表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/3

1 前奏

 香奈は壁掛け時計に目を走らせ、夫に声をかける。

「ねぇ、ピアノの月謝袋知らない?」


 夫は椅子から動かないまま答える。

「冷蔵庫に貼ってある、あれじゃないの?」


「あれは、凛の英語のやつ」


 台所でチンッとトースターの音が鳴っている。


 名前を呼ばれた小学三年の凛は、ませた顔で夫の隣に腰を下ろし、口をとがらせた。


「もー、ママまた? 『決まった場所にしまえば失くなりません』ってわたしに言うくせに……いっつも探し物してるんだから」


 夫が慌てた様子で口の前に人さし指を立て、しーっのポーズを凛に向けたが、遅かった。


 香奈の声がぴしゃりとリビングを跳ねる。


「もう、生意気言わないの!

恭一も焼けたんだから、パン取ってきてよ。私だって今から仕事なんだからね」


 恭一は肩をすくめて台所へ向かう。


 凛は悪びれることもなく、別の場所からピンクの封筒を見つけると香奈に差し出す。


「これじゃないの?」


「あ」


 皿を両手に持った恭一は、ほっと息をついた。


「あって良かったじゃないか。もうすぐだもんな、香奈の発表会」


 香奈はバツが悪そうに封筒を受け取ると、再び時計を見た。


「もう行かなくちゃ、あとよろしくね」





 滑り込みセーフでデスクに座ると、早速声をかけられる。


「小川課長、部長が探してましたよ」


「ありがとう」

 ――小川香奈は、半年前に経理課長に昇格した。自分に務まるのかという不安と闘い日々試行錯誤しているが、それなりにやりがいを感じている。


(なんの用事だろう……)

 嫌な予感を抱えながら部長を訪ねる。彼は丸い顔に汗をかき、盛んに手を揉んでいる。


「小川くん、実はだね……報告書の形式を変えたいとエリアマネージャーが言うんだよ」


 香奈は眉をひそめた。


「今からですか?」


「……あぁ。今までのは見にくいということなんだ。戦略的な要素も欲しいと」


「定例会は来週ですよ?」

 

「ううむ……」


 部長は唸るだけで、やらなくていいとは言ってくれない。

 経理なんて地味で感謝されない割に、こういうことだけは押し付けられる。

 形式を多少変えたところで、それがどれほどの役に立つのだろうか。

 香奈は出かかったため息を喉元で飲み込んだ。


「わかりました。今日中に方向性だけまとめます」



 席に戻るとカチャカチャというタイピングの音や、忙しなく伝票をめくる音が聞こえるだけで、雑談する者はいない。


 香奈も例外なく作業にのめり込んでいく。




「香奈さん、お昼行きません?」

 顔を上げると後輩が立っていた。

 気づけば周囲の人影はまばらだ。


 香奈は未処理のタスクを思い一瞬迷ったが、ディスプレイを閉じ席を立った。



 二人は会社から程ないイタリア料理の店に入った。

 香奈の目の前には、湯気が立ったカルボナーラとホット珈琲が置かれている。

 ペペロンチーノも惹かれたが、にんにくのことを思うと注文しにくい。


「やっぱり締め日は忙しいですよねぇ」

 後輩の里花は、ミートソースパスタを器用にフォークに巻き付けながら言う。


「そうだね。けど、里花ちゃんはもう終わってるんでしょ?」

 彼女は香奈が入社5年後に入ってきた後輩だ。

 黒髪ボブできりっとした香奈とは違い、里花は茶色いふんわりした髪をいつも綺麗にアレンジしている。



「大体は。ところで香奈さん、この土曜日のシフト代わってもらえませんか?」


「ごめん。その日はピアノの発表会があるんだ」


「へぇ、娘さんのですか?」


「ううん、私の」


 里花は元々丸い目をさらに丸くして言う。


「えー、香奈さんピアノやってたんですか?」


「うん、大人になってから始めたから上手くないけどね。今二年目」


「すごいですねぇ、なんで始めたんですか?」


 香奈は一足先にフォークを置き、ごまかすようにカップに口をつけた。


「……子どもの頃、やりたかったから」


 とうとう叶わなかった"ピアノを習いたい"という香奈の願い。

 唯一買ってもらった、片手で持ち上げられる位のちゃちなおもちゃのピアノ。

 あの安っぽい電子音が耳に響いた気がした。


 顔を上げると、里花の興味はメニュー表のデザートに移っていた。

「香奈さんも食べます?」


 首を横に振る。

 ブラック珈琲の苦みが、口にいつまでも残っていた。


 ◇ ◆

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ