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巻頭言「なぜ陸自はながとを求めたか」

元陸将補 戸塚 恒夫

三七樺太大演習当時 三等陸佐 第七師団第一一普通科連隊第三中隊長


はじめに


 海の人たちの回想集に陸の人間が寄稿するのは、筋違いかもしれない。それでも編集の方から声をかけていただいたとき、断る理由を探す気にはなれなかった。「ながと」という艦が生まれた理由の一端は、間違いなく昭和三十七年秋の多来加湾の砂浜にある。そして、その砂浜で一度死んだ(判定上の話である)中隊長のうち、米寿を過ぎて生き残っているのはもう私くらいしかいない。

 諸所、陸自の目線であり一部海自の皆様には不快に感じる部分もあるかと思われるが、それに関しては私の無理解、勉強不足からくるものであり、ご容赦いただきたい。

 なお、文中の部隊名や呼称は当時のものを用いる。


国境の島

 

 北緯五十度の国境線は、地図で見るよりずっと静かな線である。気屯から北は湿原と疎林ばかりで、標柱と鉄条網と、向こう側の木造の監視塔があるだけだった。私は初級幹部の時はずっと樺太で勤務をし、その後も部隊はずっと北海道で勤務していたから、樺太については一番であると自負があった。今でも樺太の国境線の景色を思い出せるし、あそこに行って目をつむって歩くこともできる。向こうの哨兵とは双眼鏡越しに顔を覚えるほどの距離で、ある年の正月には、向こうの塔に松飾りのようなものが見えたといって大騒ぎになった。真偽はいまも分からない。

 しかし、静かな線が静かなままでいるのは、こちらが何かを用意しているからである。樺太は南北に細長く、道は少ない。国境を破られて縦貫道を押さえられれば、北の部隊は袋の鼠になる。だから海から敵の背後に回る。逆上陸は、樺太の部隊にとって机上の話ではなかった。しかし、海から回った部隊を誰が支えるのかという問いに、当時の我々はまだ答えを持っていなかった。当時の逆上陸の構想はあまりにもお粗末で、適当なものだった。米陸軍第1騎兵師団と樺太混成旅団が逆上陸の訓練をしたこともあれば、東北方の第三八普通科連隊と我々第七師団がやったこともあった。まあ少なくとも現地で防戦するはずの我々北部方面隊が逆上陸の訓練すること自体が甚だおかしいことではあったのだが、どの部隊が逆上陸をかけるのか、全く明確ではなかった。当時のいわゆる「赤本」では本来は中部方面隊だったりした。しかしも私の知る限り、赤本のとおり伊丹や米子の部隊が樺太に上陸訓練をしに来たということはない。そのあいまいな時期に戦争がなくて、本当によかったと思う。


多来加湾

 

 演習の想定は単純だった。赤軍が国境を越えて南下し、敷香一帯を占領する。わが主力は内路付近で阻止線を張る。しかしもそれは突破され、再編後豊原で防衛を行う。最終的には突破され、ソ連軍は稚内上陸を企図して大泊を出発するソ連軍をの上陸を阻止するシナリオだった。わが第七師団は多来加湾に逆上陸して敵の背後を断つ。樺太混成旅団は一個連隊が損耗判定(樺太混成旅団は常に国境警備の任があるため、演習時は必ず三分の一は初めから損耗扱いで、実任務に就いていた。)で豊原に後退中、我々第七師団が揚陸艦を以て敵後方を遮断、敵の侵攻部隊の先鋒を包囲撃破することで、敵の縦深戦闘を挫き、米軍の来援までの時間を稼ぐという想定であった。統裁部は日米共同の建前で、湾外に位置する米戦艦「ニュージャージー」に置かれた。統裁部をまるごと収められる艦がほかになかったからだと聞かされていたし、我々もそういうものだと思っていた。

 十月の下旬、演習が開始されてすでに一週間が経過している中、我々は苫小牧で揚陸艦「しれとこ」に乗り込んだ。「しれとこ」で知床の沖を回るとは出来すぎた冗談だと誰かが言い、中隊がひとしきり笑った。艦内のラジオは、アメリカがキューバを海上封鎖したと繰り返していた。遠い南の海の話で、我々には明日の波の高さのほうがよほど切実だった。

 知床岬を左にオホーツク海に入った。知床から上陸地点までは約一日。常に上空は米軍キャンベラ爆撃機が旋回しており、敵艦隊の要撃に備えていた。二十時間たって視界の奥に海豹島の黒い影があった。後に日米の射撃場になる島だが、当時はあざらしの島でしかなかった。それを超えたあたりから海自は敵艦隊との海戦に入り、空自は航続距離的にも対抗部隊の戦闘機に圧倒され、我々上陸部隊だけが内路(敷香の東岸)に上陸のため進んでいく。早朝の霙まじりの風のなか、しれとこは海岸にそのまま艦首を乗り上げて、ビーチングに成功した。艦首扉が開くと水は腿まであり、冷たさは痛みに近かった。

 上陸そのものは成功した。問題はその後である。

 

反撃

 

 砂浜の背後には幌内川の湿原が広がっていて、配備されたばかりの装甲車や主力のM4戦車は思うように進まない。そこへ、内陸のどこかに構築された敵、ISU-152自走砲からの砲撃と、湾口に現れた対抗部隊の艦隊からの射撃が判定された。一番重要な砲兵火力、155mmや203mmの牽引砲は真っ先に全滅し、戦車部隊は補給物資を失った。我が中隊は林内を迂回しソ連のIS-3重戦車(富士の戦車教導隊のM47主力戦車)へ106mm無反動砲を撃ちに進むが、白い腕章の統裁部員が無線を受けるたびに、私の中隊は減っていった。第一小隊、損耗四割。第二小隊、損耗三割。中隊本部、至近弾。判定に従えば、わが中隊は昼までに半分が死に、夕方までに残りの半分が死ぬことになっていた。

 判定を告げに来る二等陸尉は、自分が撃っているわけでもないのに、申し訳なさそうな顔をしていた。私は彼に腹を立てる気にはなれなかった。本物の死人は判定を必要としない。それを私は、十八年前のレイテ島で知っている。


五インチ


 十時半、無線が対抗艦隊の撃破判定を伝えた。湾の外で、海自の護衛艦が赤軍の艦隊を片づけたのである。ほどなく、灰色の艦が湾内に入ってきた。艦番号は一六一、当時は艦名を知らなかった「あきづき」であった。

 「あきづき」の五インチ砲は、演習場の着弾地域に向けて実弾を撃った。三門の砲が交互に火を噴き、丘の稜線に土煙が並んでいく。速く、正確で、旧軍の目で見れば夢のような射撃だった。中隊の誰もが助かったと思った。

 しかし、統裁部員は旗を上げなかった。敵の自走砲は至近弾に対し十分な防御力を持ち、榴弾では撃破不可能という判定であった。丘の上では土煙が何度も上がるが、判定は変わることなく、想定地域において自走砲はのんびりと陣地転換し、数十分後また射撃を開始してきた。正午を過ぎたころ、第七師団は損害率五割を超えた。


十六インチ 


 午後二時過ぎ、無線が妙なことを言った。

 「統裁部より各部隊。統裁艦ニュージャージーは、本時刻以降、上陸支援艦として演習に参加する」

 統裁部員の二尉が、受話器を持ったまま私の顔を見た。統裁艦が演習に参加するという話は、彼も聞いたことがなかったのである。私もなかった。

 沖を見ると、湾口の灰色の影がゆっくりと向きを変えていた。その手前の「あきづき」が、ひどく小さく見えた。しばらくして、影の上に光が三つ並んだ。

 最初に届いたのは発砲の音ではなく、頭の上を何かが渡っていく音だった。空が裂けるというより、空の上で誰かが重い箪笥を引きずっているような、低く長い音である。それが丘の向こうに消えて一拍おき、地面が靴底から持ち上がった。発砲の音は、そのあとから遠雷のように追いついてきた。丘の稜線が、ほんの少し形を変えていた。

 統裁部員は無線を聞く前に旗を上げた。敵自走砲、全滅。判定するまでもないことだった。

 中隊の若い者たちは砲撃から掩蔽する蛸壺から身を乗り出して歓声を上げた。私は声を出さなかった。出せなかったのである。十八年前、私は見習士官としてレイテ島のリモン峠にいて、あの音を反対側から聞いていた。あのとき私は、その音の下で、ただ自分の上に落ちないことを祈る側にいた。いま同じ音が私の頭上を越えて、私の敵の上に落ちている。救われたと思うより先に、膝が震えた。そのまま「ニュージャージー」は敵の歩兵部隊に砲を向けた。

 国境の向こうの監視塔からも、あの煙は見えただろうか。すくなくとも、偵察機は大量に領空侵犯しており、実任務で空自がスクランブルをしていたから、国境の向こうに伝わっていたはずである。


講評


 二週間に渡る演習の講評は、大泊沖に錨を下ろした「ニュージャージー」の食堂で行われた。我々はまず艦の大きさに呑まれた。舷梯を上がるだけで息が切れ、砲塔の脇を通るときには、思わず見上げて足が止まった。

 講評の席で、海自の護衛隊司令が穏やかに、しかしはっきりと異を唱えた。統裁部が演習に介入するのは筋が違う、あれでは判定が成り立たない、と。もっともな話である。自分で撃って自分で判定するのだから外れるはずがない、と海の人たちは後で皮肉を言った。米側の提督は笑って、「我々は観戦を求められた。そして、諸君に助けが要ることを観戦した」と答えたという。通訳を介した言葉なので、正確なところは分からない。

 陸の側は、誰も何も言わなかった。口をはさむことができなかったのだ。戦艦「ニュージャージー」及びミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」のヘリの的確な観測の元行われたその艦砲射撃で、対抗部隊は二個自動車化狙撃連隊分の歩兵、戦車二個中隊、砲兵一個大隊、後方部隊多数を撃破していた。その戦果にもう黙ることしかできなかった。よく、艦砲射撃は地上軍四個師団に匹敵するというが、その意味は多数の戦艦による艦砲射撃を指しており、戦艦と巡洋艦一隻を指しているわけではないヘリという固定観測点を得た艦砲射撃は、従来よりもはるかに効果のある攻撃となっていたのだ。

 帰りの内火艇で、連隊長がぽつりと「戸塚、あれが欲しいな」と言った。私は「はい」とだけ答えた。

 艦を降りるとき、「あきづき」の若い幹部が十六インチの砲塔を見上げて立っていた。私が会釈すると、彼は少し悔しそうな顔で「次は、うちの砲でやります」と言った。名前は聞きそびれた。


檜町にて


 その後、私は陸幕の防衛部に勤務し、艦砲による火力支援の要望をまとめる仕事に関わった。最初の起案で「戦艦」と書いたところ、上司に赤で消された。戦艦という字は内局を通らない、というのである。以後、書類の上では「大口径火力支援艦」と書いた。

 昭和四十二年の秋、エジプトのミサイル艇に撃たれたイスラエルの駆逐艦が、ミサイルを撃ち落として帰ってきたという報せがあった。海の人たちは、ミサイルは当たらない、やはり砲だ、と勢いづいた。艦の電子戦能力に対して、ミサイルに積める電子機器では妨害能力に勝てないというのだ。

 米側に戦艦を一隻借りられないかという話が本気で検討されたのは、その頃である。答えは丁寧なものだったが、要するに、乗員が二千人要るが君たちに出せるのか、ということであった。出せるはずがなかった。現状海自の中に戦艦を整備できるドックは残っていない、まあ使おうと思えば横須賀で信濃を建造した第六ドックが使えるのだが、自分たちの権限ですぐ使えるドックがないのは心細い。佐世保第七ドックは民間船舶の建造で目いっぱい、呉の造船船渠は閉鎖予定。しかし、米軍も戦艦「ニュージャージー」から巡洋艦「オクラホマシティ」に旗艦を移したし、米軍は本当は手放したかっただろう。浮揚後連合軍に接収されたものの、ずっと呉に放置されている戦艦「大和」を再度就役させる検討もしたが、調べてみるとその検討は海自内ではるか昔からあるものの、戦艦「大和」の修理改修は海自予算の五年分かかる見積もりであり、手が出せないとのことであった。後に記念艦としてコンクリートで埋め立てられるのは、もはや詳細を語るまでもない。

 海の人たちが自前の艦の図面を引き始めたのは、それからである。「金剛代艦」の三万五千トンから二万トンまで図面を削った、それでも通らなかった、という話を聞いたのは数ヶ月後のことだ。檜町の廊下で、海の人たちと並んで、海原さんの部屋の前で何度待たされたか分からない。私は逆上陸時、沈められて戦力にならない可能性のある自走砲より、沈むことなく確実に落ちてくる砲弾を届けてくれる戦艦の話がしたかった。だが扉の向こうでは、どちらも同じように聞こえていたのだと思う。その後、設計に米軍の新型八インチ砲を組み込みさらに削られ、一万トンになったという。ただ、表に出ることはなく、細々と研究設計が進められたにすぎない。

 壁が取り払われたのは、四次防のときである。海原さんの時代が終わり、中曽根さんの時代が始まった。


長崎


 昭和五十二年十一月、私は長崎にいた。「ながと」の自衛艦旗授与式に、陸の側の言い出しっぺの一人として招かれたのである。退官を翌年に控えた陸将補には、過ぎた晴れがましさだった。

 岸壁から見上げた「ながと」は、あの日の「ニュージャージー」に比べれば、はるかに小さかった。砲は三門、それも単装で、砲身の細さはどこか頼りなく見えた。米海軍が開発して手放した砲だということも、そのときには聞いていた。十六インチではなかった。だが、我々のための砲であった。

 式のあと、艦上で白髪の混じり始めた二等海佐に声をかけられた。「次は、うちの砲でやります」と、十五年前と同じことを言われて、ようやく相手が誰か分かった。彼はこの艦の砲雷長になっていた。その、初代砲雷長の高木さんのおっしゃる通り「ながと」は奮戦し、中華民国を守ったとともに、同型艦「むつ」は樺太におけるソ連侵攻をそうそうに断念させ、南樺太及び千島防衛の立役者となった。本当に、「うちの砲」でやってくれたのだ。詳細は,海の人たちの稿に譲る。










 

 

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