1 前奏
香奈は壁掛け時計に目を走らせ、夫に声をかける。
「ねぇ、ピアノの月謝袋知らない?」
夫は椅子から動かないまま答える。
「冷蔵庫に貼ってある、あれじゃないの?」
「あれは、凛の英語のやつ」
台所でチンッとトースターの音が鳴っている。
名前を呼ばれた小学三年の凛は、ませた顔で夫の隣に腰を下ろし、口をとがらせた。
「もー、ママまた? 『決まった場所にしまえば失くなりません』ってわたしに言うくせに……いっつも探し物してるんだから」
夫が慌てた様子で口の前に人さし指を立て、しーっのポーズを凛に向けたが、遅かった。
香奈の声がぴしゃりとリビングを跳ねる。
「もう、生意気言わないの!
恭一も焼けたんだから、パン取ってきてよ。私だって今から仕事なんだからね」
恭一は肩をすくめて台所へ向かう。
凛は悪びれることもなく、別の場所からピンクの封筒を見つけると香奈に差し出す。
「これじゃないの?」
「あ」
皿を両手に持った恭一は、ほっと息をついた。
「あって良かったじゃないか。もうすぐだもんな、香奈の発表会」
香奈はバツが悪そうに封筒を受け取ると、再び時計を見た。
「もう行かなくちゃ、あとよろしくね」
滑り込みセーフでデスクに座ると、早速声をかけられる。
「小川課長、部長が探してましたよ」
「ありがとう」
――小川香奈は、半年前に経理課長に昇格した。自分に務まるのかという不安と闘い日々試行錯誤しているが、それなりにやりがいを感じている。
(なんの用事だろう……)
嫌な予感を抱えながら部長を訪ねる。彼は丸い顔に汗をかき、盛んに手を揉んでいる。
「小川くん、実はだね……報告書の形式を変えたいとエリアマネージャーが言うんだよ」
香奈は眉をひそめた。
「今からですか?」
「……あぁ。今までのは見にくいということなんだ。戦略的な要素も欲しいと」
「定例会は来週ですよ?」
「ううむ……」
部長は唸るだけで、やらなくていいとは言ってくれない。
経理なんて地味で感謝されない割に、こういうことだけは押し付けられる。
形式を多少変えたところで、それがどれほどの役に立つのだろうか。
香奈は出かかったため息を喉元で飲み込んだ。
「わかりました。今日中に方向性だけまとめます」
席に戻るとカチャカチャというタイピングの音や、忙しなく伝票をめくる音が聞こえるだけで、雑談する者はいない。
香奈も例外なく作業にのめり込んでいく。
「香奈さん、お昼行きません?」
顔を上げると後輩が立っていた。
気づけば周囲の人影はまばらだ。
香奈は未処理のタスクを思い一瞬迷ったが、ディスプレイを閉じ席を立った。
二人は会社から程ないイタリア料理の店に入った。
香奈の目の前には、湯気が立ったカルボナーラとホット珈琲が置かれている。
ペペロンチーノも惹かれたが、にんにくのことを思うと注文しにくい。
「やっぱり締め日は忙しいですよねぇ」
後輩の里花は、ミートソースパスタを器用にフォークに巻き付けながら言う。
「そうだね。けど、里花ちゃんはもう終わってるんでしょ?」
彼女は香奈が入社5年後に入ってきた後輩だ。
黒髪ボブできりっとした香奈とは違い、里花は茶色いふんわりした髪をいつも綺麗にアレンジしている。
「大体は。ところで香奈さん、この土曜日のシフト代わってもらえませんか?」
「ごめん。その日はピアノの発表会があるんだ」
「へぇ、娘さんのですか?」
「ううん、私の」
里花は元々丸い目をさらに丸くして言う。
「えー、香奈さんピアノやってたんですか?」
「うん、大人になってから始めたから上手くないけどね。今二年目」
「すごいですねぇ、なんで始めたんですか?」
香奈は一足先にフォークを置き、ごまかすようにカップに口をつけた。
「……子どもの頃、やりたかったから」
とうとう叶わなかった"ピアノを習いたい"という香奈の願い。
唯一買ってもらった、片手で持ち上げられる位のちゃちなおもちゃのピアノ。
あの安っぽい電子音が耳に響いた気がした。
顔を上げると、里花の興味はメニュー表のデザートに移っていた。
「香奈さんも食べます?」
首を横に振る。
ブラック珈琲の苦みが、口にいつまでも残っていた。
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