオーフェンは目の上のたんこぶでしかなかった。
このまま王宮にいては確実に命を刈り取られてしまう。
国王とカトレアはオーフェンを外に逃がすことを決断した。
「ごめんなさい、ごめんなさい!!あなたを守れない母を許して!私がもっと強ければ!私にあなたを守る力があったなら決してこの手を離さなかったのに!ごめんなさい、オーフェン。どうか生きて。私たちの光。きっとあなたを迎えに行くわ。だからどうか、それまで待っていて」
母親は小さな我が子をその腕に閉じ込めるように掻き抱く。幼子は苦しそうに身じろぎするが、後ろから更に覆い被さるように母ごと抱き込まれた。
「オーフェン、強く、賢くなれ。何者にも負けぬよう、大事なものを守れるよう。頼むから私に似てくれるな。父でありながらお前達を守れぬ愚鈍な私に。お前に願うことしか出来ぬ卑小な私に。どうか、強く、強く生きてくれ」
「……信頼の置ける従者にオーフェンを託し、隣国まで逃がす手筈だった。しかし数日後、従者の首だけが私たちの元に帰ってきた。それが意味するところはただ一つ。大きすぎる悲しみに溺れ、精神をすり減らしたカトレアは十六年前に黒き揺りかごにて眠りについた。その後、第二妃だったヨシュアの母イザベラが正妃となったがそのイザベラも四年前に流行病で死んでしまった。残ったのは私とヨシュアだけだ」
気を落ち着けた国王は、自身の応接室へと三人を連れ事の顛末を語った。疲れたようにソファーに腰を沈める国王の言葉をスフェラは必死に飲み込もうとした。
カラスは本当は王子様で、ヨシュアとは母の違う兄弟で。様々な要因が重なってカラスは両親の元にはいられなくて。
驚くべき事実に混乱し、それ以上にカラスの過去を思うと胸が苦しくなった。
ひとり取り残された幼いカラスはどうやって生き延びたのだろう。当人であるはずのカラスはただ前を見据え無表情で話を聞いていた。
その顔からは何を思ったのか読み取ることは出来ないが彼の過去が凄惨であったことは想像に難くなかった。
「黒を忌避する因習は国中に深く根付いている。しかしオーフェンをここまで追いやってしまったのは私の弱さだ。許してくれとは言わん。ただ今度こそお前を守らせて欲しい」
国王は慈愛に満ちた瞳をカラスに向けた。その顔には長年に渡る疲労の皺が深く刻まれていたが確かにカラスの面影があった。
「……事情は分かった。僕はあんたの息子でそこの馬鹿が僕の腹違いの兄で、馬鹿兄の母親一派に命を狙われたためにここから逃がされた。僕は森にひとり置き去りにされ、馬鹿みたいに生き延びてここに帰ってきた。そもそもあんたの息子とやらは本当に僕なのか?ただ髪と瞳が黒いというだけだろう。どうして僕があんたの息子だと断言できる?」
混乱するスフェラの隣でいっそ冷ややかと言える声音で疑問を口にする。
「いいや。お前は確かに私とカトレアの息子だ。黒い色素自体稀なのは知っているだろう。異国の血を取り込まない限り黒髪にはなり得ない。しかしカトレアの家系には異民族の血が入っている。そのために家格は落ちぶれたが、黒髪と黒い瞳はそれだけでオーフェンであるという証明になる。……何より、お前の顔はカトレアにそっくりだ。私が見間違えるはずがない」
国王は目を細めてカラスを見つめた。王妃の姿を重ねているのか瞳の奥が哀しげに揺れる。
「仮にそれが真実だったとして、だから?今さらあんたに守ってもらう必要はないし、僕が王宮に戻ったとして何になる?どうせ馬鹿王子のせいで滅びるこの国を間近で見ていろとでも言うのか?」
「お前にはいずれ王位を継いでほしいとも思っている」
「父上!!何を言って……!?」
俯き肩を震わせていたヨシュアがその言葉にいきりたった。国王は目顔でそれを制し、ヨシュアをにらみ据える。
「お前には心底呆れた。私も甘やかし過ぎていたのかもしれないがお前の傍若無人な振る舞いはいつか国を滅ぼすだろう。……頼むから私の二の舞を踏んでくれるな。分かっていたんだ。お前に一国を治める度量がないことは。それでもお前を王にする以外道がなかった。しかしオーフェンが帰ってきた今、お前が王を継ぐ必要はない。散々嫌がっていたんだ。反対する理由もないだろう」
疲れきった声で言い終えた国王の言葉にヨシュアは顔を真っ青にして唇の端が切れるほど強く噛み締めた。
「……母上のおっしゃっていた通りだ。全部、全部っ!全部!!お前が持っていってしまうんだ!!野垂れ死んでいれば良かったのに。今さら現れて、……どうして!!!」
ヨシュアは勢いのままカラスに飛びかかる。しかし国王自らヨシュアを押さえつけ衛兵を呼ぶと引き渡した。
「部屋に戻って頭を冷やせ。今後の事は話し合いの席を設ける」
「離せ!!殺してやる!!お前なんかいなければ全てが上手くいってたんだ!!お前なんか……!!」
ヨシュアの慟哭は扉に閉ざされ、室内に静寂が訪れた。カラスは口を噤んだままヨシュアの消えた扉を睨み、国王は深く嘆息して頭を抱えた。
「……はぁ。とにかくあやつに国王の座を渡す訳にはいかん。玉座に固執していた母親はもういない。お前の存在を否定していた大方の年寄り連中も隠居したか、往生している。ヨシュアに継がせるぐらいならと皆、賛成してくれるだろう」
カラスが遠い。
目の前にいるカラスは出会った時と変わらないはずなのにずっと遠くの人になってしまった気がした。同じ部屋で同じように話を聞いていてもスフェラには別世界の話で、あまりにも場違いな空気に居た堪れなさを感じた。
カラスは王子として本来の道を歩み始める。その隣をスフェラが共に行くことは出来ない。スフェラは身分を持たない平民だ。先程のヨシュアへの言葉から、国王がスフェラの存在を許すとは思えなかった。
スフェラは密かに苦笑した。カラスがスフェラを見つけたことこそ運命だったに違いない。王都に着くまではスフェラが送ってもらっているのだと思っていた。そうして帰っていくカラスの後ろ姿を見送るのだと。
カラスとの別れは考えただけで悲しくなったが、逆だったことに気づいた今、これで良かったのだと思う。
望んだ結果ではなかったけれど予想だにしないハッピーエンドがカラスには待っていたのだ。
カラスが国王を拒むはずがなかった。たとえどんな境遇にあったとしてカラスはスフェラの知る誰よりも優しくて、人を思いやれる彼は誰よりも受け入れられることを望んでいた。
ひとりぼっちのカラスはもういない。優しい彼に相応しい、愛情深い両親の元に帰ってきたのだから。
思いに浸るスフェラを一瞥し、カラスは国王に向き直って口を開いた。
「嫌だ」
「何……?」
たった一言。短すぎるその言葉の意味が理解出来ないというように国王は眉を顰めた。
「僕は王になんてなりたくないと言ったんだ。王とは国を守る者の事だろう?なぜ僕を蔑ろにし続けた国民を僕が導いてやらなきゃならない?ここに来なければ僕はいない人間だったんだ。あの馬鹿の元で滅びの道を進もうが僕の知ったことじゃない」
「だが、しかし……」
カラスの痛烈な皮肉に国王は二の句が告げなかった。
息子との邂逅に浮かれていたのは否定出来ない。簡単に許されるものだとも思ってもいない。けれど国王の座をここまで悪し様に拒否されるなど想像もしていなかったのだ。
それほどまでにオーフェンの恨みは深いのだと国王は自身の業の深さを思い知る。
「だけど、……ねぇ。君はどうしてあの時綺麗と言ったんだ?」
スフェラは一瞬自分への問いかけだと気づかなかった。いつの間にかカラスの視線はスフェラに向いていて夢から覚めたようにぱちぱちと瞬きしてカラスを見返した。
「あの時……?」
「君が最初に言った言葉だ。馬車の中で、君は綺麗だと言った。君には何が見えたんだ?」
なぜこの場でその話を出したのかは分からなかったがあんなに遠くに見えたカラスがまだ近くにいるような安心感を覚えた。カラスとまだ話せる事が嬉しくてスフェラは思いのままを口にした。
「カラスの髪がね、夕日に映えて赤金に輝いて見えたの。馬車の中はとっても怖かったけれど、火が灯ったみたいに心が温かくなったのよ。だからきれいだなって思わず口に出てしまったの。陽射しの中でも真昼の星空みたいに素敵よね。黒は不吉だなんて言うけれど、なぜ?森の中にいてもすぐに見つけられたし、黒髪のおかげでお父様にも見つけてもらえたんだもの」
そう言って無邪気に笑うスフェラにカラスは胸に言い知れない思いが込み上げてくるのを感じた。あの日拾ったと思っていた宝石姫に自分は拾われたのだと唐突に理解する。
気づいた時にはひとりだった。森の中に取り残されて、ただ、生きるために必死だった。
苦しみから解放されたいと思っても、それでも生きろと誰かが急き立てる。もがいてもがいて、闇雲に駆け抜けて途中で落としてしまった心の一欠片をスフェラは指差し、気づかせてくれた。
生まれてからずっと否定され続けたカラスを彼女だけが認めてくれた。
無知のくせに意外と聡くて、容姿故に自身の心に鈍感で、家族思いで、思いこんだら一直線で、可憐な見た目とは反して妙に潔くて、見ているこっちがはらはらする。
放っておけない。
彼女を、守りたい。
強くそう思った。
空っぽだった心をいつの間にか満たした彼女の存在は無視できないほど大きく膨れ上がっていて。もう、昔の自分には戻れないし戻りたいとも思わなかった。
スフェラと出会わなければ、森でひとり朽ちていただろう。黒髪と黒い瞳を厭い、自身を呪いながら。
けれど、彼女の言う通りだ。この色を持ち合わせていなければスフェラには出会えなかった。
すべての因果が彼女に繋がっていたのなら、運命も捨てたものじゃないと思えた。
カラスは隣に座っていたスフェラの手を握った。そうすれば彼女の強さが伝播するというように。突然の事にスフェラは驚いたが小刻みに震える指を励ますように自身の指を絡めた。
「……ひとつ、条件がある」