虚像の君
初めて最後まで書けた小説です。一度違う場所に投稿したものです。
プロローグ
深夜2時、蛍光灯の光の中、少女は一人で洗面台の鏡を不思議そうに見ていた。
学校の課題をやっと終わらせ、少女はシャワーを浴びて寝ようと思っていたのだが、ふと、そこで鏡に違和感を覚えた。少女が覗く鏡は当たり前のように少女を映しだす。
普段と同じ、光の反射で映し出される現実と同じように見える虚像に、少女は安心し、そして鏡から目を逸らした。
「疲れているのかな?」
そう思ったが少女は念のため、もう一度鏡を視る。
「え?」
一瞬、確かに一瞬だけ鏡の中の自分が笑っていたように見えた。
ただ、それが本当に一瞬の出来事で鏡をしばらく視て、少女は気のせいだと思い、目を逸らして真後ろを向いて着替えを置く。
そして鏡の中の少女は外の少女とは別の動きをしだした。
鏡の中の少女は鏡の外の少女と同じ様に見えるが、眼は虚ろで肌は白く綺麗だが生気を感じさせず、何よりも鏡の中の少女は笑っていた。
眼は虚ろなまま唇だけを引きつらせ、歪んだ笑みで笑う。
鏡の外の少女を嘲笑うように、鏡の中の少女は鏡の外の少女に向かって歩きだす。
鏡の外の少女は気がつかない、着替えを置き、横を向き少女はバスタオルを掛けるが、視界の端に鏡は映ることが無く、気がつくことが出来ない。
ついに鏡の中の少女は立ち止まり手を伸ばす。
その手は鏡から出て、鏡の外の少女に伸びていく。
指先からゆっくりと出ていき、前腕部までが出るが鏡の外の少女には届かない。
だから鏡の中の少女は前かがみになり、身を乗り出す。
鏡から少しずつ、少しずつ上半身を出して手を延ばす。
そうして、ようやく鏡の中の少女は鏡の外の少女に触れた。
その手は冷たく、強く肩を握られた鏡の外の少女はビックと体を震わせ、振り返り、そして視てしまった。
―――自分を歪んだ笑みで、あざけ笑う自分を―――
少女の体は震えていた。恐怖で悲鳴を出したいであろう口は無駄にパクパクと動くだけで、そこからは何の一つ声は出ない。
そしてもう一人の少女は笑う、歪んだ笑顔、虚ろな目、そして死人のように白い手、その白い手が沈んだ。ゆっくりと脅える少女の体、腹部に白い手は沈んでいく。
「や、やめて……や・め・て」
やっと少女の口から声が出る。
今にも泣き出しそうな声で体を震わせ、必死に出した言葉だけがすでに恐怖で体がまともに動かなくなってしまった少女の唯一の抵抗だった。
それを踏みにじる様に、もう一人の少女に亀裂が走ったように笑い方が変わる。
歪んだ笑顔が壊れる。
にんまりと閉じていた口が開き壊れた様に笑い出す。
ゲラゲラと少女を覗き込むように、怖がる少女を視て楽しくて仕方が無いというように、まるで何も知らない無垢な子供のように笑う。
虚ろな目と白すぎる顔を引きつらせながら。
「い……や、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやあぁぁぁ」
最後の抵抗すら踏みにじられ、目の前には壊れたように笑う自分、その自分の手が自分の腹部に沈んでいく……助けてくれる人は居ない、誰よりも一番少女は分かっていた。それでも心が空っぽに成るくらい必死に叫んだ。
誰にも聴こえないと解っているからこそ、気がついて欲しかった。
一番近くに、居て欲しかった人に届くように、そして少女の意識は途切れ、倒れた。
そしてもう一人の少女は倒れた少女に顔を近づけキスをして、少女の体に沈んでいった。
一章 狂気
太陽の赤い光が影を長く伸ばし、町の色を染めていく放課後の教室は静かで夕焼けの赤は心をざわめかせる。
「ねぇ、聞いた?」
やや小柄のポニーテールの少女は隣で課題をやっている少年に言った。
それを少年はうざったそうに眼を吊り上げ、机に上に座っている少女と目を合わせる。
「何を? どうでも良いけど退いてくれないか、恋華」
恋華と呼ばれた少女、木戸恋華はつまらなそうに、机から降りて少年の顔を覗き込む。
「そんな顔しないで聞いてよ。啓斗」
志野啓斗は恋華の方を視ようともしないで課題に励む。
別に課題が好きという訳ではなく、単に恋華の話を聞く気が啓斗にはない。
とは言え、このまま視られているのは気になって仕方ないので渋々、啓斗は頷く。
それを待っていたと言わんばかりに、恋華は嬉しそうに話すが、そのわりに話す内容は面白ない。
裕子と言う恋華の昔からの友人の話なのだが、啓斗は裕子とは会ったことがあるものの、話すことは滅多に無く話されている内容自体も裕子の夢の話なので、啓斗は興味を持つことが出来なかった。
「それを俺に話してどうしたいんだ?」
「え? えっと、怖くなかった?」
啓斗は首を傾げ何処が怖かったのか、さっぱり解らないと言いたそうな表情を恋華に向ける。
「だって鏡の中から自分が出てきて、自分の中に入ってくるんだよ」
啓斗の反応に観て、恋華は自分が怖いと思う部分を説明する。
「で? その後は何か起こるんだ?」
必死で恋華は自分が怖いと思った部分を説明したが、啓斗には全くと言って良いほど何処が怖いのかさっぱり解っていない。
「でって、怖くないの?」
「それで死ぬとか怪我をするわけじゃないなら、問題ないだろ?」
死ぬとか怪我をしてなければ大丈夫と言う、啓斗の考え方に恋華は唖然としたが何よりも怖さが全く伝わってないことに愕然とし、言葉を失った。
「その後、何も無いなら交通事故のほうが怖いね」
啓斗の止めとも言える言葉に、恋華は反論する気力を奪われてしまい、恋華は突っ立っているしかなかった。
それを尻目に啓斗は課題を終わらせ、気持良さそうに背伸びをする。
「うんじゃ〜出してくるから待ってろよ」
そうして教室に一人、惚けたように立ち尽くす恋華が取り残された。
一人職員室に向かう中、啓斗は考えていた。
あの話の何処が怖かったのか、真剣に考えるが結局、解らず後で恋華に聴くことにした。
太陽が西に傾き、世界が赤みを帯びだし、影が伸び始める夕方の道を一人、裕子は歩いていた。
裕子は寂しそうに帰路を一人歩く。ちょっと前までは二人で歩いた道……昔は一人で帰ることが普通で、一人で帰ることに裕子は成れている筈だった。
それなのに、裕子は何かを無くしてしまったような喪失感を感じ、横を歩いていた恋華のことを思い出す。
ちょっと前まで隣を歩いていた彼女は最近、啓斗という好きな人が出来て一緒に帰ることが少なくなった。
恋華は中学からの付き合いで裕子にとっては唯一の友達だった。
中学時代、裕子は虐めを受けていた。別にたいそうな理由があった訳じゃなく、ただたんに内気な裕子がクラスという中の輪に入ることが出来なくて、誰とも口を聞かず一人で居たからだった。
虐めの理由なんて本当に些細で、相手のことが良く分からない、不安、だから怖い、そういう部分からアイツは自分たちとは違う、別の生き物だという認識が生まれ虐めが起こるのだろう。
たとえ、それが一人の中で生まれた認識だとしても、他の人が相手のことを知らなければ第一印象として認識が広がっていき集団的な虐めになる。
虐められる本人が誰とも話さないので、周りがそれを真に受けてしまうのもしかたない。
そうして裕子も意味も無く虐められ、心を閉ざしていく。
そんな時に裕子は恋華と出会った。転校生としてやってきた恋華はたまたま裕子の隣の席になって最初はただ挨拶をするだけの仲だった。
恋華は最初こそクラスから浮いていたものの、一週間もすれば恋華のそばにはいつも友人が居て、それを見るたびに裕子は羨ましさと嫉妬を感じた。
挨拶するだけの日々が一ヶ月くらいに成って、初めて恋華は裕子に話しかけてきた。
それは数学の授業中の他愛も無い疑問から始まった。
「ねぇ、此処のとこ分かる?」
そう聞かれて裕子は戸惑った。分からないわけじゃない、ただ自分がそんな質問をされるとは裕子は夢にも思ってはいなかったからだ。
ほんの数秒の間の跡に裕子は恋華に出来るだけ解りやすく教えた。
「へぇ〜、凄いね」
思わず恋華は感嘆の声を挙げ、裕子は照れ笑いをする。
「それじゃ〜これは?」
何問か恋華が聞いて裕子はそれに全て答える。それだけの会話が何時の間にからテレビの話になり、趣味の話になっていて何時の間にか裕子と恋華は友達に成っていた。
それから、何時も恋華と一緒に行動するようになった裕子は恋華の友達とも親しくなり、何時の間にか虐めも無くなっていた。
だから裕子は高校に入るときも恋華と同じ学校を選び、恋華の近くに居るためだけに勉強をした。
一人に成りたくなかったからそうしたのに、皮肉なことに今の裕子は一人に成っていた。
今でも恋華とは友達だし今日だって、つまらない裕子の夢の話を真剣に聞いてくれたし、一緒に悩んでもくれた。
ただ帰る時に 「啓斗と一緒に帰るから……」 という恋華の言葉が裕子には酷く寂しかった。
「はぁ〜それにしても、あの夢なんだったんだろう……」
どうしようもない思考から逃げるように、裕子は独り言を呟いて夢のことを考える。
本当は裕子にはアレが夢だったのか、現実だったのか解らなかった。
裕子が朝起きた時、確かに洗面台の前で倒れていたのだが、アレから体に何の異変もなく、鏡に映る自分にも変な様子は無かったため、夢だと決め付けたのだ。
ただ、鏡の中から出てきた自分が自分の体に入ってきたことを思い出すと裕子の体は振るえ、全身が総毛だった。
そんなことを考えている内に、学校から徒歩5分くらいの場所にある、古いマンションに着く。
そのマンションの一室が裕子の自宅で、部屋の中は日当たりのせいか、外よりも暗く昼夜を問わず蛍光灯の光を必要とし、女の子が一人で暮らすには寂しいと思えるほど何も無く暗い部屋だった。
裕子は寝室に荷物を置き、私服に着替えると夕食の準備を始めた。
30分もすると部屋には良い匂いが広がり、裕子は皿を引き出しから取り出す。
ガシャン カラカラ カラカラ
皿は割れた。裕子の手をすり抜けるように落ち、粉々に割れ、破片が飛び散ったが幸い裕子に怪我はなく、破片が回りに飛び散るだけで済んだが、裕子は自分のだらりと下がっている左手を見ながら呆然としていた。
「何で……」
静かな部屋で裕子の声は良く響いた。急に動かなくなった裕子の左手は手首から指先までが完全にだれ下がり、力を入れることが出来なかった。
それをまじまじと見詰め、右手で左手をつねる。しかし、つねったはずの手からは痛みどころか何の感触も伝わってこない。
そして左手の手首を右手で握った、裕子の顔は真っ青だった。
裕子は泣いていた。
左手が動かなくなった後、明日病院に行って診察して貰おうと思って寝た裕子だったが、もう10時も過ぎるというのに病院に行けないでいた。
ベッドのある寝室の隅で右手を壁に突き、左足で踏ん張るようにして歩いていた。
左腕は力なくだれ下がり、右足は左足に引きずられる。
少しバランスを崩し、足を止めるたびに頬を伝うようにして雫が落ち床を涙が濡らす。
ガタン
右足が急に力を失ったように崩れ落ちた。
「もう……いや」
裕子の悲痛な声は誰にも聴こえない。
「誰か、助けてよ……れんか」
朝の光はこんなにも明るいのに……その光は冷たいコンクリート阻まれ裕子に届くことは無かった。
学校に何時もどおりの時間で来た、啓斗は先生が来るまで暇なので文庫本を読んでいた。
ただ、少し気になったのは教室の何人かの生徒が骨折をしたように手に包帯など巻いていた。
「啓斗、ちょっと来て!」
朝の伸びやかな教室の空気を震わせ恋華の声が響くが、それに対して啓斗が恋華をなだめる様に呑気に返事をする。
「朝っぱらから、そんな声を張り上げなくても聴こえるよ」
しかし恋華は相当、焦っている様子で問答無用で啓斗の腕を掴んで教室から引っ張り出した。
「おい、なんだよ。引っ張るなって」
戸惑い気味に言う、啓斗の言葉は恋華には聴こえないようで、仕方なく啓斗は引っ張られる。
しばらく啓斗は廊下を恋華に引っ張られながら歩き、やがて体育館に続く階段で恋華はやっと手を離した。
朝のこの時間は体育館に続く階段を使う人は滅多にいないので、静かで少し寂しい場所だった。
「どうしたんだよ? 急に……何かあったのか?」
やや不機嫌気味に言った啓斗だったが恋華が今にも泣きそうな顔しているのに気づき罰の悪そうな顔になった。
「裕子が……裕子が学校に来てないの」
今にも泣き出しそうな声で啓斗に恋華は訴えたが、啓斗は訝しげな表情をした。誰かが学校に来ないなんてことは良くあることなのに、何故これほど恋華が焦っているのか啓斗には全く分からなかった。
「学校に来てないって、病気とかで休んでるんじゃないの?」
「え?」
恋華は今まで何かあったと思い込んでいたようで間抜けな声をあげた。
「そんなことで、何で慌ててるんだ?」
ようやく恋華は自分の早とちりに気がついたのか顔を赤らめる。
それを啓斗は素直に可愛いと思った。
「でもね……裕子が昨日の夜、電話で左手が急に動かなくなったって言ってたし、それに裕子のクラスの人達がね。裕子のいった話と同じことに会ってるって言うんだよ。それも一人や二人じゃなくて10人くらいが同じこと言って……」
「冗談じゃないのか? それに心配なら放課後、お見舞いにでも行ったらどうだ?」
後半から恋華の言っていることが突拍子もなさ過ぎたので、恋華が最後まで言う前に啓斗は自分の声で遮った。
恋華は裕子の左手が夢の話のせいだと本気で思っていたらしく考え込んだ。
それから数分が過ぎてようやく考えがまとまったのか、恋華は口を開いた。
「えっと、お見舞い、今日行くから付き合ってくれない?」
一瞬、恋華の頼みを断ろうと思った啓斗だったが、昨日待っていてくれたことと、今の状態の恋華を放っておくのもどうかと思い承諾した。
それで何とか恋華を落ち着かせることに成功した啓斗は教室に戻った。
やっとのことで学校の授業も終わり、恋華との約束どおりに啓斗は恋華と付き添いで裕子の自宅の前にいた。
先ほどから恋華がインターフォンを押しているのだが、部屋からは何の返答もなく沈黙を保っていて、居ないという結論をいい加減、恋華に言って諦めさせようと啓斗は思い始めていた。
「ねぇ啓斗、何か聴こえない?」
恋華の言葉に啓斗は耳を済ませる。
なんで、何で動かないの……痛くないの?
弱々しい声、それは泣き声にも聴こえ、それと同時に異質な喜びの声にも聴こえた。
啓斗と恋華は自分達の顔を見合わせ、自分の聞き間違いじゃないということを確認すると次の瞬間には叫んでいた。
「居るんだろ! 開けてくれ!」
中に居る裕子には聴こえているはずなのに返答がないことで、二人の不安は大きくなる。
何よりも啓斗には“痛くないの?”と言う言葉が気に成っていた。
何時までも反応がないので仕方なく啓斗はドアを破ろうとしてドアに体当たりをする。
ガンガンガン
しかしドアはビクともせず、代わりに啓斗の肩に痛みが走る。
「くそ!」
悪態を付いたところでドアが開くわけもなく、体当たりを繰り返す。
「こら!なにしてんだ!」
急に横から怒鳴られ、啓斗と恋華は飛び跳ねるほど驚いたが、怒鳴った男の姿を見て喜びに変わった。
それはここに来るときにチラリと観た管理人の姿だった。
「すいません!中の様子がおかしいんです。開けてもらえませんか!」
即座に啓斗が必死に頼み込むと必死さが伝わったのか、管理人さんが慌ててドアを開けると啓斗は中に飛び込み、耳を澄まして声のする方に一直線に走り出した。
声のする方にあるドアは曇りガラスが付いたドアだったが、その曇りガラスには黒い点が飛び散っていた。
嫌な予感と共に啓斗はドアを開け放った……
「ぐぅ!」
思わず息を呑んだ。
フローリングには赤黒い液体で水溜りが出来ていて、歩けばピチャピチャと音が立った。
その赤黒い液体が流れてくる先に裕子は居た。
裕子は部屋の端で座り込んでいて、頭だけ動かし啓斗を見る。
「こんにちは、私こんなに成っても痛くないんだよ」
そう言って裕子は自分の太腿の部分に指を差す。
そこには歪な物が立っていた。
“黒い柄”が立っていた……
その柄を裕子は握り、そして“ソレ”を引き抜いた。
ッバ
引き抜かれた場所から鮮血が飛び散り、啓斗の視界を一瞬、赤に染め上げ落ちる。
「綺麗でしょ? 血、ふふふ」
裕子は笑う。最初は苦笑するように小さく笑い、段々と大きくなり、最後に耳を劈くような声に成っていった。
啓斗と管理人は信じられない光景に呆然とし、まるで時間が止まってしまったかの様に二人は動けなかった。
ドサ
何かが倒れた。
啓斗は視界の端に倒れた何かを見て、動き出す。
「恋華! おっさん救急車!」
管理人も啓斗の叫びで正気に戻り、ポケットから携帯を取り出して119を押した。
部屋には“恋華”と叫ぶ啓斗の声と壊れたように笑う裕子の声が響き渡る。
そして引き抜かれたナイフに写る裕子の顔は笑っていた。
2章 虚像
真っ白な部屋に啓斗は居た。
全てが白で統一された部屋の白いベッドの上に恋華は眠っている。
あれからスグに救急車が来て裕子と恋華は連れていかれた。
その運ばれる最中ですら、裕子は狂ったように笑い続け、周りには何時の間にか人が集まっていて、ある者は戸惑い、ある者は冷めた視線を向ける。
その中には同じ学校の生徒が混じっていて何人かは表情が青ざめ、逃げるように走り去って行った。
おそらくは、彼らは鏡の虚像の噂を知っていて哀れにも自分に会ってしまった生徒だろうと思った。
病院に着いてしばらくして、裕子が死んだことを医者から聞かされた。
出血多量だったらしい、ただ死ぬまで彼女は笑い続けたという、恋華の方は失神しただけで体に異常はなかったが、念のために病院で一日様子を見ることに成った。
「う、うぅぅ〜ん」
恋華はゆっくりと目を開きベッドから上半身を起こして、周りを見渡すと啓斗と目が合った。
「此処何処? なんで私こんなとこに居るの?」
「病院だ」
恋華の間抜けな質問に対して、場所だけを啓斗が答えると、一瞬、恋華は戸惑った表情をしたが、すぐに表情から血の気が抜けていった。
「裕子は? 裕子はどうしたの?」
聞かれるのは分かっていたはずなのに啓斗はなかなか、答えることが出来ずに目を逸らす。
だがそんな啓斗の態度は恋華の不安を煽り、感情を高ぶらせた。
「何で何も言わないの? 裕子はどうしたの!」
恋華は啓斗の肩を強く掴んで、啓斗を自分の方に向かせる。
掴まれた肩に恋華の爪が食い込み、その痛みが感情を伝わらせる。
「死んだよ」
短く、それだけ言って啓斗は唇を噛締める。掴まれた肩から一瞬だけ力が抜け、そして今度はさっき以上の力が加わる。
「何で? 何で何で何で!」
恋華の悲鳴のような声は部屋中に響いた。
「出血多量だってさ」
啓斗は何かを吐き捨てるように言った。だがその言葉は恋華にとって裕子の生死を判断するには十分な言葉だった。
あの裕子の部屋でみた血の水溜りは、出血多量という言葉を納得させるだけの力があり、そして望みを断ち切ることすら容易いほどに凄惨なものだった。
そして恋華は言葉を失ったように口を閉ざし、肩を握り締める力も無くなり、啓斗に体を預ける。
最初、啓斗は戸惑い、どうしていいか分からずに慌てたが、恋華の嗚咽が聞こえてきて、初めて自分には慰めの言葉一ついえないことを知った。
今の恋華を慰めるだけの言葉を言えるのは裕子のことを知っている人物だけだし、無理に他の人が言ったところで傷つけるか、気休めにしかならない。
ただ、たまたまかもしれない、今だけかもしれないけど恋華が自分を頼ってくれていることだけは分かった。
だから頼られているのは今この瞬間だけかもしれないけど、それでもそばに居てやりたいと思って啓斗は恋華を強く抱きしめた。
ひとしきり泣いた後、恋華は啓斗から離れた。
「もう、大丈夫だから」
恋華は少し頬を赤らめて恥ずかしそうにして顔を伏せる。
その仕草が何か恥ずかしくて啓斗は苦笑した。
「それじゃ〜俺はもう帰るから、それと何かあったら……いや、なんでもない」
啓斗は最後まで言えなかったが恋華には伝わったらしく嬉しそうに笑った。
「うん、ありがとう、またね」
そうして啓斗は恋華の病室を出た。
深夜、物音一つない静かな病室に月明かりが差し込み、優しく病室を照らす。
その病室の中で恋華は、なかなか眠りにつけずにベッドの中で天井を見つめた。
「考えても仕方ないよね……」
そう言って上半身だけ起こし窓の外を気分転換のつもりで窓の外を眺める。ふと、何かを思い出して恋華はベッドの横に置いてある、バッグの中から本を取り出した。
それは此処最近、裕子から借りた本で、未だに1ページも読んでいなかった。
寝付けないという理由もあったが、後になれば読めないと思ったし、それに少しでも裕子の気持ちが知りたかったから、今読んでおきたいと想い恋華は本を開いた。
最初に開かれたページには何も書かれていなかった。いや、一枚の白い半分に折られた紙が挟まっていて、文字が下敷きにされていた。
裕子はその白い紙を恋華は掴んで中を開く。
鏡のおまじない
大きな、大きな鏡、周りを模様で飾られた綺麗な鏡それは西洋の鏡、とても透明な鏡で引き付けられるような感じのする鏡です。
その鏡に映った自分に口づけをしよう、そうすれば鏡は貴方の願いを叶えてくれる。
だけど鏡の力はそれほど強くないから叶えられない願いもある。
そのときは叶えられる範囲で貴方の願いを叶えてくれます。
多少、違うかもしれないけれど、きっと叶えてくれます。
願い
恋華ともう少しだけ一緒に居たいです。
遊びたいです。
一緒に帰りたいです。
出来れば子供のころに戻れたら嬉しいです。
白い紙には裕子の文字で書いてあった。
恋華の目からは何時の間にか雫が零れ、それが月明かりに照らされて、光っては落ちて染みを作った。
恋華は俯いた。
「裕子……」
もう話すことも、出会うことも無い、友人の名を小さく……でもハッキリと呼んだ。
そして、その言葉は闇に溶けるように消えた。
コツ コツ
何か硬いもの同士が当たる音がドアの方からではなく窓の方、つまり外から聞こえてきて、恋華は顔を上げ窓を見る。
それは立っていた。
窓が映す病室に立っていた。
「ゆうこ?」
裕子は窓を挟んだ向こう側で懐かしむように恋華を見て微笑む。
それは壊れてしまう前の裕子の姿だった。
その裕子に呼ばれた気がして恋華は窓の前に向かっていく。
もう会えないと思っていた少女に触れるために……
裕子は窓に手をつけていて、その手に合わせるように恋華も窓に手をつけ、目からは止まっていた涙がまた流れだした。
「ごめんね。何にも出来なくて、助けられなくて……ごめんね、ごめんね」
何度も何度も恋華は言う。
ただ言い続ける。
俯いて床を見て、床に涙が落ちて、染込む。
それは止まることはない。
仕方ないよ……だから泣かないで笑って、そして私と一緒に居て……
その声は恋華にだけ響いた……
翌日、啓斗は異様な風景を観ることに成った。
学校に来る途中、登校する生徒が異様に少なく、そして登校する生徒には骨折でもしたかの様に、松葉杖を付いている者や腕を吊るしている者が多かった。
朝のニュースでも特にこれといった事件も無いのに怪我人だと思える生徒が多い。
この異常な光景に啓斗はかなり気味悪がっていた。
そして教室に入り、生徒の大半がホームルームも始まるというのに、席が半分くらい空いていて、来ている連中も大半が骨折したような状態でいることに違和感を感じ、少し聞き耳を立ててみると近くの会話が聞こえ、その話に啓斗の顔は青ざめた。
来ている誰もが鏡の自分についての話をしていた。
それは恋華から聞いた裕子の夢の話と全く同じで、そして昨日裕子の部屋に入る前に裕子の言ったセリフを思い出して啓斗は硬直した。
“何で……なんで動かないの”
思い出した言葉が何度も啓斗の頭で鳴り響き、体を振るわせる。
何時の間にか授業は始まり、だんだんと遅刻して来た生徒が増えていく。
しかし全ての人間が病院に行って検査をしてきたらしい……
そして誰もが体の何処かが動かなくなったという理由で行っていた。
もう、その時点で啓斗は何も考えることが出来なくなっていた。
だからだろう、啓斗は昼休みに担任に言われるまで恋華が学校に来ていないことに気が付かなかった。
正確には昨日の夜の間に病院から居なくなってしまったことを教えられ、親も捜しているが未だに、足取りすら掴めないでいた。
それを聞いて啓斗は学校を飛び出し、町中を走った。
最初は恋華の家に行って次は病院に向かい、それでも見つからないから知らない人にも声を掛けて恋華のことを聞いて探す。
それでも恋華を見つけることは出来ず時間だけが過ぎていった。
どれくらいの時間が経ったかなんて解らない。
ただ何時の間にか太陽の光は赤く血のように赤く、町を赤く染めていた。
何処いっちまったんだよ……くそ
何度も胸の中で悪態を吐く。
そして拳を壁に殴りつけた。
啓斗の拳は皮がむけて血が滲んでいた。
三章 鏡
結局、なんの手がかりも見つけられずに夜の道を、啓斗は歩く。
そうして、いつの間にか学校の前に立っていた。
夜の学校は静まり明りは何もなく、誰かが居るわけがない。
それでも少しでも可能性が在るならと思い、啓斗は門を乗り越えて歩き出した。
夜の風は冷たくて痛めた拳がズキズキする。
学校の中は外よりも暗くて非常階段の緑色の光だけがやけに明るかった。
廊下を歩き階段を登り、自分の教室に入り窓を見詰めた。
月光が明る過ぎるくらいに教室を照らし、窓は鏡のように教室を映し、そこに自分が映し出される。
そして、ゆっくりと動きだし、啓斗の虚像は優しく笑って啓斗の後ろを指差した。
反射的に啓斗は振り向いて、廊下の窓を見ると啓斗の虚像が出来ていて、それがまた廊下の奥を指差した。
もう一度、振り返っていると教室の窓にはもう虚像は無く、暗闇だけが残る。
「まさか自分に学校を案内されるとは思わなかったな」
そう言って啓斗は苦笑すると虚像は笑ってもう一度、廊下の奥を指差す。
その方向へと啓斗は走る。何人かの自分の虚像が指差した方向に走り、廊下の突き当たりのドアを開ける。
中の暗がりに一枚の鏡が有った。それは大きくてヨーロッパ中世のものを思わせる装飾をされた鏡で、それがまた啓斗の虚像を映しだす。
それが鏡の中、奥の方へと歩いていく。
ある程度、歩いてから虚像は振り返り手招きをした。
啓斗は恐る恐る鏡に手を伸ばし、指先が鏡に触れ、鏡の表面に波紋が発った。
「な!」
冷たさに驚き、啓斗は手を引っ込める。
水を張っている様に表面は冷たく、それでいて引き込まれるような感覚を啓斗に与えた。
虚像は奥に歩いて行き見えなくなった。
「……」
追うしかないよな……
決心というよりは開き直った感じで啓斗は鏡に手を突っ込む。
鏡を突き抜けた手が鏡の中の冷たさを伝えるが、啓斗はそれを振り払うように一気に鏡の中に突っ込んだ。
入った瞬間、体の熱が吸い取られるような異様な感触に、啓斗の体は震える。
全身の毛は総毛立ち此処が異様な場所だと本能が警鐘を鳴らす。
鏡の中は何もなくて、現実と同じような学校なのに……匂い、風、音もない。それは孤独な世界、一人だけなら狂ってしまうような世界、自分以外、誰も居ないと思わせる。
まるで死んだように静かな世界だった。
窓の外はただただ暗く、何も見えず映すのは反射した廊下だけだった。
微かな声が聞こえる。
聞き取ることさえ出来ないような小さな声、それに誘われるように啓斗は虚像の学校を走り出した。
その小さな声は段々と大きくなり、歌として聴こえるようになった。
懐かしい歌、聞き覚えのある声、それに向かって啓斗は走り出す。
階段を登ると一箇所だけ明りのついた教室があって、その教室のドアを啓斗は開ける。
教室の端の方に恋華がいた。
ドアが開いたのに驚いて歌うのを止めて恋華は啓斗を見た。
恋華の膝には女の子が寝ていて、その子の頭を恋華は撫でる。
「そっか、来ちゃったんだね」
懐かしそうに言った。
「帰ろう、恋華……」
この目的のために此処まで啓斗は来たはずなのに、恋華の言葉に戸惑いを感じて戸惑い、弱々しい声しか出ない。
そして恋華は首を横に振り、そして啓斗は何も言えなくなった。
一瞬で何時間も経ったような沈黙が流れ、冷たい静けさだけが教室に漂う。
「何で……?」
やっと啓斗の口から出た声は震え、教室の寒気が増したように感じる。
「私はもう帰れないよ……ここに長く居過ぎちゃった」
「だからどうしてだよ!」
そんな言葉が啓斗の頭を過ぎったが、物憂げな恋華に啓斗は何も言えない。
「ねぇ啓斗、聞いてくれる?」
「……」
何も言わない啓斗に言い聞かせる様に話しだす。
昔話をする母親のように恋華はゆっくりと……
「此処には裕子が居るの……分かってほしいなんて言わないけど、今は裕子のそば居てあげたいの」
そう言って眠っている少女に目を向けた。
「裕子はね、鏡のおまじないをしたの、望みを叶えてくれるっていう、ありきたりなおまじないをした。
でもね、それは本当に力を持ったおまじないだったの。裕子は子供のころに戻りたいって願ったのだけど、鏡には周りを子供のころの状態に戻せるだけの力は無かったから、裕子だけ子供に戻ってしまった。
本当は私と一緒に居たいって願いが有ったのに、裕子は私が啓斗のこと好きなことを知ってて、我慢して願わなかったみたいだけど……」
啓斗は息を呑んだ。裕子が子供に戻ってしまったと言われて裕子の膝で眠いっている少女を見て言葉を失った。
確かに少女には裕子の面影が残っていてそう思わせたし、恋華が自分のことを好きだったことに驚き唖然とする。
「だから私は裕子の側に居てあげたいの、それに鏡の世界に私は居すぎてしまったから外に出られないよ」
本当に寂しそうに恋華は言った。
恋華の膝で眠っていた裕子がゆっくりと起きて、話し出した。
最初から起きていたのか、啓斗が居ることに驚くことも無く恋華の話を制定した。
「私は確かに恋華と一緒に居たいと鏡には願わなかった。
でもね、鏡には誰かが一つの願いをおまじないにした時点で、ある範囲の願いを片っ端から叶えてしまうように出来ていたの、そして私の願わなかった想いにも反応して恋華を連れてきてしまった」
今の話で裕子の願いが発端となり、学校に通うもの全ての人が、鏡に願いごとをしようがしまいが、鏡がその人の願いを叶えようとした事は啓斗にも理解出来たが、どうしても納得が出来ない部分が在った。
「でも……鏡は俺達の願いを叶えようとしたんだろ? だったら鏡の中の自分に襲われるって、話はどうしてだ。
それに体が動かなくなったのは?」
少しだけ裕子は考え、そして何かを決心したように話し始めた。
「アレは自分自身なんです。
取り繕ってすらいない本当の自分です。
自分自身を変えたいと望んだ人は本当の自分と対峙し、そして一つになり、体は動かなくなり、変わっていくんです……」
そう言っている裕子は震え今にも泣きそうだった。
願いを叶えてくれるなんて言わなければ、人が想うのは自分の体のことが多いだろう。例えば身長がもう少し伸びないかなとか、頭良くならないかなということを漠然と思うだろう。
だからこそ、体が動かない人が学校内で多く出たのだ。
何時の間にか自分の手で自分を抱くような状態で、裕子は震える。
「あの時の私は貴方に嫉妬して、でも恋華に嫌われるのが怖くて何も言えなくて、どんどん一人に成って啓斗さんに嫉妬することで寂しさを押し殺して、それをまた恋華を傷つけたくない気持ちが押し殺して……
いい訳、だよね……結局、私は恋華を此処に連れて来てしまったから。
ごめんなさい、ごめんなさい……うぁぅ」
もう裕子の口からは嗚咽しか出てこなかった。
泣きじゃくる裕子を恋華は抱締める。
「謝らないで、それは私も望んだことだから、だから鏡は私と裕子を会えたのは確かに鏡の力だけど、私も望んだから会えたんだよ。
私は裕子に会いたかったんだよ。それを間違ってたなんて思わせないでよ」
恋華は優しく叱咤するように言うと裕子を抱きしめる。
それは子供をあやす、母親のように……
その中で裕子は泣きじゃくることしか出来なかった。
その二人に向かって啓斗は一歩踏み出した。
「連れてかないで、お願いだから連れてかないで……」
そうして強く裕子は恋華にしがみつく。
恋華は戸惑って二人を交互に見る。
ただ啓斗は手を伸ばす。
裕子は恋華に更に力を込めてしがみつく。
ゆっくりと伸ばされる、啓斗の手が裕子の頭に乗ると、恐る恐る裕子は顔を挙げて啓斗を見上げる。
「恋華、泣かせるなよ。それだけ約束しろ」
最初キョトンとして啓斗を見ていた裕子だったが、しばらくすると強く頷いた。
満足そうに啓斗は微笑んで裕子の頭から手を退けて恋華に目を向ける。
「恋華、待ってるから……帰って来いよ」
そう言われて恋華は一瞬、何かを言おうとして飲み込んだ。
「うん……でも私からも、お願い、此処を出たらあの鏡を壊して欲しいの、出来るよね?」
「壊すってお前……」
反射的に言った啓斗の言葉を遮るように恋華は口を開いて黙らせる。
「私に無茶なこと言ってるんだから、無理なんて言わせないからね」
啓斗は苦笑した。
それに釣られるように恋華は笑った。
ただ裕子だけ、キョトンとして二人を見ていた。
ひとしきり二人が笑い終えると教室に静けさが戻った。
「そろそろ戻らないと駄目だよ……」
寂しそうな恋華の声が教室に響く。
「みたいだな。指先の感覚がなくなってきた」
少し恋華が呆けるような表情をみせて苦笑する。
「ごめん、それ私の本心だから、速く行ったほうが良いよ」
笑っているような、泣いているような、そんな恋華の微妙な表情が痛々しく感じる。
「じゃ〜お礼言わないとな、その本心が無かったら俺は此処には来れなかったんだろうからな、待っててやるから絶対戻って来いよな」
それに黙って恋華に頷き、啓斗は背を向けて歩き出した。
慌てて裕子は立ち上がり、啓斗の服の裾を握って引っ張る。
「あの……ありがとう」
振り向いた啓斗と目が合って裕子は俯く。
「勘違いするなよ。残念ながら恋華って奴は俺の所有物には成らないんだよ。
誰のものにもな……だからアイツが決めたことに、賛成してやるくらいしか俺には出来ないだけだ」
裕子の手を啓斗は振りほどいて歩き出した。
「じゃあな」
吐き捨てるように啓斗は別れを告げ、裕子は黙って小さくお辞儀をした。
「うん、またね」
恋華の言葉に啓斗は立ち止まって、振り向く。
「あぁ、またな」
それだけ言うと教室から啓斗は出て行った。
啓斗が出て行った教室のドアをしばらく二人は見つめる。
「ねぇ、あの人を見送らなくて良かったの?」
わずかな沈黙の後、恋華は答えた。
「今は……今だけは邪魔になってしまうから」
裕子と恋華の二人だけになった床に雫が落ちた。
四章 帰還
教室を出ると啓斗は全力で走り出す。
最初は指先だけ動かなかったのだが、気がつくと左腕一本動かせなくなり、そして、今は右足の指先から感触が無くなってきていた。
それでも鏡までの距離がそれほど有るわけではない、学校内なのだから時間が掛かるはずが無い。
それなのに、何時まで経っても鏡の有った部屋にたどり着けない。それどころか階段が見当たらず、同じ階を啓斗は走り続けていた。
くそ、どうなってんだよ。
とっくに息は切れ、心音は高速で動き続け、体は燃えるように熱く、汗が止まることはない。そして世界の冷たい空気は容赦なく啓斗の体温を奪っていく。
ズル、ガン
急に右足の踝から力が抜け、足先が地面に引っかかり啓斗は前のめりに転がった。
「ってぇ〜」
廊下に叩き付けた手の平は赤くなり、痺れる。
倒れた状態から右手を床に付き、左足に力を入れ立ち上がろうとする。
ガン
そこで今度は左足の指先の方から力が抜け、踏ん張れずに崩れた。
仕方なく啓斗は右手を前に伸ばし、床を手前に寄せるようにして何とか前進する。
「そんなにしがみ付くなよ。帰りたくなくなるだろうが」
それも数回、右手を伸ばしただけで右手の感覚は無くなり、そして何の音も無くなり、啓斗の全身の感覚は無くなった。
くそ! 動けよ……俺まで此処に残るわけにはいかないんだよ!
もう口にすら動かすことが出来ず、叫ぶ言葉は誰にも届かない、視界は暗い廊下の奥を見せるだけで他には何も映さない。
こんなところで、止まるわけには行かないんだよ……帰らないといけないんだよ。
頼むから動いてくれよ!!!
声に成らない声は誰にも届くことなく、ただ虚しく永久に消える。
何も出来なく成った啓斗はただ廊下の奥を見詰めていた。
え?
視界が動いた。体が動くように成った訳じゃない、何かが啓斗の体を持ち上げたのだ。
視界は窓の方を向き、そしてそれに向かって啓斗は放り込まれる。
「いってぇ〜!」
体は床に叩きつけられ全身に痛みが走り、その痛みで勢いよく目が開き、その場所に呆気に取られた。
暗い部屋だった。そして、そこはあの鏡のある場所だった。
スグに痛みを無視して、体を捻って後ろを向いて鏡を見る。
そこには自分が居た奥のほうに歩きながら手を挙げて振っていた。
「この、おんぼろ鏡が」
啓斗の皮肉の声だけが部屋に響いて消えた。
エピローグ
あの後、俺は後になれば成るほど出来なくなると思ったから、スグ力任せに自分の拳で鏡を叩き割った。
派手に割ったために、スグに先生が来て取り押さえられて停学処分を戴いた。
どうやら鏡の中で俺は一夜を過ごしていたらしい。
そのせいで停学処分になったとも言えるのだが実の所は学校に来る気が無くなっていた俺には丁度良かった。
しばらくの停学と言う名の休みが終わり、学校に行った時には流石に驚いた。
あれだけ異常だったのが嘘のように、あの事件が起こる前の学校になっていたからだ。
しかし、そこにはやっぱり恋華の姿は無く、俺にとっては意味の無い場所に成っていた。
そこから進級するのは辛かったが、何とか進級して一年が過ぎ、それから少しして俺は卒業式を迎えた。
何だかんだで、一応は進路も近くの大学に決まり、あれから問題も起こさずに迎えた卒業式は結局、俺にとっては何かが足りなかった。
卒業式が終わり、俺は2年のころの教室に居た。
あのころの自分の教室には誰も居なかった。
ただただ静かで時間がゆっくりと進んでいく。
たまに教師が通っては興味深そうに俺を見るが、何も言わずに通り過ぎる。
そうして、ゆっくりと時間が過ぎた。
日は傾いて赤みを帯びた光が教室に入ってくる。
その光で影が長く伸びる。
何時の間にか窓から影が伸び、その影の先を追って俺の目は動いた。
それと共に俺の足は影の先に歩を進めた。
影の先には人が居た。
あの時に別れた少女がいた。
窓に映った恋華は、両手を窓に付けて懐かしそうに見ていた。
俺は手を伸ばす恋華にただ触れたくて……
もう少しで触れられるのに指先には硬く冷たい窓が当たる。
悲しそうに恋華が笑って、それを俺は見詰めた。
俺達はガラス越しに手を合わせ、目を閉じてガラス越しにキスをした。
冷たくて硬い無機質な感触だけが伝わった。
それでも少しの間、窓から離れられなかった。
恋華に触れたくて、会いたくて、ただただそれを望んで……
ようやく自分の中で諦めがついて……俺は窓から離れようとした。
その瞬間、俺の体が前からの何かの重みで押し倒された。
そうして目を開けると恋華が居た。
嬉しそうに笑っていた。
「また、あえたね」
「あぁ、あえたな」
そう言って俺は恋華を抱締めた。
もう何処かに行ってしまわない様に強く。
「好きだよ。啓斗」
「俺もだ」
そして俺達はキスをした。
おわり