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冷蔵庫(連作)

冷蔵庫 2.秋樹

作者: 文絵

「コンビニ行くけど用ある?」


「あ、僕も」


 何気なく言うのに応えて一緒に部屋を出、マンションの入り口まで来たところで、


「別に二人になる口実じゃないよ?」


 河野さんは苦笑した。口実でなくても好機ではある。あとの三人の前ではしづらい話があった。


 僕と妹と仲間二人、都合四人は家出中――と言ってはいずれ終わるかのようだけれど、要するに住所不定の身だ。同じ施設に預けられていて、揃って脱走したのである。伴うつもりでいたのは本当は妹だけだったのだが、半分僕の、半分妹のせいで、決行時には倍に増えていた。


 逃げ出したところで行く当てもなく――あったらもっと早くに踏み切っていただろう。妹たちの手前弱音は吐けなかったものの、内心焦っていた頃に河野さんと出会った。裕福な家の一人娘だそうで、あたしにできるのはこれぐらいさね、などと言いながら、そのときは夕飯を奢ってくれた。


「家出してやろうかって考えたことはあるのよ、あたしも。結構真剣に」


 遠慮なくがっついている二人を頬杖をついて眺めながら、近くにいた僕と妹に何気なく話したのを覚えている。度胸がないから実行はしなかったと肩を竦め、実行に移した僕たちには敬意を覚えると冗談めかした。半ばは本気だったかもしれないと感じたのは、


「応援してもいいかしら?」


 そう首を傾げてみせる直前、心を決めるように一呼吸置いたからだ。叶えられなかった夢を託すような、と言っては大袈裟だけれど、そんな感覚だったのだろうか。


 いつでもおいでと教わった携帯電話の番号に、しばらく経ってかけてみた最初は、とうに気が変わっているかもしれないとも思っていた。が、河野さんは僕だとわかると、番号なくしたかと思ったじゃないの、とどこか嬉しそうな声になって――奢ってあげるわと呼ばれた店で二度目の対面を果たすなり、通帳とカードを突き出されて面食らったものだ。


「大金生で持ち歩くのも危なっかしいでしょ」


 記載の額は確かに、僕たちにとってはなかなかの大金だった。河野さんが言うには、あれだけあればアメリカへ七日間の観光旅行に赴けるとか。


「……貰えませんよ。流石に」


「どうせ親の金よ」


 通帳を閉じて差し出し返せば、河野さんはふっと表情を固くして腕を組んだ。


「アメリカに行きたいって言ったら、親はそれだけ出したのよ。あたしが娘だってだけでね。そんなことにぽんと出せるんだったら、もっと有意義なことに使ったって文句ないでしょうよ」


 ──結局、その通帳は僕の手許にある。


 決して『正しい』対応ではないのだが、だからこそ僕たちは安心して頼った。実際にはアメリカへ行かなかったことを、親にどう言い訳したかは知らない。


「で?」


(ガイ)から何て聞いてます」


「お金頂戴ぐらいしか言われてないよ」


 ……へえ。それでいいのか。


 年上の知人を訪ねようと言い出したのは、財布をなくした概だった。僕が言うなれば引き込んだ家出仲間の、同級生でもあった友人。あの口座の残高も尽きかけているのにと、方便の嘘を吐いて脅してやろうとしたら、概はその贈り主に縋ればいいと思いついて──結果として僕たちは、とりあえず今夜河野さんの部屋に泊めてもらうことになっている。今夜だけでなく何泊かさせてもらえるだろう。それはそれでありがたいが、薬にはならなかったわけだ。


 かいつまんで説明すると、たくましいな奴は、と河野さんは笑った。あなたが簡単に了承して甘やかすからでもあるんだけどね。


「ちなみに、本当は幾ら残ってる」


「まだしばらく大丈夫です。別の当てもあったんで」


「おや、あたしの他にもパトロンがいるの」


 物好きがまだいたかと見知らぬ相手をからかうような口調だったが、どことなくライバル意識が感じられた。それで拗ねて援助を打ち切るのでなく、対抗してより助けてくれるような性格だから安心だ。


 パトロン──その通り。繋ぎとめておかなくてはならない。幸い概は気に入られているし、仲間のもう一人、妹が引き込んだ岡野さんも同様だ。僕自身については判断を控えるとして、問題は妹の春花──たくましい概を好むような河野さんにしてみれば、引っ込み思案な春花は扱いに困るのではないか。


 仮に喧嘩でもして、僕と春花、概と岡野さんの二組に分かれてしまったら、河野さんは通帳をどちらに持たせるか。それを考えたら四人組を解散するわけにはいかない。だから僕は概の機嫌も岡野さんの機嫌も適度に取っておく必要がある。勿論河野さんの機嫌も。


 マンションに程近いコンビニで、河野さんは切手か何かを買ったようだった。


「あんたはいいの?」


「口実ですから」


「そか。熱冷ましでも買う気かと思った」


 熱冷まし──ね。


「家にいて薬で治せる熱なら、ただ寝ていても治りますよ」


 ……ただ寝ていられるのなら、って暗に言ってるように聞こえるな。


 黙って口の端を吊り上げたところを見ると、そういうことを仄めかしたと思ったのだろう。悪影響のある誤解なら解かねばならないが、笑みの感じからしてこのままでも構うまい。自分にとって満足な解釈をしたようだから。




「シュウくん、はるちゃん熱あるみたいなんだけど」


 指摘したのは岡野さんだったが、いつものことで予想はしていた。河野さんは大学へ行って留守にしていたけれど、遠慮なく布団を敷き直して妹を寝かせる。


「ごめんなさい……」


「いいから。寝てな」


 春花は大人しく目を閉じた。汗ばんだ額の縺れた前髪を直してやって、本人は苦しいのだろうけれど、僕は却って安堵を覚えた。


 人間の体はよくできているもので、体調を崩すのに崩して差し支えない時機を選ぶ。この部屋に泊まらせてもらうときは、春花は大概、ここぞとばかりに熱を出して寝込むのだった。寝込んでも大丈夫な場所だということだ。河野さんを捕まえられてよかった。


 つまりは信頼の表れなのだけれど、気になるのは河野さんの受け止め方である。熱冷ましでも買う気かと水を向けたのが、また寝込むようでは迷惑だという意思表示なら困った──あの笑みの具合なら、大丈夫だと思うのだけれど。


 逃走資金を用立ててくれるのは、親切な自分に浸りたいからだと概は言った。自己陶酔のために泊めてくれるのだと言った。僕たちのためではなく、河野さん自身がいい気分になるために違いないと。


 そうだとすれば春花の発熱は、親切発揮のチャンスになりうる。けれど同時に面倒がらせて、いい気分を壊す危険もある両刃の剣だ。場合によってはフォローしておだてて機嫌を取り結ばなければらない。


 尤も概の方では、親切面にすぎないのか本当の親切心なのか、急に迷い始めたらしい。前者なら遠慮なくたかれて、後者なら罪悪感を覚えるようだ。河野さんの気持ち一つという点では同じことだと思うが。


「おねーサマ何て言うと思う」


「気にしないで寝てなって言うだろうね」


「……そりゃ、言うのはそう言うだろうけど」


「それを訊いたんだろう?」


「……」


 気になるなら直接訊け、とは思わない。解説を読むにつれて感動が薄れるように、言葉にするにつれて気持ちが冷めていったら事だから。


 春花はすうすうと眠っている。万一河野さんが嫌がる素振りを見せたら何をどう言ってなだめようかと、寝顔を見ながら考えた。貴重な安眠の場を失わせるわけにはいかない。


「またか」


 帰宅した河野さんは苦笑した。


「どんな感じ? いつもみたいな?」


「測ったら微熱だったよ。あ、体温計借りました」


「寝てりゃあ治りそう?」


 岡野さんと話すのを観察していると、ちらと目を走らせてきた。


「大丈夫だと思うけど」


「夕飯食べられるかしらね」


 ふうん……食欲の方も気遣ってくれるってことは、心配は無用だったかな? 昨夜の僕の発言も踏まえて、概風に言えば親切のアピールと来た。


 とりあえず今回は大丈夫そうだな。半日かけて練り上げた、頭の中の草稿を僕は破棄した。無駄になるなら寧ろ歓迎だ。




「──秋樹!」


 ……。


 夢を見たらしい。


「起こした?」


「起きてた」


 参ったな。真夏に毛布を被ったみたいな汗じゃないか。


 春花の寝息に耳を澄ました。もう随分落ち着いている。──止まっていたらどうしようかと思った。


 恐らく僕たちの宿泊に備えて、河野さんの押入れには余分の布団が積んである。といっても流石に無理があるのか五人分はないから、今日は岡野さんと部屋主の河野さんとが追い出されてリビングに回っていた。ここのソファは十分ベッド代わりになる。


「で。何」


「何って」


「何にうなされてたわけ」


「話せって? 悪趣味」


「……だァから」


 じゃれる気分じゃないんだよ。


 相手にしなかったからか、概は拗ねたようにどさっと布団の上に倒れ直した。怪獣に追いかけられたような益体もない夢ならいいさ。本当の悪夢を話して、同じ気分の人間を増やしたって仕方ないじゃないか。


 家出を決意した頃の、あの施設の夢──思い返しても心臓が早鐘を打つ。出てきてよかった。春花を連れ出してよかった。あんなところに留まっていたら、いつまで正気で生きていられたか。


 河野さんの助けがなければ、家出生活は早々に頓挫していたかもしれない。他のまともな施設に保護してもらえる可能性もないではないが、出戻りなんてことになったら洒落にならなかった。河野さんは恩人なのだ。自分自身の陶酔のためであったとしても。


 普段は正直、恩と同時に恩の不足も感じてしまう。僕らを本気で案じるのなら、家出の協力などしていてはいけない──概などは猛反発するだろうが、そんなことに遠慮していないできちんと保護をするかさせるべきなのだ。学校にも行かせず野放しにしておいていいはずがない。今日や明日、今週や来週、今月や来月はどうにかなっても、将来という語が表すぐらいの未来を考えれば。


 けれどもそんなことは、飛び出す前からわかっていた。わかっていて決めたのだ。学校のためにとあの施設に留まれば、肝腎の将来がなくなるのだから。


 不足だなんて──贅沢な。


「おまえはさ」


 概がぐるんと寝返りを打った。


「話す気ないならそーゆーとこ見せなきゃいいんだと思うのよ」


「うっかり寝汗もかけないのかい?」


「うっかり寝言も言わなかったと思ってんの?」


 頭を上げて頬杖をつく。暗くて表情はわからないけれど、口の端をにぃと上げたようだった。


 目だけで見やっても伝わらないから首ごと横にひねった。


「概」


「んー?」


「鎌かけるならもっと上手にね」


「……だあっ、可愛げのない奴だな! たまにはひっかかれよっ」


「ほら、こんな風に」


 一瞬黙って意味を考えてから、友人はばたんと耳許を叩いた。僕は笑った。前言撤回、やっぱりちょっとじゃれた方が元気が出ていい。


 手懸りがなかったわけじゃない。あの夢の内容を察せるような何事かを口走り、それを明瞭に聞き取ったのなら、知ってるんだぞとばかり得意気にしてはいられなかったはずなのだ。


 という解説は勿論してやらない。


 春花を起こさないように抑えてくすくす笑っていると、不意に手が伸びてきて額をぐいとぬぐった。瞬きをして友人を見る。熱を計るような姿勢で、そのまましばらく動かなかった。


「……どうした?」


「うなされることなんてなかったじゃん。前は」


「いつも隣りで寝てたわけじゃないのに?」


 何故言い切れるのかと問えばはたかれた。


「夢ぐらい言ったっていいじゃんよ」


「……悪趣味」


 先と同じことを僕は呟いた。


 聞きたいのかい? 折角過去にできているあの施設のことを、よせばいいのに夢に見たって。河野さんの許へ来るたびに、却って恐怖に襲われるなんて。今が本当に続くのか疑わしくなって──いつか取り返されるのではないかと、恵まれるほど怖くなって。今だって最上には遠いにしても。


 ごめんだよ。言葉にするのも、聞かせるのも。


 それきり何も言わずにいると、やがて概は大袈裟に溜め息を吐いて身を引いた。何を思っているかはわかる。知りたいというより、打ち明けられたいのだ。碌な夢じゃないことは察しがつくだろうに──知ってから後悔するくせに。


 視線に気づかないふりで目を閉じた。うっかり寝汗もかけないってことだな、結局。

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