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空室の317号室から、ナースコールが鳴った

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/18

現在、夜勤の真っ最中です。


ふと十三年前の夜勤中にあったことを思い出したので、忘れないうちにさらっと書いてみました。


実話をもとにしていますが、特定を避けるため、細部には多少の脚色を加えています。

 これは、今から十三年前、私が現在も勤めている介護施設で実際にあった話です。


 利用者や職員が特定されないよう、建物の細かな構造や時期、人物の情報には多少の脚色を加えています。ただ、空室からナースコールが鳴ったことと、PHSに残っていた表示については、ほぼそのままです。



 その施設は、三階建ての従来型特別養護老人ホームでした。


 私が勤務していた三階には、五十人ほどの利用者が暮らしていました。個室だけではなく、二人部屋や四人部屋もある、昔ながらの施設です。


 夜勤者は二人。

 東側と西側に分かれ、それぞれ半分ほどの利用者を見る形でした。その晩、私は西側を担当していました。


 職員は一人ずつ、ナースコールを受けるためのPHSを持っていました。コールが鳴るとPHSに居室番号が表示され、廊下にある壁付けの表示盤にも、呼び出している部屋の番号が赤く点灯します。

 PHSで応答すれば、居室に取り付けられた機器を通して、利用者と会話することもできました。


 古い設備だったため、壁の表示盤には履歴が残りません。呼出時刻や応答の有無などの履歴が残るのは、職員が持っているPHSだけでした。


 2:00を少し過ぎたころだったと思います。

 おむつ交換を終え、記録を書くために詰所へ戻る途中、腰につけていたPHSが鳴りました。


 電子音が三回。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 PHSの画面を見ると、赤い数字で「317」と表示されていました。

 廊下の表示盤にも、同じ番号が点灯しています。


 私は一瞬、足を止めました。


 317号室は空室だったからです。


 そこに入っていた女性は、三日前に亡くなっていました。


 九十代の小柄な方で、認知症はありましたが、会話はある程度できました。自分で立つことは難しく、何かあれば枕元の握り式コールを押して職員を呼んでいました。

 夜中に何度もコールを押す方ではありません。

 むしろ遠慮深く、ずり落ちそうな姿勢になっていても、職員が来るまで黙って待っているような人でした。


 亡くなったのは病院です。

 発熱して入院し、そのまま施設へ戻ってくることはありませんでした。


 部屋はまだ片づけの途中でしたが、ベッド周辺の私物は家族へ返却されていました。

 

 私はPHSの停止ボタンを押しました。


 音が止まり、画面の「317」も、壁の表示盤に出ていた赤い数字も消えました。

 機械の誤作動だろうと思いました。

 築年数の古い施設でしたから、設備の不具合自体は珍しいことではありません。湿気や接触不良で、誰も押していないコールが鳴ることもありました。


 それでも念のため、317号室を見に行きました。

 廊下の突き当たりにある個室です。


 扉は閉まっていました。


 開けると、部屋の中は暗く、廊下の明かりが床へ細長く差し込んでいました。


 ベッドには誰もいません。


 布団も外されていました。


 枕元には、壁から伸びた白い接続コードだけが垂れていました。


 その先にあるはずの握りボタンが、ありませんでした。

 握り式のナースコールは施設の備品です。

 部屋が空いたとしても、次の利用者が入るまで枕元に置かれたままにするもので、普通は取り外しません。


 空室になったあと、誰かが外したのだろうかと、その時点では、私も深く考えませんでした。


 コードの先端や壁の接続部分を確認しましたが、異常はありませんでした。トイレ内の呼出ボタンも確認しましたが、押されたままになっている様子はありません。


 部屋を出て、扉を閉めました。


 その直後です。


 ピンポーン。


 腰のPHSが鳴りました。


 今度は一回だけでした。


 画面には、また「317」。


 私は反射的に扉を開けました。


 当然、誰もいません。


 ただ、さっきまで真っすぐ垂れていた白いコードが、わずかに揺れていました。


 エアコンは止まっていました。

 窓も閉まっています。


 私は同じ夜勤者を呼びました。

 東側を担当していた先輩です。


 先輩は面倒そうな顔をしながら317号室を見て、壁の接続部分やコードを何度か確認しました。


「接触じゃない?」


「握りボタン、なくなってますよ」


「誰か外したんじゃないの」


「普通、外さないですよね」


「壁の中でショートしてるんでしょ。明日、施設課に言っといて」


 先輩はそう言って戻っていきました。


 私も、それ以上考えないことにしました。

 夜勤中は、理由の分からないことを深く考えない方がいい。

 まだ巡回も排泄介助も残っています。


 私は317号室からの呼び出しを一時停止に設定し、詰所へ戻りました。


 ところが、2:10。


 再びPHSが鳴りました。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 表示は「317」でした。


 一時停止にしたはずなのに、音は止まりません。


 停止ボタンを押しても、一定の間隔で鳴り続けます。


 音を聞いた先輩も、詰所へ戻ってきました。


「何これ」


「317です」


「だから止めたでしょ」


「止めました」


 二人でPHSの画面を見ている間も、音は鳴り続けました。


 そのとき、先輩が小さな声で言いました。


「この時間だったっけ」


「何がですか」


「あの人が倒れてたの」


 亡くなった女性は、入院する数日前、部屋の床に倒れているところを発見されていました。

 大きな怪我はありませんでした。

 事故報告書には、2:10に巡回した職員が発見したと書かれていました。


 その日の夜勤者は、私の隣に立っている先輩でした。


「転倒したとき、コールは鳴らなかったんですか」


 私が聞くと、先輩はPHSの画面から目をそらしました。


「鳴ってないよ」


「履歴は?」


「残ってなかった」


「押せなかったんですかね」


 先輩は答えませんでした。


 ナースコールは、2:16に突然止まりました。

 その後、朝まで317号室からコールが鳴ることはありませんでした。


 翌朝、管理者へ報告し、施設課にも設備を確認してもらいました。


 異常は見つかりませんでした。


 壁の配線にも接続部分にも問題はなく、握りボタンが接続されていない状態で、317号室から信号が送られることは構造上考えにくいと言われました。


 壁付けの表示盤には履歴が残らないため、私が持っていたPHSの着信履歴を確認しました。


 2:03。


 2:05。


 2:10。


 317号室から三回。


 最初の二回は、私が聞いた時刻とほぼ一致していました。


 けれど、2:10の履歴だけ、見慣れない表示が残っていました。


 通常なら「居室呼出」と表示される場所に、


「通話」


 と書かれていたのです。


 ただし、「通話」と履歴に残るのは、職員がPHSで応答操作をしたときだけです。


 私も先輩も、317号室からの呼び出しには応答していません。


 2:10には、二人とも詰所にいて、鳴り続けるPHSの画面を見ていました。


 それなのに履歴の上では、誰かが317号室からの呼び出しに応答し、通話していたことになっていました。


 施設課の職員にも、なぜその表示が残ったのか分からないと言われました。


 管理者は、PHSかナースコール設備の一時的な不具合として処理しました。


 その日のうちに317号室の回線は停止され、接続部分にも処置が施されました。


 それ以降、317号室からナースコールが鳴ることはありませんでした。


 ただ、数か月後に退職した先輩から、一度だけ電話がかかってきました。

 深夜でした。

 電話に出ると、先輩は泣いていました。


 あの女性が転倒した夜のことを、誰にも言えずにいたそうです。


 本当は0:00過ぎから、317号室のコールが何度も鳴っていた。


 けれど、別の利用者の対応が続き、すぐには行けなかった。


 PHSで音を止めても、しばらくするとまた鳴った。


 そのうち鳴らなくなったので、眠ったのだと思った。


 2:10に部屋へ行くと、女性は床に倒れていた。


 事故報告書には、コールが鳴っていたことを書かなかった。

 自分のPHSに残っていた呼出履歴も消した。


「でもね」


 先輩は電話の向こうで言いました。


「あの人、倒れてからも押してたの」


 私は黙って聞いていました。


「部屋に入ったとき、PHSが鳴ってたの。だから一度止めた。床に倒れてるあの人に声をかけてたら、また317から鳴ったの」


 先輩の声が震えていました。


「握るやつは、ベッドの上にあった。床からじゃ、どうやっても届かない場所に」


 そのとき、電話の向こうから、かすかに電子音のようなものが聞こえました。


 先輩の声よりも、さらに遠く。


 あまりに小さくて、聞き間違いだったのかもしれません。


 テレビか、家電の音だった可能性もあります。


 ただ、私には聞き覚えがありました。


「今、どこにいるんですか」


 私が聞くと、先輩はしばらく答えませんでした。


 それから、かすれた声で言いました。


「家にいる。一人で」


 電話はそこで切れました。


 翌日、連絡を取りましたが、先輩は何も覚えていないと言いました。


 寝ぼけて電話をかけたのだろう、と。


 私も、それ以上は聞きませんでした。


 ただ、最後に一つだけ。


 翌朝、施設課に設備を確認してもらった際、317号室から握り式のナースコールを取り外したのか尋ねました。


 施設課の職員は、外していないと言いました。

 念のため介護職員にも確認されましたが、外したと答えた者はいませんでした。

 備品庫にもありませんでした。


 本来なら、利用者がいなくなっても部屋に残されているはずのものです。


 その握り式コールが、いつ、誰によって外されたのか。


 どこへ行ったのかは、十三年たった今も分かっていません。

介護施設で長く働いていると、説明のつかない出来事に遭遇することがあります。


十三年たった今も同じ施設で夜勤をしていますが、今夜のナースコールは、今のところすべて利用者さんのいる部屋から鳴っています。


朝まで、そうであってほしいものです。

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― 新着の感想 ―
不思議なことが起こったものですね。 私はこのお話のような霊的な現象に遭遇したことは一度もないので「なかなか貴重で恐ろしい体験をされてるな⋯」と思いました。 私も老健で働いていたことがありますし、夜勤…
めっちゃ怖かったです……((((;゜Д゜)))) 夜勤お疲れ様です。 空室からのナースコールだけでも十分怖かったのですが、「通話」の履歴と、最後に握り式コールが消えていたというオチで鳥肌が立ちました…
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