表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「その人痴漢です!」

作者: よしめい

「その人痴漢です!」


昔からそう言われていた。愚直で正義感のかたまりの様なやつだと。

実際に学生時代のラグビー部では部長に推された。部員のみんなも信頼してくれ、

チームも全国大会まで勝ち上がれたのは後にも先にも自分が部長の時だけた。


ただそんな性格は女の子には受けが悪いらしい。

当時一年間ずっと好きでいた子に告白するも見ごとにふられた。

その後、その女の子が男と2人で歩いてたのを偶然見かけたのだが、

その男はどこをどうみてもカタギではなかった。

どうも女の子はそういう「悪い匂い」に憧れる時期があるらしい。


それでも、そんな不器用な自分の性格を変えようと思った事はなく、

むしろ誇らしさもあったほどだ。

しかし今の会社に入ってからはどうだ。

社会では正義感なんかあったところで疎ましく思われる事こそあれ、役に立つ事などなにもない。


今日の営業会議で納入先へのディベートは顧客の購入価格に跳ね返ってくるのだから、

独自の販路を開拓すべきという企画書を3ヶ月かけてつくり、プレゼンしたが上層部に一蹴された。

あとで聞いた話、どうやら納入先は役員の親族企業で、

ディベートはその会社ではなく親族に直接に渡っているらしい。

部長に三ヶ月何をやってたんだ。来週の会議までにはまともな企画を出せ。と言われた。

焼き直しの企画でまとめるか、逆に画期的なものを… いや無駄だ。

今日の会議の流れだと、役員のご機嫌とりの議題が並ぶのは目にみえてる。

次はそのひとつに埋もれておこう。そのほうが自分の為であり、

いま家で帰りをまっている妻、そしてそのお腹の中にいる子供の為だ。


そんな事を考えながら人で溢れかえる週末の下り電車のホームを歩いていた。

同じホームに入ってきた反対側の上り電車が正確にスピードを落としながら止まった。

鉄の扉が開くと、乗客達が堰を切った水のごとく、さらにホームを埋め尽くした。

ただ、その動きは川の氾濫と言うよりは計画された用水路を流れる水の様だった。


その時、後ろのほうからその声は聞こえた。


「その人痴漢です!」


釣り糸で後頭部を引っ張られるような甲高い声につられてとっさに振り向くと、

1人の男がダッシュでこちらに向かってくる。

白いポロシャツに茶の肩かけカバンを斜めに掛けた男だ。40代くらいか。

さらに1両ほどうしろに目をやると、ベージュのワンピースを着ている20代くらいの女性が、

甲高い声で周りにいる人になにかを訴えている。先ほどの声の主だ。


ほとんど反射的に体が動いていた。

ポロシャツの男が横を通り過ぎるのと同時に腹部にタックルした。

しかしそれはタックルと呼べるようなものではなく、

はたからみたら腹部に腕を回した程度に見えていたかもしれない。

力の入らない体制だったので、ポロシャツの男が倒れる事はなかったが、

不意をつかれて前かがみよろけた。

こちらの腕も片方抜けてしまい体制を崩したが片方の手はカバンのベルトをつかんだ。

それでもなお力強く前進して行こうとする男のカバンのベルトを力いっぱいに引っ張った。

男は膝の曲がった状態で引き起こされると今度は背中側からこちらに倒れてきた。

倒れざまにスーツの肩付近をつかまれた。

男の顔が肩越しに来た時、息切れ気味に「なんで俺がつかまらなきゃならないんだよ…」

と1人ごとなのか呟いたのが聞こえた。

自分だけは何をやっても捕まらないと思ってるのか、

怒りに任せて男を力いっぱい引き倒そうとした。


すると突然男がフッと目の前から消えた。

と同時に自分がホームのへりに立っている事に気がついた。

手には茶色いカバンのベルトが握られていた。


一瞬の間のあと、強い閃光が左の頬を照らした。

まぶしさに目をやるとふたつの光が近づいてくるのがわかった。

と同時にけたたましい機械音と女の叫び声が混ざり合って耳の奥深くに響いた。


下りのホームに入ってきた鉄の箱は目の前を通り過ぎ、いつもと違う見慣れない位置で止まった。


その時すでに用水路の流れは滞っており、自分を中心に波紋の様な輪が出来ていた。

皆の視線がこちらを向いている。その波紋をゆっくりと見回してはじめて事態が飲み込めた。


・・・いや、違う、わざとじゃない、抵抗する男を捕らえようとしていただけだ。

これだけの人が見ていたんだ。みんな証人だ。何より被害者がいるんだ、そうだ、被害者がいる!

そう思い、人垣のなかを再び1両ほど後ろに目をやると、

先程より手前にベージュのワンピースの女性を見つけた。

大きな安堵感が体の中に湧き上がるのを感じた。


しかし良く見ると女性のまわりにも同じ様な波紋の輪ができていた。

女性はこちらを見ておらず、下を向いていた。

波紋の輪の人々もみな同じ足元見ていた。

その視線の先をたどると、グレーのスーツ姿の男がうつ伏せになり

数人の男性がその男をホームに抑え付けていた。


女性はその男を指差しながら走って近づいて来た制服姿の駅員に言った。


「この人痴漢です!」


思わず言葉とも息ともつかない周囲の雑音に消え入りそうな音が口から漏れていた


「なんで俺がつかまらなきゃならないんだよ…」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ