ハッピー・バースデイ
「……」
目の前に広がっている書類一つ一つ、それをゆっくり確認する。それを握り、そして確認している自分の手が少しだけ震えているのは自覚している。だからといってもどうしようもない事だとも理解している。だからこそゆっくりと息を吐き出して、心を落ち着ける。今、自分の手の中にある書類は完全にヤツの影響範囲外だ。王国が定めた法は絶対遵守されなくてはならない。それは俺に対して、そしてヤツに対しても適応されるルールだ。相手がルール内で活動している限り、それは絶対なのだ。故に、此処を間違える事は出来ない。
厚さ数センチとなっている書類の束、それを一枚一枚、書かれている文字を一文字たりとも見逃さない様に注視しつつ確認する。一回全てを読むのに一時間ほど必要とする。だがそれは一回目だけだ。二回目、三回目と読むときは既に内容を知っているという事もあって、半分ほどの時間で済む。だがそれでも合計五回程読み直し、内容全てを完全に暗記する頃には三時間ほど経過していた。
「ふぅー……」
書類の束を一旦デスクの上に置き、そして近くにおいてあるティーカップを取る。その中身が空っぽである事を把握し、軽く息を吐く。何時の間にか飲み終わっていたようだ。持ち上げたばかりのカップを再びデスクの上に置くと、横から声がかかって来る。
「お茶のお替りは必要でかね、若」
視線を横へと向けると、そこにはメイド服姿の”老婆”の姿がある。年齢は八十かそれより上で、顔は重ねてきた年によりしわくちゃになっている。それでも声ははっきり通っているし、表情も快活だ。そこには老いに勝っている老婆の姿がある―――とはいえ、どう足掻いてもメイド服にに合っているとは死んでも言えない。それはおそらくこの屋敷に存在する十人全員の総意だろう。
「欲しいなら欲しいんだけど、実際の所それに回すお金というか」
「それぐらいの贅沢は許されるものだろうねぇ。実際そこまでかからないし」
「というかメイド長だったらそこらへん、気付く前にやってくれるものじゃないの?」
「無駄遣いはしたくないんでしょ?」
「そりゃあそうだよな……って自己解決か。じゃあ頼むわ」
「あたしに任せな」
そこには主従という立場があるはずなのに、彼女、メイド長には敬う様な態度は一切存在しない。普通であればそれは確実に処罰ものなのだろうが、そういう礼儀的なものが彼女と自分の間に必要ないのは周知の事実だ。彼女は必要な事を誰にでも言われる事なく、臆す事もなく言ってのける。だからこそ助かるし、危なくもある。
自分が今持っている、最大の味方だ。
「さて、と」
羽ペンの先をインクで濡らしつつ、もう片手で書類の最後のページを確認する。そこには既にもう一人の名前が、ヤツの名前がサインされている。それは相手が了承した、というだけの意味ではない。本当の意味での戦いがこれから始まるということの証明でもある。その事実をしっかりとかみしめながら羽ペンを動かそうとした時、執務室の扉が開く音に気づく。その音につられる様に視線を向ければメイド長がトレーにポットとティーカップを乗せてやってくるのが見える。
ティーカップを取りやすい位置に置いてもらい、そしてその中身を飲む。個人的には珈琲が好みだが、そんなものはここには存在しない。存在するのは紅茶のみ。故にこの数年で飲み慣れてしまった紅茶を飲み、喉を潤してから羽ペンを持ち上げる。
そしてゆっくりと、丁寧に、綺麗に書類にサインをする。
それで終わった。
「十六歳の誕生日おめでとう若。この書類が届けば若は成人として認識され、このウォリック伯爵領の全権は後見人であるカルデニス公爵から戻って来るよ。いや、若じゃなくてウォリック伯とでも呼ぶべきなのかねぇ」
「冗談は顔だけにしてくれよ……」
そう言うとメイド長がクスクスと笑いだす。婆さんなら婆さんらしく大人しくしてくれよ、とは思うが頼れる味方が少ないこの環境で、このメイド長は非常に大事な存在だ。何時も負担のかけてばかりだから何とかしたい所だが……これはどうしようもない話だろうな、と今は割り切っておく。とりあえずは書類が汚れたりしない様にそれを横へと退けて、そしてティーカップの中の紅茶をゆっくりと飲む。視線を窓の外へと向ければ積もっていた雪が解ける程の強く、暖かい日差しが中庭に降り注いでいるのが見える。おそらく寒かった冬も終わり、これから暖かくなる、春の先触れとなるだろう。春になれば作物を育てる事が出来るし、領内で色々とできる事が増えるだろう―――通常であれば。
「あーあ、やだなぁ。すげぇやだなぁ。超嫌だなぁ、この環境」
「嫌なら何とかしてみなさい。逃げて困るのは自分だけなんだから」
そうなんだよなぁ、と呟きながらカップの中身を飲み干す。横で待機しているメイド長が直ぐにカップの中身を持っているティーポットで補充してくれるが、カップを一旦デスクの上に置く。その代わりにデスクの裏にある隠れスペースから一冊の本を取り出す。
「この数年、ひたすら二重帳簿で小金ちょろまかしながらひたすら馬鹿をやっている生活は辛かったなぁ……」
「そりゃあ仕方がないわねぇ。何て言ったってウチの若は―――傀儡なんだからね」
傀儡。
そう、それが己の立場だと再度自覚する。傀儡である、と。この領地に自由は……ない。自分にも、働く人間にも、そしてもちろん領民にも自由はない。それはこの領地が、ひいてはこの俺自身が傀儡という立場にあるせいだ。もちろんその主が誰であるか、何て六年も前から把握している。
カルデニス公爵、後見人だ。
この領地には他にはない魅力があり、そしてそれを利用する為にはどうしても意志を持った領主という存在が邪魔になる。故にカルデニス公は、ヤツは己の持つ様々な”武器”を駆使してこの領地を己の制御下に置いた。それが現状の全てだ。両親は公爵によって謀殺、妹は優秀であったために隔離すると言う名目で隣国へ留学、唯一特殊だった自分だけが放置された状態でこの領地に残っている。あるいは脅威とすら認識されてないのかもしれない。いや、正直そう認識されていた方が遥かに楽だ。
そこそこ無能、何より馬鹿を演じなくてはいけない。
「改めて考えると全方位的に詰んでいるよなぁ……」
「そりゃあそうさ。誰だって岩塩の売買を仕切りたいさ。金になるんだから」
岩塩。それがこの領地では取れる。それが、この領地最大の魅力だ。そして同時に両親の死因ともなったらしい。両親の事を自分は知らない。見たことが無いからだ。ただ話は実にシンプルとなっている。この領地では岩塩が取れる。岩塩は大きな金になる。岩塩の販売に絡みたい奴がいた。そいつは世間一般で言う”悪徳貴族”と言える様な存在だった。
勇敢な貴族はそれを断った。
残念な事に悪徳貴族は偉かった、そして強かった。
―――勇敢な貴族夫婦は二人の子供を残して謀殺された。
その後も話はシンプルに続く。権力と立場を使って残された子供たちの後見人という立場に収まり、子供に領地の運営はできないと言って正当な継承者の代わりに管理をする。領地の保有する岩塩の鉱山から生み出される富は本来の領にはいきわたらず、その大半が管理者へと搾取される。搾取されるのはそれだけではなく領地自体の金もそうだ。税率は引き上げられ、監視され、そして金銭の大半は悪徳貴族に行くような、そんなシステムが出来上がっていた。
それがおかしいと感じる事ができた優秀な妹は人質としてとられ、隣国へと留学という名目で送られた、面倒を起こさない様に。
そして残されたのは唯一の、たった一人の、不出来な子、長男だけだった。頭は悪く、屑で、それでいて派手を好む。他者を省みぬその無能は悪徳貴族に取って理想の傀儡だった。こいつを椅子に置いておけばどうとでもなる。そう確信させるだけの愚か者が本来の継承者だった。
―――自分だ。
……いや、正確には違う。
”前”の”俺”、という言葉が一番正しいのかもしれない。
「落馬して意識不明と聞いた時はぱ死ぬときは割と簡単に死ぬんだねぇ、と頭を悩ませたもんだけど、起きて記憶喪失って聞いた時はまた別の意味で頭を悩ませたさね。まあ、その結果が反転したかのような人間になるもんだから人生どうなるか解らないものさね。今ばかりは神様にお祈りしても問題ないと思えそうだよ。思えそうなだけでやらないけど」
「無理すんなよ婆さん」
苦笑する。人間が神や何らかの宗教を信仰するのは”保障”が欲しいからだと言われた事がある。神や宗教を信じる事によってそれから死後に対する安心感や保証を得る。だからこそ宗教は信仰される、と。それを必要とせず、いらないと断言できる人間は純粋な無神論者か心の強い人間だとも。まあ、このメイド長に限っては確実に後者のタイプだろうな、と思い、
「さて領地を公爵から取り戻したのはいい―――だけど勝負はここからだ、そうだよな」
「そうだねぇ。ここで税率をいきなり落としたり、公爵へ流すお金の領を劇的に減らすような事があれば確実に睨まれるだろうねぇ。実際領地を管理する人間が変わって、傀儡であるという事実に変わりはないんだから」
端的に言えば全方位的に詰んでいる。それが今の己の状況を表現するのには正しい。領地を健全に機能させるのに必要なのは領主だけではない。領民、人材、金、政治力、特産品、自衛力、様々な要素が必要となってくる。カルデニス公は金を搾取し、高い税率をかけ、自分の息がかかった人間を使用人として配置している。此方が防衛のための人員を持たなくてもいい様に、公爵が一部の戦力をこの領地に置いている―――その維持費はもちろん此方持ちで。こんな無茶が通っているのは全てはこの領地から岩塩が取れるから。
改めて詰んでいると認識する。相手にとっては最終手段だろうが、俺を殺して領地を吸収する事だって可能なはずだ。それをやらないのは今の俺よりも厄介である妹を呼び戻す必要があるのと、俺の殺害が明らかな不審となって隙になるからだ。そう、つまり状況は好転していない、一切も。不審を持たれたり”邪魔”だと判断されたら殺される状況だ。
だからこそ無能を演じなくてはならない。
馬鹿の、無能の、そしてあの悪徳貴族が納得する様な横暴な態度を表向きに続けなくてはならない。あの人間の屑を納得させ、そして満足させ続けなければならない。周りからは俺が傀儡の、悪徳貴族の様に、そう見えるように動き続けなければならない。その裏では資金を溜め、領地を発展させ、人材を集め、そして対抗するための武力を用意しなければならないのだ。
改めて認識する、詰んでいると。他の貴族へのつながりは公爵が許さないだろうし、資金の確保だって難しい。領民にも嫌われている為協力して領地の発展をすることができない。
だが完全に詰んでいるわけでもない。
「此方の武器は―――」
「岩塩の秘密鉱山を一つだけ保有しているね。これがあたしらの資金源で武器その一。武器その二はあたしの古馴染みだけど―――」
「―――此方は公爵の方に睨まれるからある程度言い訳を作れるようにならなきゃ駄目か。二重帳簿と岩塩の密売でちょくちょくお金を作っているけど、傭兵を雇うにしても十分維持できるほどの金でもないし、キツイな」
「それでも武器があるだけマシさね」
メイド長の言葉に頷く。そう、生きていて、そして武器があるだけマシだ。そして自分には諦める様な理由は一切存在していない。なによりも、それ以外に生きる道が、選択肢が自分には存在していない。だから全力で至難の道を進まざるを得ない……まあ、それ以外にも個人的な理由は見つける事が出来たのだが。
ティーカップの中の紅茶を飲み干しながら興奮しそうだったり、震えそうな心を落ち着ける。
「ま、頑張りなさい若。失敗したらこのオババが付き合ってやるから。昔のクソガキならいざ知らず、記憶喪失から立ち直った今のアンタだったら十分仕えるに足る人物だと納得してあげるよ」
「そりゃどうも」
そう言って老婆のメイド長に言葉を返しながら思考する。この老婆の認識は誤りであると。自分の正体は事故をきっかけに記憶喪失になり、そして更生した貴族の少年ではない。いや、少なくとも”ガワ”は貴族の少年のそれで正しいだろう。ただ中身は違う。この老婆は事実に対してどう思うのだろう。
自分は、この体に宿る精神は全く別世界で生まれ育ったただ日本人のものであると知ったら。
魔法も、科学も、モンスターもあるよ!
いわゆる”ハイファンタジー”の領地経営ものですな。ただ一つあげるとすれば主人公の立場は全方位的に詰んでいて、信用し、頼りになるのはメイド長(87歳)ぐらいという事実ですね。
ともあれ、久々のオリジナルモノですなー。もうなろうで更新する事はないと思っていただけに自分からしても驚きで。報告の方は今まで通りツイッターの方で行われますので。