第二話
柔らかな陽射しをまぶたに感じ、スフェラは目を覚ました。
見慣れた部屋の天井ではなく木の葉のかかった青空に、王子に嫁ぐために家を出たことを思い出す。そして迎えがいなくなってしまったことも。
馬車の中で怯えて一人蹲るスフェラを見つけてくれたのは偶然にも通りかかったカラスと呼ばれる青年だった。
隣に目を向けるとそこにはすでにカラスの姿はなく、起き上がって親鳥を探すようにスフェラが頭を巡らすとすぐに見つかった。
「ああ。起きたのか。ほら、これを食べるといい」
カラスはそう言ってぽんとリンゴを投げ渡す。スフェラは落としそうになりながらなんとか受け取って素直にリンゴを食べ始めた。カラスは木の幹にもたれ掛かってその様子をしばらく眺めるとおもむろに口を開いた。
「拾ったからには最後まで面倒を見る。家まで送っていこう。君の家はどこだ?」
カラスのその言葉にスフェラは齧っていたリンゴから顔を離しカラスを振り仰いだ。
「だめよ!!帰らないわ。私は王子様に嫁ぐんだから!!」
「まだ言ってるのか?迎えは死んだ。君を王子の元に連れて行ってくれる者はどこにもいない。それに大人しく帰った方が君のためだ」
「帰れないわ。私はお母さんとお父さんに望まれて家を出てきたんだもの」
スフェラの頑なな態度にカラスは顔を顰め、吐き捨てるように言った。
「君は本当に何も知らないんだな。王子の噂を聞いたことがないのか?女の尻を追うことにしか興味のない能無し。女に溺れた愚王の時代がくれば戦わずしてランベールを他国に奪われるだろうと。君はそんな男の元へ嫁ぎたいのか?」
王子が好色家であるというのはとても有名な話だった。国中から女を集め王子の義務などそっちのけで部屋に囲い入れ四六時中はべらしているとか。世継ぎは彼しかいないため国王も頭を悩ましているそうだ。
スフェラは始めて聞いた王子の人となりに目を見張るもの唇を噛み締めてそうだと頷いた。
「王子様に嫁ぐことは私に与えられた運命だもの。そうすればみんなが幸せになれるんだから…」
「あぁ。幸せになれるだろうさ。美しい人形を手に入れた王子と金を受け取った両親がな」
「どうしてそれを!?」
見透かしたようなカラスの言葉に驚きを隠せない。カラスは小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らすとスフェラを見下した。
「そんなの言われなくたって想像はつく。君は貴族じゃないんだろう?贅沢に慣れたお嬢様が自分のドレスの裾に足を取られるものか。庶民の君が王子に嫁いだところでせいぜい妾。嫁ぐと言うより売られると言った方が正しいんじゃないか?君も難儀だな。人とは違う容姿を持って生まれたせいでまともな人生を歩むこともできないのだから」
上から突き刺さる黒い視線に胸を貫かれるような痛みを感じた。それでもスフェラは必死になって自分に言い聞かせた。
「違う!お母さんもお父さんも一生懸命私を育ててくれたわ。自分たちの食べる分を私が痩せ細らないように与えてくれて、肌が荒れてはだめだからと家事を手伝うことも許してくれなくて。お母さんとお父さんはいつもぼろぼろで。これは私ができる唯一の恩返しなの!」
いつのまにかスフェラは泣いていた。家を出たあの日のように赤い瞳から流れ落ちた雫は静かに彼女の頬を濡らす。
だから、これでいいのだと。たとえ売られる形になろうと両親がくれた愛情は本物で彼らが幸せになれるのならば自身の未来などいくらでも差し出せた。
スフェラだって心から両親を愛していたから。
声を押し殺して泣くスフェラにカラスはたじろぎ剣呑だった雰囲気が霧散した。カラスはおろおろと周囲を見渡すがスフェラと自分以外にはのんきに草を喰む馬しかいない。
意を決して彼女の前に膝を付くと濡れた頬を自身の手で拭った。
「……すまない。言い過ぎた。何も知らずに王子に嫁ぐなんて夢を見ている君に苛立ってしまった。確かに君は美しい。けれど外見がもたらす災厄を僕は知っているから。君の容色が衰えたら?王子が君に飽きてしまったら?両親のためだけでなく君自身のために、もう一度よく考えてくれないか?」
先ほどとは全く違う子供をあやすような穏やかな声音と頬に触れる温かな手のひらにだんだんと心が落ち着いてくる。
「どうして、そこまで優しくしてくれるの?」
ずっと疑問だった。出会いはただの偶然。見捨てることも、スフェラが見てきた男たちと同じように彼女自身を求める事も出来た。
けれど邪な目を向けるどころか、スフェラが望んではいなくとも家まで送るとまで言ってくれた。カラスが突きつけたのはスフェラ自身が目を逸らしていた現実。乱暴な言い方だったとしても彼女の行く末を慮ってくれた。
なぜ、他人にここまで心を配ってくれるのか。
世間知らずな彼女でも他人が無償の優しさをくれると思うほど甘い考えは持っていなかった。
いつだって彼女を見つめるその瞳の奥には欲や打算が含まれていた。彼女の両親でさえも。それが普通だと思っていたのにカラスは……。
「……別に。優しい人間が君を泣かせるわけないだろ。ただ、、、放っておけなかっただけだ」
カラスは罰が悪そうにそっぽを向く。けれど、とっくに涙の止まっていた頬を撫でる手が離れることはなくて。
「……ありがとう」
「昨日も聞いた」
「ううん。私が何度でも言いたいの。ありがとう」
美しく生まれ美しくあることがスフェラの存在する意味だった。そうあることが当たり前でスフェラの思いなど二の次だった。
本当は少ないご飯でも分け合って食べたかった。お母さんの手がこれ以上荒れないように手伝いたかった。本当は王子様に嫁ぐよりお母さんとお父さんと一緒にいたかった。
けれど両親がそれを望むなら……。
宝石姫と呼ばれ、心さえも宝石の中に閉じ込めてしまったスフェラにどうしたいか聞いてくれたのはカラスが初めてだった。
「私、やっぱり王子様の元へ行くわ。お母さんとお父さんに言われたからじゃなくて私が行きたいの。あなたが送ってくれなくても一人で行ってみせる」
義務感からではなく決意を滲ませたその言葉にカラスは視線を戻す。そして目を離せなくなった。
スフェラは、笑っていた。
カラスと出会ってからずっと恐怖と不安に強張らせていた顔に晴れやかな笑みを讃えていた。
手のひらが急速に熱を帯びる。頬に触れたままだった手を火傷したようにばっと引き、けれど所在のなくなったそれをしばらくさ迷わせ結局自身の膝の上に落ち着かせた。
「君は本当にそれでいいのか?王子の元へ行ってしまえばおいそれとは逃げ出せないし、あんな畜生の元に君の幸せがあるとは思えない」
「私が王子様に嫁ぐってなった時お母さんもお父さんも本当に幸せそうだったの。お金をもらえたっていうのもそうなんだろうけど、私が貧しい思いをしなくて済むって思ってくれたのも本当なのよ?寂しくなったら帰ってこればいいとも言ってくれた。お父さんとお母さんの思いに報いたいもの。それに私が幸せになれないという保証もないでしょう?」
一人取り残され怯えていた少女はどこにもいない。カラスはそんな彼女が眩しいものであるように見つめた。
満ち足りた表情を浮かべるスフェラのなんと美しいことか。自身の運命を受け入れ、尚も明るい未来へと邁進しようとする高潔さ。
それに比べて自分のなんて矮小なことか。黒という色を持って生まれただけで森に捨てられ、必死に生きようとしても誰にも認められず虐げられてきた。これが与えられた運命なのかと世界を呪っても自分が変わろうとは考えもしなかった。
盗賊が襲った後から使えそうなものを拾う様はまさしく死肉を漁る烏だ。善人にはなれず悪人にもなりきれずもがき疲れて死んだように生きてきた。
彼女を助けようと思ったのもそんな自身と重なって見えたからだ。
宝石姫の噂は聞き及んでいた。ルビーをはめ込んだ瞳にサファイアを溶かした髪。真珠の粉を散りばめた肌。
宝石で出来た姫は持ち主が現れるのを待っていると。
けれど彼女を目の前にして噂は噂でしかないのだと気づかされる。
「……君は強いんだな」
青い髪にとめどなく流れる大河のごとき強さを、白い肌に薔薇のように凛と咲き誇る純潔の意思を、赤い瞳に全てを受け入れ輝きを増す焰を灯し、宝石などでは例えようのない美しさを秘めている。
「そんなことないわ。あなたがいなければ自分の思いにも気づけなかった。だから……ありがとう」
何度も繰り返されたその言葉を今なら素直に受け入れられる。
「……王都まで送っていこう。君のような世間知らずが森をうろうろしてたら速攻で野垂れ死ぬに決まってる。最後まで面倒は見るって言っただろ」
受け入れられても素直には返せずつっけんどんな言い方になってしまう。けれどその耳が赤いことに気づいてスフェラは楽しそうにくすくすと笑った。
「何がおかしい?」
「いいえ。おかしくなんてないわ。ただ、見つけてくれたのがあなたで良かったと思って」
「……なんだ、それ」
カラスは不機嫌そうに顔を歪めるも頬まで赤く染まった顔に迫力はなくて。スフェラは更に笑いを深める。
風になびく髪が青空に溶けて、楽しげに瞳を細める少女の美しさに青年はしばらく見惚れ、名残を振り払うように立ち上がった。
「さあ、行こう。ここから王都まで三日はかかる。ぐずぐずしてる理由はないだろ」
「……そうね。王都までお願いします」
さっさと馬車に向かうカラスの背にスフェラは寂しげな微笑みを向けて後を追った。
カラスと一緒に御者台に乗り込んで王都を目指す。
使者の視線から逃れるために眺めていた景色はどこか陰鬱とし、スフェラの気持ちを晴らしてくれることはなかった。
同じ景色の中を進んでいるはずなのに、カラスもスフェラも口数は少ないものの、たわいないやりとりは心を和ませ時間を忘れさせた。
けれど旅の終わりが刻一刻と近づくにつれスフェラは胸に小さなトゲが刺さったような痛みを感じた。
家を出たばかりの時とは違い王子の元へ嫁ぐことを自分の意思で決めた。みんなの幸せのために向かっているはずなのに、もう一人の自分が本当にそれでいいの?と問いかけてくる。
「この辺りで一度休憩しよう。もう少しで森を抜ける。そしたら王都だ」
嬉しいはずなのに淡々としたカラスの声に胸の痛みが増す。返事をしようと開きかけた唇が言葉を紡ぐことはなく、その様子に気づいたカラスが心配げに眉根を寄せた。
カラスは馬車を止めると御者台から飛び降りてスフェラの側にまわる。スフェラは無言で差し出された手に弱々しい微笑みを浮かべるとありがとうと言ってその手をとった。
「……やっぱり、嫌になった?」
何が、とは言わない。カラスは木の幹にもたれ前を向いたまま言った。
スフェラは少し考えてから首を振った。
「違うの。……ただ、カラスにもう会えないんだと思うと悲しくなって」
スフェラは言葉にしてようやく自分の気持ちに気づいた。王都に着くということはすなわちカラスとの別れを意味する。
出会ってたった数日だとしても両親以外に友人どころか会話もほとんどしたことのないスフェラにとってそれだけで特別であったし、彼女自身の想いを酌んでくれた唯一の人だった。
けれどまた、心の奥で本当にそれだけ?という囁きがきこえた気がした。
答えを見つけられないスフェラにカラスも何事かを考えるように俯いたかと思うと、揺れる瞳を彼女に向けた。
「あのさ……。君は、あの時なぜ……、…………!!!?」
カラスは言葉を切り警戒したように周囲を見渡す。すると王都の方角からいくつもの馬蹄の音が森の静寂を破るように彼女たちのもとに近づいてきた。
「……!!スフェラ!こっちへ!」
カラスは危険を察知しスフェラを馬車へ押し込めようとした。しかしあの時の恐怖心が蘇ってスフェラは躊躇する。
カラスは舌打ちし、自身の背に彼女を庇うようにして身構えた。
「……発見しました!!ヨシュア様!こちらです!」
地味なマントを羽織り馬に騎乗した男がスフェラたちの前に躍り出る。彼らを一瞥したかと思うと後ろに向かって叫んだ。
「ヨシュア……?」
男が呼んだ名前にカラスは眉をしかめ、注意深く様子を見守った。
先駆けの男の後に次々と同じ格好をした男たちが現れる。彼らは馬を左右に配置し道を作った。
「ああ、こんなところにいたのか私の姫。あんまりにも遅いものだから迎えに来たよ」
そう言って整然と並んだ男たちの間を悠々と進んで来たのは白馬に跨った一人の青年だった。
金色の髪に青い瞳。男たちと同じようにマントを羽織っているがその所作から高貴さが伺えた。
その姿はまさしく……。
「……王子、さま?」
「そうだよ。君の未来の夫だ。私にも君のことがすぐに分かった。サファイアの髪にルビーの瞳、真珠の肌。噂通りの美しさだ」
清廉な見た目からは想像もつかない舐めるような視線を受けスフェラは底知れない不快感を覚えた。
「ところで君の前に立ち塞がっている薄汚い男は誰だ?」
しばらくスフェラを見つめていたかと思うとヨシュアはカラスに視線を移した。その瞳は侮蔑を含んでおり、それだけでスフェラは王子に好感を持てなかった。
「使者の方たちがいなくなってしまって。一人取り残された私を助けてくれた恩人なんです」
スフェラがそう言ってもヨシュアは気のない返事をし、いい事を思いついたとばかりに顔を歪めて笑った。
「忌々しい黒髪め……。お前たち。この犯罪者を捕まえろ。我が花嫁となる娘を拐かした罪、死を持って償ってもらおう」
「そんな……!!カラスはそんなこと!」
していないと言う前にいつの間にか後ろにいた男たちの内の一人に腕を引かれた。それに気づいたカラスが止めようとしたがあっという間に囲まれ拘束され、頭を剣の柄で殴られ意識を失う。
「王子様!なぜこのような事をするのですか!?彼は何もしていません!!お願いします。彼を離して……!」
懇願するスフェラに馬から降りたヨシュアは歩みよると彼女の頬をねっとりと撫でた。カラスの手とは違う感触に怖気が走る。
「心配しなくていい。王宮に帰ったらすぐにあの男の公開処刑をしよう。もちろん君は観客だ。私たちの結婚の余興としようじゃないか」
そう言ってスフェラの手を恭しく引くと馬車に乗せようとした。スフェラは身をよじって抵抗しようとしたが存外強い力で捕まれあえなく閉じ込められる。
「花嫁は無事奪還した!行くぞ。凱旋だ!」
ヨシュアの掛け声と共にガラガラと馬車も動き出す。閉じ込められたこと以上にカラスの身を思いスフェラは恐怖に体を震わせた。