空室の317号室から、ナースコールが鳴った
現在、夜勤の真っ最中です。
ふと十三年前の夜勤中にあったことを思い出したので、忘れないうちにさらっと書いてみました。
実話をもとにしていますが、特定を避けるため、細部には多少の脚色を加えています。
これは、今から十三年前、私が現在も勤めている介護施設で実際にあった話です。
利用者や職員が特定されないよう、建物の細かな構造や時期、人物の情報には多少の脚色を加えています。ただ、空室からナースコールが鳴ったことと、PHSに残っていた表示については、ほぼそのままです。
その施設は、三階建ての従来型特別養護老人ホームでした。
私が勤務していた三階には、五十人ほどの利用者が暮らしていました。個室だけではなく、二人部屋や四人部屋もある、昔ながらの施設です。
夜勤者は二人。
東側と西側に分かれ、それぞれ半分ほどの利用者を見る形でした。その晩、私は西側を担当していました。
職員は一人ずつ、ナースコールを受けるためのPHSを持っていました。コールが鳴るとPHSに居室番号が表示され、廊下にある壁付けの表示盤にも、呼び出している部屋の番号が赤く点灯します。
PHSで応答すれば、居室に取り付けられた機器を通して、利用者と会話することもできました。
古い設備だったため、壁の表示盤には履歴が残りません。呼出時刻や応答の有無などの履歴が残るのは、職員が持っているPHSだけでした。
2:00を少し過ぎたころだったと思います。
おむつ交換を終え、記録を書くために詰所へ戻る途中、腰につけていたPHSが鳴りました。
電子音が三回。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
PHSの画面を見ると、赤い数字で「317」と表示されていました。
廊下の表示盤にも、同じ番号が点灯しています。
私は一瞬、足を止めました。
317号室は空室だったからです。
そこに入っていた女性は、三日前に亡くなっていました。
九十代の小柄な方で、認知症はありましたが、会話はある程度できました。自分で立つことは難しく、何かあれば枕元の握り式コールを押して職員を呼んでいました。
夜中に何度もコールを押す方ではありません。
むしろ遠慮深く、ずり落ちそうな姿勢になっていても、職員が来るまで黙って待っているような人でした。
亡くなったのは病院です。
発熱して入院し、そのまま施設へ戻ってくることはありませんでした。
部屋はまだ片づけの途中でしたが、ベッド周辺の私物は家族へ返却されていました。
私はPHSの停止ボタンを押しました。
音が止まり、画面の「317」も、壁の表示盤に出ていた赤い数字も消えました。
機械の誤作動だろうと思いました。
築年数の古い施設でしたから、設備の不具合自体は珍しいことではありません。湿気や接触不良で、誰も押していないコールが鳴ることもありました。
それでも念のため、317号室を見に行きました。
廊下の突き当たりにある個室です。
扉は閉まっていました。
開けると、部屋の中は暗く、廊下の明かりが床へ細長く差し込んでいました。
ベッドには誰もいません。
布団も外されていました。
枕元には、壁から伸びた白い接続コードだけが垂れていました。
その先にあるはずの握りボタンが、ありませんでした。
握り式のナースコールは施設の備品です。
部屋が空いたとしても、次の利用者が入るまで枕元に置かれたままにするもので、普通は取り外しません。
空室になったあと、誰かが外したのだろうかと、その時点では、私も深く考えませんでした。
コードの先端や壁の接続部分を確認しましたが、異常はありませんでした。トイレ内の呼出ボタンも確認しましたが、押されたままになっている様子はありません。
部屋を出て、扉を閉めました。
その直後です。
ピンポーン。
腰のPHSが鳴りました。
今度は一回だけでした。
画面には、また「317」。
私は反射的に扉を開けました。
当然、誰もいません。
ただ、さっきまで真っすぐ垂れていた白いコードが、わずかに揺れていました。
エアコンは止まっていました。
窓も閉まっています。
私は同じ夜勤者を呼びました。
東側を担当していた先輩です。
先輩は面倒そうな顔をしながら317号室を見て、壁の接続部分やコードを何度か確認しました。
「接触じゃない?」
「握りボタン、なくなってますよ」
「誰か外したんじゃないの」
「普通、外さないですよね」
「壁の中でショートしてるんでしょ。明日、施設課に言っといて」
先輩はそう言って戻っていきました。
私も、それ以上考えないことにしました。
夜勤中は、理由の分からないことを深く考えない方がいい。
まだ巡回も排泄介助も残っています。
私は317号室からの呼び出しを一時停止に設定し、詰所へ戻りました。
ところが、2:10。
再びPHSが鳴りました。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
表示は「317」でした。
一時停止にしたはずなのに、音は止まりません。
停止ボタンを押しても、一定の間隔で鳴り続けます。
音を聞いた先輩も、詰所へ戻ってきました。
「何これ」
「317です」
「だから止めたでしょ」
「止めました」
二人でPHSの画面を見ている間も、音は鳴り続けました。
そのとき、先輩が小さな声で言いました。
「この時間だったっけ」
「何がですか」
「あの人が倒れてたの」
亡くなった女性は、入院する数日前、部屋の床に倒れているところを発見されていました。
大きな怪我はありませんでした。
事故報告書には、2:10に巡回した職員が発見したと書かれていました。
その日の夜勤者は、私の隣に立っている先輩でした。
「転倒したとき、コールは鳴らなかったんですか」
私が聞くと、先輩はPHSの画面から目をそらしました。
「鳴ってないよ」
「履歴は?」
「残ってなかった」
「押せなかったんですかね」
先輩は答えませんでした。
ナースコールは、2:16に突然止まりました。
その後、朝まで317号室からコールが鳴ることはありませんでした。
翌朝、管理者へ報告し、施設課にも設備を確認してもらいました。
異常は見つかりませんでした。
壁の配線にも接続部分にも問題はなく、握りボタンが接続されていない状態で、317号室から信号が送られることは構造上考えにくいと言われました。
壁付けの表示盤には履歴が残らないため、私が持っていたPHSの着信履歴を確認しました。
2:03。
2:05。
2:10。
317号室から三回。
最初の二回は、私が聞いた時刻とほぼ一致していました。
けれど、2:10の履歴だけ、見慣れない表示が残っていました。
通常なら「居室呼出」と表示される場所に、
「通話」
と書かれていたのです。
ただし、「通話」と履歴に残るのは、職員がPHSで応答操作をしたときだけです。
私も先輩も、317号室からの呼び出しには応答していません。
2:10には、二人とも詰所にいて、鳴り続けるPHSの画面を見ていました。
それなのに履歴の上では、誰かが317号室からの呼び出しに応答し、通話していたことになっていました。
施設課の職員にも、なぜその表示が残ったのか分からないと言われました。
管理者は、PHSかナースコール設備の一時的な不具合として処理しました。
その日のうちに317号室の回線は停止され、接続部分にも処置が施されました。
それ以降、317号室からナースコールが鳴ることはありませんでした。
ただ、数か月後に退職した先輩から、一度だけ電話がかかってきました。
深夜でした。
電話に出ると、先輩は泣いていました。
あの女性が転倒した夜のことを、誰にも言えずにいたそうです。
本当は0:00過ぎから、317号室のコールが何度も鳴っていた。
けれど、別の利用者の対応が続き、すぐには行けなかった。
PHSで音を止めても、しばらくするとまた鳴った。
そのうち鳴らなくなったので、眠ったのだと思った。
2:10に部屋へ行くと、女性は床に倒れていた。
事故報告書には、コールが鳴っていたことを書かなかった。
自分のPHSに残っていた呼出履歴も消した。
「でもね」
先輩は電話の向こうで言いました。
「あの人、倒れてからも押してたの」
私は黙って聞いていました。
「部屋に入ったとき、PHSが鳴ってたの。だから一度止めた。床に倒れてるあの人に声をかけてたら、また317から鳴ったの」
先輩の声が震えていました。
「握るやつは、ベッドの上にあった。床からじゃ、どうやっても届かない場所に」
そのとき、電話の向こうから、かすかに電子音のようなものが聞こえました。
先輩の声よりも、さらに遠く。
あまりに小さくて、聞き間違いだったのかもしれません。
テレビか、家電の音だった可能性もあります。
ただ、私には聞き覚えがありました。
「今、どこにいるんですか」
私が聞くと、先輩はしばらく答えませんでした。
それから、かすれた声で言いました。
「家にいる。一人で」
電話はそこで切れました。
翌日、連絡を取りましたが、先輩は何も覚えていないと言いました。
寝ぼけて電話をかけたのだろう、と。
私も、それ以上は聞きませんでした。
ただ、最後に一つだけ。
翌朝、施設課に設備を確認してもらった際、317号室から握り式のナースコールを取り外したのか尋ねました。
施設課の職員は、外していないと言いました。
念のため介護職員にも確認されましたが、外したと答えた者はいませんでした。
備品庫にもありませんでした。
本来なら、利用者がいなくなっても部屋に残されているはずのものです。
その握り式コールが、いつ、誰によって外されたのか。
どこへ行ったのかは、十三年たった今も分かっていません。
介護施設で長く働いていると、説明のつかない出来事に遭遇することがあります。
十三年たった今も同じ施設で夜勤をしていますが、今夜のナースコールは、今のところすべて利用者さんのいる部屋から鳴っています。
朝まで、そうであってほしいものです。




