第三話
王宮の片隅。
閑散とした広間の中心にカラスは一本の杭に両手を繋がれていた。
抵抗したために殴られ所々血が滲み、服はぼろぼろになっていた。今はまた意識を失い鎖に引っ張られるようにして項垂れている。
彼の傍らには大きな斧を持った男が待機し無表情で刑執行の合図を待っていた。
「やめてください。彼が何をしたというのですか?カラスはわたしを王都に送ろうとしてくれただけなんです!」
スフェラは必死に取りすがった。けれどヨシュアは哀れみを含んだ瞳を向けるだけだ。
「美しい色を宿したあなたは知らないかもしれないが黒色はこの国にとって凶兆なんだ。王子である私は国の憂いを取り除かねばならない。君を攫ったのが事実でなければ心苦しいばかりだが……」
務めを果たさねばというヨシュアの顔には愉悦の笑みが浮かんでいた。
金髪に碧眼。整った顔立ち。綺麗な服と優雅な仕草。
歪みのない、爽やかな微笑み。
その姿はまさしく母親が寝物語として話してくれた王子様そのものだ。
正義感に溢れた心優しい王子様は、囚われの姫君を悪者の手から救ってくれる。
スフェラも実際に嫁ぐかどうかは別としてそんな王子様を夢に見たことはあった。
しかし、目の前にいる本物の王子様は黒色を持って生まれたという理由だけで命を奪おうとしている。
無償の優しもあるのだとカラスに出会って始めて知った。
けれど理不尽な殺意があるなど知りたくなかった。
スフェラは絶望にうち震えた。
カラスの言う通りこの王子の元で幸せになれるはずなどない。それどころかカラスを死に追いやる結果を与えてしまった。もしあの時すぐに引き返していれば。否、そもそも出会ってさえいなければこんな目に遭わせずにすんだのに。
カラスとの出会いを否定したくない。でも……。
原因を作ったのは間違いなく自分だ。
カラスは意識を取り戻したらしく面を上げる。ぼんやりとした瞳は状況を確認するように周囲を見渡すと、最後にある一点を見つめた。
「カラス……!!」
言いたいことはたくさんあるはずなのにどれも言葉にならなかった。二人はしばし見つめ合い、無言が続く。
スフェラは罵られることを覚悟していた。お前のせいだと。お前なんかいなければ……と。
けれどカラスは口を開かず安心しろとばかりに微笑んでみせた。
そして全てを受け入れたようにゆっくりとまぶたを閉じる。
どうして……。
殺されそうになっているのは彼のはずなのに勇気付けられたのはスフェラの方だった。それと同時に生まれて始めて頭が沸き立つような怒りを感じた。
カラスを殺そうとしているヨシュアに。責めるどころか何もかもを諦めてしまったカラスに。そして何より原因を作り、どうすることも出来ない非力な自分に。
「別れは済んだかな?」
ヨシュアは面白くなさそうに二人の様子を眺め、見せつけるようにスフェラの腰を抱く腕に力を込めた。
「お願い!彼を殺さないで……!」
「これは温情だよ。死出の旅を見送ってやろうというね」
ヨシュアは慰めるように彼女の頬を撫でながら、必死な訴えを無慈悲に切り捨てた。
どんなに叫んだって宝石でしかないないスフェラの声は届かない。
「やれ」
残酷にも最期の言葉が放たれた。
男がカラスの首めがけて斧を振りかぶる。
「やめてーーーーーー!!!」
スフェラは無我夢中でヨシュアの手に噛み付いた。
「痛っっ……!!な、なにを……!!?」
ヨシュアは突然の痛みに咄嗟に腕を振り払う。その隙にカラスの元へと駆け出して行く。
「ばっ……!!来るなっ!!!」
状況に気づいたカラスが制止の言葉を叫んでも遅い。スフェラはカラスの頭を庇うように思い切り抱きついた。
重力に従い斧は落下を辿る。スフェラの首めがけて。
せつな、男は咄嗟に身を捩り二人を傷つけることなく毛束をかすめて地面に突き刺さる。青い髪がはらりと舞い、一陣の風が彼方へと運んでいく。
誰もがスフェラの無謀な行いに閉口し、静寂が場を支配する。真っ先に我に返ったのはカラスだった。
「……馬鹿か!!君、自分が何をしたか分かってるのか!?もう少しで君の首がもげるところだったんだぞ!?」
「カラスっ!!良かった……!!あなたが無事で!!ごめんなさい。本当にごめんなさい!!私のせいでこんな目に合わせてしまって。ごめんなさい。ごめんなさい……」
スフェラはただごめんなさいと繰り返す。カラスに回された腕は小刻みに震え、その体は氷のように冷たかった。
がしゃりと鎖がなる。カラスはここにきて繋がれた両手を不自由に思った。
スフェラに伸ばそうとした手はしかし鎖に阻まれ凍える体を抱きしめ返すことも叶わない。
「君のせいじゃない。全部あの馬鹿王子のせいだ」
「でも、わたしがいなければあなたは……」
「君がいなければ僕は森の中で腐ってた。先の見えない未来に絶望し、黒を持って生まれた自分を誰よりも疎んでいた。だけど、君を見ていたらそうじゃないと思ったんだ。容姿を理由に全てを諦めていたのは自分なんじゃないかって。前向きに生きる方法もあったんじゃないかって。だから……僕との出会いを否定しないで」
カラスの声もまた震えていた。よすがをなくした幼子のように頼りなげにスフェラの髪に顔を埋める。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、カラス」
スフェラは抱きしめる腕に力を込めた。様々な感情が心を掻き乱す。カラスをこんな状況に導いてしまった罪悪感と失うかもしれないという恐怖。それとは別にカラスの言葉に高揚も覚える。
これではスフェラとの出会いを災難ではなく幸福のようではないか。
優しい彼はひとり取り残されたスフェラを放っておけなかっただけで、厄介ごとに巻き込んだ元凶でしかないのに。
いつの間にこんなにも心を寄せてくれたのだろう。悔恨の中に僅かな喜色が混じる。
けれどそんな想いを抱くのは不謹慎に思えて。
「……君は、まだあの馬鹿王子に嫁ぎたいと思う?」
カラスの唐突な質問にスフェラはびくりと体を震わせた。
「……分からないわ。あなたを殺そうとしたことは決して許せないけれど、」
言葉を濁したスフェラの心には両親の顔が浮かんでいた。読めもしない手紙を嬉しそうに眺める父の顔が、幸せだと涙し美しく微笑んだ母の顔が。
彼らを幸せにすると決めた。
簡単には覆せない思いと現状がスフェラを更なる混沌へと突き落とそうとする。
「……行くな」
静かな。けれど力強いその声がスフェラの耳朶を打つ。
「君の幸せはあいつの元にひとかけらだってない。誰が幸せになっても君が幸せじゃないと意味ないじゃないか」
「だけど……」
「君の不幸を君の両親は本当に喜ぶのか?そんな両親のために君は犠牲になろうとしたのか?違うだろ?君の幸せを望んでるはずだ。君が彼らの幸せを願っているように」
その言葉にスフェラは息を呑む。
両親のためだと言って両親を信じていなかったのはスフェラ自身だ。たとえ売られても幸せになってくれるならそれでいいのだと。
しかし、自分で言ったではないか。お母さんとお父さんは私の幸せを望んでくれていると。
「僕だって君の幸せを望んでる」
柔らかな顔で微笑むカラスにスフェラの瞳から透明な雫が頬を落ちる。カラスは身を離し縛られた両手の代わりに唇で受け止めた。
柔らかな感触に悲しいわけでも辛いわけでもないのに胸を何かに締め付けられた。その何かはカラスの手のひらのように温かくて血液のように全身を駆け巡っていく。
「ありがとう、カラス。本当にあなたに出会えて良かった」
「おい!私を無視するな!!……まったく、あなたは見かけによらず無茶をなさる。なぜその男を庇おうとする?恩人というがそこまでする義理はないだろう」
呆気に取られてぽかんと二人を見つめていたヨシュアは我に返り、誤魔化すようにきざったらしく髪をかきあげて不可解だとばかりに問いかける。
スフェラの介入によって先延ばしになっただけで状況は何一つ変わらない。気を取り直した王子によってカラスの首は再び刃の元に晒されるだろう。次期国王の身であるヨシュアに逆らうには彼らは余りにも無力だった。
けれどスフェラは臆することなくヨシュアにまっすぐに向かい合った。
「いいえ。カラスだけがわたしを認めてくれました。わたしの見た目ではなく心を見ようとしてくれました。自分でも気づかなかった想いを教えてくれたのも見返りのない優しさをくれたのもカラスだけなんです。
わたし、王子様には嫁げません。罪のないカラスを処刑するよりもわたしの首を撥ねてください」
「……なっ!?」
「スフェラ!何を言って!!?」
前後で驚愕の声が上がる。けれどスフェラの意思は揺るがなかった。
「カラスよりわたしの方がよっぽど罪深いんです。迎えに来てくれた使者様たちはわたしのせいで死んだんだから」
ヨシュアは首をひねった。スフェラに夢中で今の今まで使いにやった者たちのことなどすっかり忘れていた。カラスに助けられたとは言っていたがどういう経緯でそんな事態になったのか考えも及ばなかったのだ。
反対にカラスは思わぬ告白に口を噤む。馬車に群がるように点在した死屍累々の数々。男が最期に漏らした言葉。馬車の中にいた宝石姫。状況を鑑みてある程度の予想はついていたがスフェラが気づいていたのは意外だった。
死んだ事は伝えたが賊のせいだと嘘をついたのは見るからに脆弱そうな彼女に余計な心労を加えないためだったのだが。
「わたしはずっと馬車の中にいたけど全部聞こえてました。宝石姫を取り返せと。よく、家に来ていた人の声でした。でも、怖くて、そんなの信じたくなくて、全部夢ならいいのにって。だけど、カラスが見つけてくれたから。救ってくれた彼に報いたい。もうわたしのせいで誰かを犠牲にするのは嫌なんです」
「どうして君はそんなに極端なんだ!?君が死ねば両親も悲しむ。どうしてそれが分からない!!」
「そ、そうだぞっ!襲って来た奴らは自業自得で護衛共も最低限あなたを守れたんだ。本望のうちに死んだだろう。あなたが気に病むことではない」
ヨシュアまでもが口を揃えてスフェラの説得を試みる。
「でも……」
カラスは悔しさに歯噛みした。
スフェラは強い。それと同時にひどく脆いと思った。
両親の幸福を望み、カラスの死を嘆くくせに自身を顧みようともしない。
美しさを持って生まれたがゆえに求められ、その求めに応える事こそ役目だと信じている。
カラスの言葉など本当の意味では解していないのだ。
類い稀なる容姿が育った環境が彼女の思考を自己犠牲へと絡め取る。
それに加えて生来の頑固さが彼女を一つの考えに固執させていた。
「君は……!」
「何をしている!」
苛立たしげに言葉を紡ごうとしたカラスを遮り新たな声が鼓膜を震わす。真っ先に反応したのはヨシュアだった。ぎくしゃくとして声の主の方を向く。
「……父上。今は政務の時間ではなかったのですか?」
「聞いているのはこちらだ。ヨシュア。何をしている?」
広場の入り口から壮年の男が早足でやってきた。ヨシュアの連れていた男たちが次々と頭を垂れていく。
ヨシュアの父。彼こそがこの国の王だった。
引き結んだ唇と眼光鋭い目。貫禄のある顔には、けれどどことなく疲れが滲んでいた。
「罪人を処刑しようとしていたところなんです。中断してしまいましたが……」
ヨシュアは尋常でない汗をかいていた。にこやかに微笑みながらも口の端しが引きつっている。
「罪人?死刑を執行するほどの罪人ならば私の耳にも届いてるはずだが?」
「いえ。父上を煩わせるほどでもないかと。私の花嫁を拐かしたんです」
「花嫁?そこの娘のことか?お前には婚約者がいるだろう。ヴァレット嬢を差し置いて誰と結婚しようと言うのだ?」
眉を顰める国王にヨシュアはしまったとばかりに口を押さえる。しかし開き直ったように自身の父を睨んだ。
「父上はあんな醜い女と結婚しろというのですか!?僕には耐えられない!醜いだけでなく私を見るたびにああしろこうしろと口煩い。あんな女と一生を共にするなど考えただけで反吐が出る。結婚するなら彼女のように美しいものがいい」
国王の険しい視線がスフェラを捉えた。尊厳に満ちた為政者の眼差しにスフェラは子ウサギのように身をすくめた。
「駄目だ。王族の結婚は義務だ。見たところその娘は平民なのだろう。そんな者との婚姻など認める訳がないだろう」
父と子は睨み合う。一触即発な空気を第三者の声が打ち破った。
「……おい。僕らを無視するな。親子喧嘩なら余所でやってくれないか。用が済んだならさっさと僕らを解放しろ」
カラスは流れが変わった事に気づいた。先ほどまではヨシュアがこの場の支配者だった。けれど国王の登場によって権限の立ち位置が移動した。
ヨシュアがしようとしているのは公には認められていない私刑だ。現行犯ならまだしも万人には弁明の余地が与えられている。
こんな横暴が通るのも彼が唯一の跡継ぎだからに他ならなかった。
スフェラがふざけた事を言い出す前にカラスは国王に直訴を試みる。
「うるさい!!お前は黙っていろ!!父上!正妃にはヴァレットを据えます。ですから彼女との婚姻を……!!」
「……オーフェン!!」
国王はそう叫ぶとヨシュアを押しおけてカラスへと突進した。スフェラが驚き後退ると国王は代わりにカラスを潰す勢いで抱きしめた。
「……!!?何をする!?離せ!!」
一国の王にも不遜な態度を崩さないカラスに国王は怒るどころか嬉しそうに声を張り上げた。
「ああ、生きていたのか!黒い髪に黒い瞳。何よりカトレアに瓜二つなこの顔。間違いない。我が息子、オーフェンだ!良かった。本当に良かった……!!……何をしている!!即刻この鎖を外せ!!」
男たちが慌てて錠を外す。自由になったはずのカラスは、けれど国王の腕に抱きすくめられ身動き出来ないでいた。
唐突な展開に誰もが唖然とし、国王だけが息子との再会に歓喜の涙を流し続けた。