~三人の少女たち~ 一話
それはあの死闘から一ヶ月半近くが経った、ある優しい陽光が差し込んだ日のこと。
彼らは日常に戻り、普通の高校生としての日々を過ごしていた。
既に陰神は潰え、仕事は時折入る浮遊霊などの駆除で、あの激戦の毎日を考えると平和と言って差し支えないものだ。
あれ以来大きな戦闘もない。やはり以前と比べて物足りなさはあるが、それでも勝ち取った平和ともなれば長く続いて欲しいと思う。
「よ、今日もお疲れ。これから支部か?」
人もまばらになった教室で、一人ぼうっとしていた和弥に話しかけてきたのは親友。いつものように澄ましたような微笑を浮かべていた。
「ああ。もうそろそろ綾華が来るだろうから」
「なるほど。俺は今日、図書館に寄ってから行くつもりだから、もしかしたらそっち行けないかもしれないな」
「おっけ……と、来たな」
教室の扉を引いて現れたのは、言うまでもなく綾華。長い黒髪が一際目立つ。
「遅れてごめんなさい。良治さんも支部ですか?」
「いや、図書館寄ってくから支部に顔出せるかわからないですね」
「出来れば来てくださいよ。まどかが最近付き合いが悪い、ってちょっと不満そうでしたから」
「うわ、本当ですかそれ」
苦虫を噛み潰したような表情で唸る良治。
最近は平和になったせいか、ちょくちょくと支部に行く頻度が減っているのは確かだった。そのぶんの時間は読書に使ったり、他の支部の人間などと連絡を取ったり、或いは今年もクラスメートになった細井や真帆などと遊んだりしている。
当然違う学校に行っているまどかとは会う頻度は極端に落ちる。ほんの一ヶ月前まではほぼ毎日会っていたのだから、その落差もあるだろう。
「わかりました、出来るだけ行くようにしますよ」
「ありがとうございます」
ため息混じりに答えると綾華が笑って感謝の言葉を口にする。
「なんだ、すぐには行かないのか」
「当たり前だ。俺は馬に蹴られたくないんでな」
「お、おいリョージ!?」
「そもそも図書館に用事もあるし。じゃあまた後で」
言いたいことだけ言って教室から走り去る良治。残されたのは赤面した一組の男女。
「……もう、良治さんてば」
「ま、まったくだ」
視線を逸らしたまま話す。お互いがお互いを意識している、恋人同士になった男女によくある光景の一つ。
あの春の日の屋上での出来事から数えて、もう一ヶ月以上が経過していたが、それでもまだ二人の関係を指摘、或いは揶揄されたりすると二人とも恥ずかしくなり、こんな状態になってしなっていた。
最初のほうは細井を始めとした周囲の友人たちもからかっていたが、その初々しさが消えないことが解ってくると、諦めのほうがどうにも大きくなりもはやわざわざ言う人間はいなくなりつつあった。
細井の言を用いるなら『あー、もう熱い熱い! いい加減にしろバカズヤっ!』。
「あ」
和弥があることを思い出したのは昇降口まで来たときだった。
「しまった。リョージに本返すの忘れてた」
「……もう」
ため息混じりに呆れた声を出す。
しかしまだ学園を出たわけではない。少々時間はロスするが、ここで気づけたのは僥倖だろう。
支部で会うだろうからその時に渡すか一瞬悩んだが、後ろを向きながら走り出した。
「悪い、図書館まで行ってくる。ちょっと待っててくれ!」
「もう。わかりました、早く戻ってきてくださいね」
こういうとき、何故一緒に行こうと言ってくれないのか。
彼がそういう細かいところまで気の回らないのを知っていて付き合いだしたが、それでも綾華は若干不満には思う。
でもこれが戦闘中だったり、ギリギリの崖っぷちだったりすると、途端に集中力が増したり、周囲の些細な変化にも気づけるようになったりしてしまうのが彼らしいといえばらしい。
彼女は一人壁に背を預け考える。
支部までの道程、どんな話をしようかと。
図書館へ早足で向かう。どんなに急いでいても走ることはしない。……人目のあるときは。
放課後となり、部活動の喧騒があちこちから聞こえている。校舎を出て、図書館へと続く渡り廊下へ。
この渡り廊下は校庭へも繋がっていて、簡単な屋根がついているだけのもの。しかし粗雑な造りではなく、簡素ながらもしっかりとしたものだ。
ちょうど図書館から出てきたのだろう、向こう側から歩いてくる一人の少女。スカーフの色からして、今年入ってきた新一年生だろう。
和弥は早足のまま少女の脇を通り過ぎた。
「……?」
通り過ぎたそのとき、ほんの僅かな違和感を覚えた。
しかしその違和感は、説明すら出来ないほど些細なもの。気のせいだったかもしれない。そう思って緩みかけた足を前に進める。
しかし。
彼は振り向いた。ちょっとした引っ掛かり、それを確かめよう。何のことは無い。数秒振り向くだけでその違和感は払拭されるのだ。精神衛生上そっちのほうがいい。
そんな理屈は全部後付けで、単純に彼は振り向いたほうがいいような気がしただけだった。
そして、少女と目が合った。
「…………」
「……何か御用ですか」
やや茶色がかった肩まであるウェーブのかかったクセっ毛に、見た者の心中を見通すような、それでいて底知れない黒い瞳。そして先ほど通り過ぎたときとは全く違う圧倒的な存在感。
少女は和弥が振り返ったから振り向いたのではない。彼がそうしたときには既にこっちを見ていたのだ。
先手を取られていた。
その事実に全身が硬直する。戦場だったならば、致命的な隙になっていた。
「……いや、なんでもない」
搾り出すような声で出た言葉は、ありきたりな、それでいてこれ以上深入りしてはならないという本能だった。
「そうですか。……それでは私から一つ」
どくん、と心臓の音が跳ねる。
予想外の返答。しかし少女が先に振り向いたのだから、用があってもおかしくはない。
和弥は無言で彼女の言葉を待つ。いや、声を発することが出来なかった。少女の黒い双眸に射抜かれ、精神的に劣勢に立たされていた。
「図書館のあの方は貴方のお知り合いですか?」
少女の問いはまたも彼の予想外のものだった。
和弥は今、図書館にいる良治を追いかけてきている。順当に考えれば良治だろう。最初に想像したのも良治の姿だった。
しかし、何故?
聞いてきているということは、知り合いだということを知らないからだ。しかし推測できる材料があるということでもある。
良治と知り合いだと判断するような材料。
思い至る節はない。もしあるとするなら……『力』か。
だが、和弥はともかく良治は完璧に隠し切っている。
そうなると、他の可能性は――?
「……まぁ良いでしょう。でもあの方が大事なら気を付けたほうが良いですよ。それでは」
もう一つの可能性に辿り着いた瞬間、少女は軽い会釈とともに小さく息を吐き校舎へ向かって立ち去っていってしまった。それも足音一つさせず。
「……何者だ、あいつ」
『力』は感じなかった。だがそれだけで少女が退魔士でないと判断するのは早計だ。良治のように隠している可能性もある。
しかし、その佇まいから普通の人間とは信じがたい。さっきの質問も含めてだ。
雰囲気というか、少女の持つ空気は同年代の持つものとは異質。まるで仕事モードの良治を相手にしているようなイメージだと彼は感じた。
ここで立ち止まって悩んでいても何も始まらない。
深呼吸を一つして、図書館へと足を向けた。
「――っていうことがあったんだが」
「心当たりないな。だが、気になるな」
図書館二階の奥にある、仕切りのある読書スペースに良治はいた。当然というか、彼は本を持ってはいるが読書しているわけではなく、傍らに浮いた『彼女』と世間話をしていた。
とりあえず此処に来た理由の本を彼に返し、その後でついさっきの出来事を話してみたらそんな反応が返ってきた。
「あともう一つの可能性が浮かんだんだが」
「もう一つの可能性?」
あの少女が立ち去る瞬間に浮かんだ可能性。
もしかしたら、というくらいで確率的に低いことだが一応良治に伝えておくことにする。どんなことでも伝えておくことは大事だろう。何か閃くきっかけになるかもしれないし、それこそもしかしたらそれが真理を突く可能性だってある。
「ああ。……あいつが言った『図書館のあの方』って、この人なんじゃないか?」
「私?」
首を傾げながら自分の顔に指差したのは半透明の女生徒、即ち中垣知恵。
数年前にこの図書館で亡くなった、今では『図書館の主』となってこの場所に留まっている霊。悪霊ではなく、自我を持った無害な霊として良治たちの話し相手になっていた。
「確かに知恵さんのことの可能性もあるか。だが、つまり和弥。その女の子は『力』を持っていると思うんだな?」
「ああ。なんだろうな、全然歳相応の落ち着きじゃなかったし、まるで仕事モードのリョージを相手にしているような感じだった」
あの底知れぬ瞳と存在感。いくら虚を突かれたとはいえ、完全に圧倒されてしまっていた。和弥ももう一人前の『退魔士』として扱われている。そんな彼が持った印象なら、例え良治が相対していてもそう違った印象は持たないだろう。
「そうか……。わかった、ちょっと調べておこう。最近は特に大きな仕事もなかったし、それくらいの余裕はあるからな」
「助かる。それじゃあ俺は綾華待たせてるから先行くな」
「了解。それじゃまた後で」
既に綾華と別れてから三十分経っていた。そろそろ催促のメールが来てもおかしくない時間だ。時間に関して彼女は厳しい。連絡を忘れて怒られたことは数え切れない。
「で、知恵さん。その女の子に心当たりはありますか?」
和弥が視界から消えたのを確認して空中で逆さまに浮いている彼女に尋ねる。
逆さまだがスカートは重力に影響されないので、ほとんど翻らない。
「うーん、今年の新入生でしょ。心当たりはちょっとないかな。こんな身体だから『力』のある人はなんとなくわかるんだけど。って言ってもあくまでなんとなくだし、そもそも身体ってないけど」
笑って言う知恵。そこにはもうなくなった自分の肉体に対する未練や嫉妬はない。それがわかっているので、良治も気まずくなったり特別気を使ったりはしていない。
「そうですか。じゃあ明日にでも調べますかね」
今日はこれから支部に顔を出しておかないといけない。綾華にああ言った手前、さすがに行かないわけにはいかない。
開いていた本に栞を挟み、鞄に詰める。結局今日はほとんど読めていなかった。まぁ仕方ない。そもそも本を読むのが主目的ではないのだから。
「……ひーちゃん、誰か来るわよ」
ちなみにこの『ひーちゃん』という呼び方は苗字の『柊』から来ている。この呼び方をするのは彼女だけなので今でも慣れない。
この誰か、というのは知恵の知らない人、という意味だ。面識のある人なら気配である程度わかるらしい。今回はどうも気配に覚えが無いようだ。
腰を浮かせかけていたが、すぐに座りなおし来訪者を待つ。既に知恵は姿を消している。普通の人間には見えないが、念のため、ということだろう。
間もなく現れたのは四人の女生徒たち。スカーフの色を信じるなら全員一年生のようだ。先頭の少女は茶髪のセミロングで、辺りを注意深く探っている。後をついていく三人は落ち着かない様子できょろきょろしていた。
「あの」
「はい、なんでしょうか」
鞄に詰めた本を素早く取り出して読み始めていた良治に、茶髪の少女が声をかけた。なにか腑に落ちない、そんなに雰囲気だ。
「おかしなことを聞くんですけど、ここに幽霊とかいませんでしたか」
「幽霊……? ここには俺と、さっきまで話をしていた友人しかいませんでしたよ」
「そう、ですか」
内心の感嘆を表情に出すことなく答える。しかも相変わらず嘘はついていない。質問に対する正確な答えでもない。だがそれで少女は質問を止めてしまった。
少女は振り向いて後ろの三人とこそこそ話を始める。だが距離がそんなに離れてないせいで漏れ聞こえていた。
「でも――たいに――――って――ら今度は夜に――ばはっきり――」
茶髪の少女が他の三人を説得しているようだ。その口調には焦りが含まれている。
どうやら話は済んだようで、今度は良治のほうに向かって上級生に対してはやや強い口調で言う。
「あの、もしも幽霊を見たり、そういう噂を聞いたりしたら私に教えてください。私は1-Cの三咲千香です」
「ええ、わかりました。何かおかしなことがあったりしたら知らせますよ」
彼にとってのおかしなことと彼女にとってのおかしなことに、大きな隔たりがあることを知っているのは良治だけ。幽霊だろうがなんだろうが、彼にとってはある意味日常的なことに過ぎない。
良治の物分りの良さに訝しげな目を向けたが、三咲はそれ以上追求しないで他の三人と一緒に階段のほうに去っていった。まだ気になるのか、しきりにきょろきょろとしていたがやがて階段まで行き着くと諦めたように下っていった。
「あの娘、『力』あるみたいね」
姿を消して潜んでいた知恵がいつの間にか背後に現れていた。その表情は浮かない。
「ですね。とりあえずさっき和弥が言っていた女の子とは違うようですが。それにしても……」
振り向いて言う彼が、苦笑いをする。その意味を感じ取って釣られて彼女も苦笑した。
「あれは間違いなく私を探しに来たよね」
「たぶん、間違いなく」
それも興味本位で。
何かしらの理由があるならきっと一人で来るだろうし、もし怖がって複数で来るなら様子がおかしい。先頭の立っていた三咲は全然怖がっている素振りはなかったし、他の三人は怖がりながらも興味に勝てずついてきたような感じだった。
「おそらく、あの三咲って娘が自分は霊感があるんだ、とか言って取り巻き連れて確かめに来たんでしょう。まったく、ああいう手合いが一番面倒だ」
迂闊に本当のことを言えないし、下手に対応すると更に好奇心を刺激しかねない。彼にしては珍しく、表情を曇らせうんざりとした口調だ。
あの年頃の女の子はどうしてもこういったオカルト的な話に興味を持ちがちだし、行動力もある。こういう場合の対処はなんとも難しいものだ。
そして悪いことに、興味本位なものだからもし本当に当たりを引いてしまった場合の対処が出来ない。なまじ霊感があると当たりを引く可能性も高まるが、それ以降の対応は普通の人間には出来ないのだ。
もし三咲が当たりを引いてしまった場合、それが悪霊ならばまず間違いなく命を落とす。
「……まったく」
退魔士でもない人間が命を落とすのはなんともやりきれない。はっきり言って自業自得だが、それでも目覚めが悪くなることに変わりはなかった。
「ホントお人好しだよね、ひーちゃんは」
「そんなことないですよ。ただ助けられるのに助けられないのは嫌なだけですよ」
やるせないため息と共に彼は呟いた。