~符術士の系譜~ 三話
「……ん、声が聞こえると思ったらお前たちだったのか。もう下校時刻は過ぎてるぞ」
「……」
「……先生」
階段から姿を現したのは見知った人物だった。
いつもと同じ、青を基調としたジャージの上下の体育教師。疲れた顔をしているのは体育祭のあとだからだろうか。それともまだ体調が戻っていないせいなのだろうか。
「今日はよく頑張ってたな。二人がいなかったら無事体育祭を成功させることは出来なかったろうな。今日は早く帰ってゆっくり休みなさい」
「……あ、はい。ありがとうございます、阪井先生」
気勢を削がれたせいか、一瞬反応が遅れながらも俺より半歩前へ出て阪井の正面で返事をする瀬戸。
それに対して俺はちょっとした混乱状態になっているだろう彼女のサポートに入る。即ち周囲への警戒。今この状況、瀬戸は完全に警戒を怠っている。もしこの状況を敵が監視していたら仕掛けてくる可能性は大いにある。一般人一人くらいなら巻き込んでもおかしくないのだ。
「ああ、それじゃあな二人とも」
「失礼します」
「はい、それでは」
警戒をしながら返答する。そのとき初めて違和感に気がついた。
たかだか二、三歩くらいしか離れていない阪井と瀬戸との立ち位置。
そして何の危機感も持たず会釈をしている間抜けな女生徒。
――考える間もなく、勝手に右手が動いた。
バシュッ!
「ぐうぅっ!?」
「きゃあぁぁっ!?」
弾けるような大きな音が一つに、上がった声は二つ。
「ぬぅ……感づかれていたか」
「え……ちょっと、どういうこと……?」
この状況になっても何が起こっているのかわかっていないのが一人。少しは理解する努力をしてほしい。
「目の前には右手を失っても痛がってもいない、濁った瞳をした体育教師。それに相対して手に攻撃用の『符』を持つ退魔士。……これで理解したか?」
ついでに言えばもう一人、『退魔士のくせに置いてけぼりをくらってついてこれていない女生徒』がいるが、それは敢えて割愛。
瀬戸と阪井の間に割り込むように立ちはだかる。阪井はさっきの『爆炎の符』での攻撃時に間合いを取っていた。予想よりも慎重派なのかもしれない。
それにしても、さっき頭を下げ完全に無防備になっていた瀬戸に向かって阪井は頭目掛けてその右手を振り下ろそうとしたところを、俺の放った『符』で迎撃し右手を吹き飛ばしたのだが……まったく痛がっている節がない。痛いのかもしれないが、それを表には出していない。これはちょっと普通じゃない。もしかしたら――
「……って、え、もしかしてこの結界を張ったのって!」
「気づくの遅っ!」
纏まりかけていた思考を放棄して思わず突っ込んでしまった。これは仕方ないと正直思ったり。
「……おい、一旦校庭に出るぞ。ここじゃ狭すぎる」
「え? あ、うん、わかったわ」
小声で確認すると、阪井に向かってまたも懐から出したさっきと同じ『符』を投げつける。
「ちっ!」
今度は残った左手で打ち払い、簡単に防ぐ。上手くいけばもう片腕もいけるかとも思ったが、そこまで甘くはないらしい。さっきのはあくまでも不意打ちが成功したということらしい。
「行くぞっ!」
「うん! ってえええええええっ!?」
だが今回放った『符』の目的は一瞬の足止め。その一瞬でやることとは、校庭へ――ダイビング。
瀬戸の腕を掴んで勢いよく窓ガラスをぶち破って空へと飛び出す。後ろから悲鳴が聞こえるが、それは気にしない方向で。
一瞬の浮遊感に身体を委ね、空中で体勢を整える。瀬戸の身体を引っ張り寄せ、お姫様抱っこのように抱えると同時に着地。
「あ、危なかった……」
瀬戸という荷物のせいか、足と抱える腕に多大なGがかかる。軽く痺れるような感覚があるが、大したものではないだろう。
そんなことを言ったらまるで瀬戸が重い、というような意味で取られかねない。まぁ、実際多少思うところはあるのだが、それはそれ、言わぬが花というやつだろう。痛い目にあいたいとは決して思わない。
「――ふん、ここでなら思う存分戦えるということか」
「ちっ……」
素早く瀬戸を地面に下ろし、臨戦態勢を取る。
振り返ると腕を失った体育教師の姿――ではなく、一体の醜悪な姿の魔物。
禍々しい気配が一帯に立ち込める。これは……瘴気か。
それはまるで人間大にした二足歩行のアリクイ。しかしその身体の色は紫と黒の斑模様。濁った瞳が二人を捉えていた。
「う、嘘でしょ!?」
「……腕も復元済みか」
どうやらあの姿になったと同時に再生したらしい。その事実に驚いた瀬戸が大きな声を上げていた。魔物の紫に濁った瞳が嗤う様に細まった。
「そうじゃなくて!」
「ん?」
「腕が復元したこともだけど、それ以上に! アイツ……魔族よっ!」
「……マジか」
確かに腕の復元なんて大掛かりなことを、目を離した一瞬でやってのけることは難しい。そしてそれは目の前の相手が『魔族』だと仮定してみると、あっさりと納得できてしまう。しかし、それは――
「気づいたか。若くともさすがは退魔士、といったところか」
瀬戸の言葉を肯定する魔族。隠れ蓑にしていた阪井のときとは全く口調が変わっている。知能を持った、魔界の住人。即ち『魔族』。
「……じゃあ阪井先生なんて最初から存在していなかったってこと?」
「いや、それは違うな退魔士の少女。阪井という人間は存在していた。だが二年前に任務が下され私が身体を乗っ取った」
「任務……? じゃあ今回のもその任務の一環ってことか」
「退魔士の少年、それは違う。その命令を出したモノと数ヶ月前から連絡が取れなくなっている。おそらく破綻したのだろう。――さて、そうなったら私がどうするかは……言わなくてもわかることだな?」
人間の『力』を吸い取り、自らの糧とする――
「――なるほど、ね」
「まさか……この間の、『陰神』の残党?」
「……おいおい」
陰神の名前くらい、地方在住だった退魔士として末端の末端の自分ですら聞いたことがある組織。そして陰神は今年の三月、凡そ二ヶ月前自分たちの所属する白神会の精鋭たちによって壊滅したと聞いていた。
目の前の相手は、あの外法士と魔族の無法組織『陰神』の生き残り……?
「……勝算は?」
「……二手に分かれれば、片方は生き残れるんじゃない?」
「……皆無なのかよ」
「聞かなくたってわかるでしょ……」
白神会に身を寄せ、初っ端から魔族と鉢合わせするとは、自分の人生かなりついてないらしい。というかこれで終わりの可能性が濃厚だ。
「ど、どうするのよ」
「片方が生き残ることより、二人で生き残ることを考えたほうが前向きな気がしないか?」
「しょ、正気!?」
「死にたくはないだろ。せっかく待っててくれてるんだから、ちゃんと腹を括らなきゃな」
御丁寧にもこっちの方針が決まるまで待ってくれている『アリクイ』をちらりと見る。戦闘体勢とは程遠い、リラックスした表情。絶対に殺せるという余裕が滲み出ていた。
「近距離、遠距離、得意なのは?」
「……中距離。私の武器ってこれだから」
「ナイフ……いや、投げナイフか」
転魔石で呼び出したナイフは、一般的なそれよりも一回り小さく、シンプルな造り。これでは接近して刺したりはできるだろうが、相手の得物を防ぐのは難しい。
「本数は?」
「全部で五十。あとの四十は十本ごとに一纏まりにしてあるわ」
「おっけ。それじゃあ作戦。お互いに動き回って撹乱しつつ、相手の死角から攻撃。付かず離れず、一定の距離を保って。シンプルだけどこれがベストだと思う。二対一のアドバンテージを最大限活かそう」
背後からの攻撃を、徹底的に仕掛けていく。それが出来れば次第に動きは鈍くなり、大きな隙も生まれるだろう。それまでにこっちの体力が尽きなければ、という条件はつくけれども。
「持久戦ってわけね。わかったわ。……それで、決定打は?」
「ああ、それは俺に任せてくれ」
俺たちは二手に分かれ、『アリクイ』を挟んで対角線上に位置する。向こう側にいる瀬戸の緊張が伝わってくる。かく言う自分もじっとりと掌に汗が滲んでいる。
「ほう、そういう作戦か」
右手には既に『爆炎の符』を用意している。手持ちの中では一番数が多く、比較的攻撃力の高いものだ。まだ別の『符』も数種類あるが、そのほとんどは現在手にしているこの符よりも攻撃力の面で劣ってしまう。
つまり、この『爆炎の符』が尽きる前に決着、悪くても優位に立っていなければならない。それができなければ切り札で止めを刺すには至らないだろう。
「――行くぞっ!」
自分を鼓舞するように気合を入れて右手を振るう。
狙いは足元。まず機動力を奪うことが後々の攻撃を効果的に命中させることに繋がるためだ。
「はぁっ!」
真横から狙った符は軽いステップで避けられる。地面に炸裂した符が炎を上げた。
もう一つ、足元を狙う理由がある。それは同士討ちの危険性を下げること。
つまり足元を狙っていれば、流れ弾が向こうにいる瀬戸に届きにくい。届く前に、先ほど見たように地面に当たって炸裂するだろう。
そして反対側にいる瀬戸だが――固まっていた。
「……っ」
初めての魔族との対峙。それは彼女の身体が本能的に怯むのに十分なものだった。突如として現れた敵。しかもそれは彼女の力を上回る『魔族』。その異形の姿に心が挫けてしまっても仕方のない話だ。離れた場所から見るだけならともかく、実際にその相手と命の遣り取りをしようというのだ。途端に弱腰になってしまっても責められることではない。
そのままでは命を狩られるのを待つばかりだ。
だが。
「瀬戸ぉっ!」
大きく、心に響くように気持ちを込めて叫ぶ。
お前は今、一人じゃないんだと。
この窮地をともに潜り抜けようとする仲間がいることを教えるための叫び。
「……――任せてっ!」
怯えていた表情が崩れ、瞳に強い力を宿す。腕の震えも止まった。今自分のやるべきこと。それを真っ直ぐに見据え、オーバースローで『アリクイ』の眉間目掛けてナイフを放った。
「ぐっ!?」
「惜しい!」
僅かに身をずらしたのか、狙った眉間はなく左の肩に突き刺さっていた。『アリクイ』が小さいながらも苦悶の声を上げる。精度は高いようで信頼できそうだ。
「この調子で行くぞっ!」
「おっけぃっ!」
「――調子に乗るなっ!」
ほぼ同時に放った『符』とナイフを大きな身体に似合わない巧みなステップで避けると、両手を振り上げ地面に叩きつけた。
「なっ!」
「なに!?」
叩きつけた地面を中心に土の地面が隆起していく。それもかなりのスピードでだ。しかも地面が揺れているので非常に動きづらい。
「っ!」
何とかバランスを取り戻し、大きく後方へ跳ぶ。このくらい距離を取ればとりあえずは大丈夫だろう。瀬戸は上手く回避しただろうか。
「きゃあああっ!」
「おいおいっ!」
まともに巻き込まれ、隆起していく土の塊に弄ばれるようにその小さな身体が翻弄されていた。
「今たす――」
「――――!」
駆け出そうとした瞬間、目が合う。そして声はなくとも意思は伝わってきた。
それは助けを請うものではなかった。
ただ勝利の為に。アイツを生かして帰したらこれから先もっと被害が出る。それを全身全霊を賭けて阻止する為に。
止まっていた足を再度動かし、駆け出す。目指すのは瀬戸ではない。
もうもうと立ち込める土煙に乗じ、背後から『符』を叩きつける。
「なにぃっ!?」
予想外の攻撃と威力に驚愕する『アリクイ』。 それもそうだ。なんせ今放った『符』は三枚。自分が同時に使える限度枚数。これで効いてくれないと非常に困る。
しかしそれでも致命傷とは言えないようだ。だがそれなら。
「これならどうだっ!」
「ぐうううっっ!」
学ランの裏に潜ませていた攻撃用の『符』を手当たり次第にぶちかます。この至近距離なら避けられることもない。それに『アリクイ』は今完全に足が止まっている。今が最初で最後、最大のチャンス。立ち直られたら瀬戸を欠くこっちが一方的に不利になってしまう。
――ここで終わらせる!
この戦闘で使った『符』の補充を考えると頭が痛いが、背に腹は代えられない。終わったら大量の『符』に筆で書き込む作業が待っていることはとりあえず忘れておこう。
そんなことを考えて気を抜いた一瞬、まともに攻撃を受け続けていた『アリクイ』が体勢を立て直し、またも大きく振りかぶった両腕で地面を揺らす。
「やばっ!?」
ほんの一瞬の油断。まさかそんなのが原因で反撃を受けるとは思わなかった。魔族というやつらはこんな化け物ばかりなのか。
土の塊に突き上げられながら、あることに気づく。
「へへ……」
小さく俺は笑うと、思いっきり『符』を『アリクイ』に向かって投げた。
「ふん、何処へ投げている」
言ったとおり、まるで見当外れの方向へ向かっていく『符』。
正直当たると思って投げていない。そもそも今投げたのは防御系の『符』なので当たってしまうと困る。
ただ、『アリクイ』の注意を惹く、という目的だけで放ったのだから、それは達成されたといえる。
俺はもう一度小さく笑った。
「――ぐぁ……!」
後ろを振り向く『アリクイ』。そこにはさっき土の塊に巻き込まれた瀬戸の姿。
「やぁっ!」
渾身の『力』を込めたナイフは突き刺さって尚威力が消えず、『アリクイ』の身体を後方へ押し出す。まるで思いっきりハンマーで殴ったような反応だ。貫通力という点では驚くほどの威力だ。まぁそれだけの『力』を貯める時間を稼いだのは自分なのだが。
「これで……トドメっ!」
「ぬぅぅぅぅ!」
膝を屈した格好の『アリクイ』に避ける手段はない。瀬戸も思いっきり『力』を貯めている。あれなら十分止めを刺せるだろう。
おそらく『アリクイ』の力が弱まったせいか、地面の隆起が止まったので平たいままの地面に降り立つ。最後くらいは落ち着いて見届けたい。
「やぁっ!」
全力で放ったナイフが突き刺さった――後ろにあった、隆起した土の塊に。
「……え?」
「……おい」
ナイフはいくつかの土の塊を貫き破壊し、何処かに消えてしまった。土煙がもうもうと立つ。
「って、おい、次のナイフ!」
「あ、うん――って、あれ。ナイフさっき落としちゃった……! もう一回喚ばないと――」
なんでこの大事な場面でドジ。俺の中での瀬戸の認識が確定した。
「最後くらいちゃんと決めろよ『ドジっ娘』!」
「ちょっと!? 『ドジっ娘』って何よ! まるで私がドジばっかりしてるみたいじゃない!」
「だからだよ!」
「酷くないそれっ!?」
「ってまずい!」
言い争ってる間に逃げようとする『アリクイ』。さすがにこの状態での戦闘続行は無理と判断したのだろう。もはや魔族としてのプライドは粉々にされたようだ。
「ぐ、ニンゲン如きがっ!」
最後の力を振り絞るように、球状の力の塊を手に出す。
一方の瀬戸は――
「あ、わわわわっ!?」
新しく呼んだナイフ一式を地面に落としていた。
それを見て呆れながらも走り出す。学ランの裏の一番奥の『符』を取り出した。その『符』は今まで使用していたものとは違い、赤い字で書かれたもの。
「派手に――」
「ニンゲン如き、ニンゲンゴトキニッッ!!」
「吹っ飛びな!」
大きな爆音に、『アリクイ』の断末魔は掻き消され、残ったのはクレーターのように空いた穴と土煙。
「い、今のって……?」
拾い集めたナイフを両手で抱えて呆然としている瀬戸。よく見れば制服のあちこちに破れた跡と土汚れに覆われていた。……脇の下の破れた場所からピンク色をしたブラが見えているが、それは気にしない。
「さっきまで使ってた『爆炎の符』。ただ、まぁ……あれは自分の血で書いたもんだけどな」
「血?」
「そ。使用者の血で、『力』を込めながら作られた『符』はその効果を飛躍的にアップさせることが出来る。まぁ作ったときのコンディションとか『力』の入れ具合で威力はまちまちだけど。さっきトドメに使ったのは取っておきの自信作。威力を見てみるに、ざっと十倍くらいの威力があったみたいだな」
「じゅ、じゅうばい……」
あそこまで完成度が高いとは思ってなかったが。最近のものではいいとこ三倍程度にしかなっていなかった。まぁ、これからも要精進ということだ。これから先同じようなことが起きないとも限らない。というか、それどころかこんなことばっかりかもしれないのだ。
しかし、今までは感じたことはなかったが、生と死のスレスレだった今回ばかりは強く実感した。――自分の血を。
父親、祖父、そしてそれより前の祖先たち。彼らの弛まぬ努力の末に自分はこの力を与えられていた。
符術の才能を持ったある一人の男は、その術を息子に残そうとその全てを教え込んだ。しかし、それだけでは足りなかったのだ。
代が変われば素質も変わる。息子には男の半分も符術を扱えなかった。
そして男は考え付いた。自分の編み出した符術の中で最も高度な術に必要な一点。即ち『血』に手を加えることを。
そして男の努力は結実する。
男の孫、そしてその息子へと『血』の練成方法は受け継がれ、それは代を経るごとに精度を上げていったのだ。
そして時は現代。自分の中にもその血脈が息づいていることを感じることが出来た。
「それにしても……あー、疲れた」
ごろんと荒れ果てた校庭に横になる。もう疲れ果てて動けない。身体のあちこちが悲鳴を上げているのがわかる。主に土の塊にやられた打撲だろう。身を縮めて耐えていたが、それでもやっぱり痛い。
「それにしても……よく勝てたわね」
未だに信じられないのか、感慨深げに呟く。
それはそうだろう。自分でもこの勝利は薄氷を踏むようなものだったのは理解していた。
「一対一じゃ話にもならなかったろうな。……瀬戸がいて助かった」
「そんな。それはこっちの言葉よ。私も高坂がいて助かったわ」
お互い笑いあう。そこにはもう一点の曇りもない、純粋な感謝のみが存在していた。昨日の時点では考えられなかったことだ。
「それにしても、ホントこんな展開になるなんてね……あの時街中で見かけたときは絶対犯人だと思ったのに」
「見かけたって、俺?」
「そ。相当怪しかったわよ。あんな周囲を探るような歩き方」
「……気づかなかった」
言われてもあの時不審な気配があったことを思い出せない。ということは瀬戸の尾行が上手かったのか、自分の気配察知能力が低いのかどちらかだろう。
しかし瀬戸の尾行が上手いとは思えないので、きっとあの甘い匂いのせいで自分の察知能力が落ちていたということにしておこう。うん、それが一番納得がいく。
「あー、ホント疲れた。早く帰ってさっさと寝るか……」
「そうね、早くシャワーを浴びたい気分だわ。――ほら」
寝転んだ自分に右手を差し出す瀬戸。暮れかけた夕陽が彼女を紅く染め、とても幻想的に映った。
きっとこの先、ずっと並んで歩いていくような気がする。
軽く微笑んだ彼女の手を、しっかりと握る。
「――ありがとう、これからもよろしく」
後日談。
あれから二日経った平日。
学校をサボって来た場所は、福島支部。東京、長野支部と並んで三大支部と称される規模の大きな支部だった。
魔族との戦いのあと瀬戸に指令が下されたらしく、本日彼女に連れられて来た。自分としては学校休めてラッキー――とはとても思えない状況だったりする。
それもそのはず、この福島支部の支部長は白神会四流派の一つ『蒼月流』の継承者たる蓮岡家の家長なのだ。組織の上司に呼び出されるという状況にはあまり良いイメージがない。
「ほら、あんまりきょろきょろしないで。……来るわよ」
隣に正座している瀬戸が囁く。だがそれも無茶な相談だ。畳が敷き詰められた大きな部屋。おそらく五十畳はあるだろうそんな部屋の真ん中で落ち着けとは酷だろう。しかも初めて訪れる場所だ。
そんなことを考えていると、音もなくゆっくりと襖が開いた。一人の小柄な少女と中年の男、そして二十歳過ぎくらいの長い黒髪の女性の三人が順番に入ってきた。
「……?」
おかしい。何だかわからない違和感を覚えたが、すぐにその理由に気がついた。
部屋に入ってくる順番が気になったのだ。
普通は一番目上の人間が最初に部屋に入ってくるはず。しかし先頭は一番歳が若い、自分と同じくらいの女の子だった。
「初めまして。遠いところご苦労様です」
当然のように上座中央に座し、まだ幼さの残る口調で自分たちに声をかける。あとの二人は左右後方に分かれて座っていた。
セミロングの黒髪、鋭さは感じないが凛とした力強さを持った瞳。見た目の年齢とはかけ離れた、まるでそこで座っているのが当然と感じるような落ち着いた佇まい。
「……お気遣いありがとうございます。こちらこそ初めまして。高坂流符術士・高坂一です」
「はい。お話は貴方のご両親から聞いています。――昨日付けで高坂家は正式に白神会の管轄ということになりましたので、改めてよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
自分に向けられる優しい瞳。座ってから一度も逸らされることのない視線に、自分は今試されていることに気がついた。
ここで失敗したらどうなるのかはわからないが、とりあえず無難にこなそう。さすがに失敗してこの話はなかったことに、というのは避けたい。
「それと今回の一件ですが、本当にありがとうございました。一さんの協力がなくては上手くいくことはなかった、と遥さんから報告を受けています。福島支部の支部長として改めて御礼申し上げます。ありがとうございました」
「あ、いえそんな……顔を上げてください」
深々と頭を下げる少女に慌てて声をかける。
そもそも最初から積極的に関わろうとはしなかったのだ。かえってこっちが恐縮してしまう。
「ああ、あともう一つ。――眞子さん」
「はい」
顔を上げた少女の呼びかけに、後方に座っていた女性が静かに立ち上がる。そして一つの書状を少女に手渡すとまた先ほどの場所に戻った。
「これは正式な委任状です。差出人は高坂幸一、受取人は……高坂一。どうぞ」
手渡される書状。それはよく時代劇であるような、白く横長の紙に筆で書かれたものだった。
「……! 本当、ですか?」
思わず口に出てしまうほど衝撃的な内容。紙を持った手に力が入る。
「はい。今日から貴方が高坂家の代表です。よろしくお願いします」
「へ……?」
隣にすわっている瀬戸の間の抜けた声で冷静さを取り戻す。何だか瀬戸がしっかりしていないときは自分が、という反射が出来上がってしまっているらしい。あまり認めたくないが。
「……わかりました。よろしくお願いします」
書状に記された言葉の羅列を理解し、覚悟を決めて返事をする。筆の筆跡など数度しか見たことはないが、自分の記憶と一致する。紛れもなく父親のものだった。
自分が高坂家を背負うことになるのは予想していたし、覚悟もしていたが、まさか本当にそうなるとは思っていなかった。この白神会に来るまでの道程で負傷したのが原因だろう。怪我の程度は軽くなかったのだ。そしてその怪我は俺たちを守って負ったもの。この展開に驚きはしたが、しかしそれだけ。覚悟が出来ていればこの程度の驚きなど飲み込めてしまう。
これからは俺が家族を守らなくてはならない。
「はい。それでは確かに福島支部支部長・蓮岡加奈が受理いたしました。これから一緒に頑張りましょう」
「はい。喜んで」
初めて見せた歳相応の表情、それは笑顔だった。
電車の外を流れる景色。夕陽が車内を紅く染める。
隣には瀬戸。満足したような微笑を浮かべていた。
「本当にこれからも、になったわね」
「ああ。同級生として、じゃなくてな」
あの後、これから何かあった場合瀬戸と一緒に組んでことに当たることが言い渡された。こっちとしても一人じゃ心細いし、知らない相手と組むよりは知っている瀬戸のほうが全然気が楽なので非常に嬉しかった。
「ふふ、じゃあ改めて。これからもよろしくね、一」
「ああ。これからもよろしくな、遥」
俺たちは右手を握り合って、微笑んだ。
「符術士の系譜」完
符術士の系譜はいかがだったでしょうか。どうも榎元です。
本編には出なかった福島支部と蓮岡加奈が登場。もしかしたら今後も登場の可能性が……。
外伝はもう一本投稿を予定していますので、近々またお目にかかれるかと思います。和弥たちとの再会をご期待ください。
それでは、また。