天色原画
小学校の校舎に右斜めから夕日があたる。壁面の蔦もひび割れたコンクリートも薄紅に染まり、沈黙していた。カーテンが掛かった窓は反射して朱色に映っている。
私は全体を見下ろせる土手に腰をおろし、運動場に描かれた白線を目で追った。
「ここに来るのは何年ぶりかな」
私はもう大学二年だ。一浪したから今年二十一歳。小学校を卒業式前に引っ越してしまったから、かれこれ十年近く経つ計算になる。
弟の病気で祖母の家にあずけられた。二人っきりの生活は、思い出したくない過去となる。なのにどうして訪ねる気になったのだろう、自問するが答えはでない。
考えているうちに陽は傾き、埋め込まれていたタイヤが黒く見えた。
「――あれ、もしかして里美?」
突然自転車を押す影に声を掛けられた。
「だれ」
「やっぱり平野里美かぁ。驚いた」
私はとっさに誰だか思い出せない。年恰好から言うと同年代だ。名前を知っている所をみると同級生だろうか。
「俺、わからんかな。辻井雅司」
「辻井……」
私は記憶を辿った。当時から過疎の傾向があった私の学年は総勢二十一名。かなり濃い関係だった。
「もしかして五年の時に委員長だった辻井?」
「せや」
近くでみると面影があった。大きな目はほどよく垂れて柔和を絵に描いたようだ。実際は頑固で人望はあったが、関西弁丸出しで口が悪かった。お互い、家庭に事情持ちだったもので何かと共通点があった気がする。
「遅刻常習者の辻井か」
「アホ。ギリで間に合っとったわい」
「確か小学校から一番近かった。チャイムで間に合うって豪語してたね」
「よう覚えてるやん」
記憶はひとつ思い出すと次から次へと繋がった。
「あれから弟さん元気なったか?」
「まあね。身体の方は。でも親の中では相変わらず弱いまんま。私は放ったらかし」
笑ってしまうほど居場所がない。
「辻井の方はどうなの? お母さんは」
「再婚して出て行っきょったで」
「……そう」
なんとなく触れてはいけない気がして、私は空を見上げた。
夕焼けの反対側はもう星がいくつも瞬いている。
「ここはまだまだ田舎だね」
「あん?」
「ほら、星が数えられる。そういえば昨日駅に着いた時、コンビニすらないのに驚いた」
「せやな」
周囲には手入れのされていない樹木が道のすぐ横にはみ出している。コナラ、クヌギの広葉樹。シイ、タブノキ、カシの林。本当に自然に溢れている。
もちろん良いことばかりではなく、雨が降るたびに近くの川は溢れ、校庭は水浸しになった。小学校一帯の土地が低いのだろう、通学も大変だった。
「そういえば裏山でよく絵を描いたね」
「里美はいっつも同じ樹やったな」
「辻井は空ばかりだった」
私達は小学校で同じ美術部――正しくはお絵かきクラブに所属していた。放課後になると絵の具を持って山に走っていたことを思い出す。担当の先生はいつも「良いね」と微笑んでいたっけ。
構図もデッサンも、他人の目ですら気にすることなく描いた。考えもせず、ただやりたいがままにできた。
自由という言葉に縛られることすらなかったのだ。
「空はええで。でっかくて何も言わん。何も命令せえへん。宇宙と繋がってるんや。中国語で空色は天藍。英語やったらセルリアンちゅうとこやろか」
薄暗くなっても辻井が満面の笑みを浮かべていることがわかった。
「そういえば俺、タイムカプセルに空の絵を入れてん」
「タイムカプセル?」
「せや。お前は転校して行ってもうたから知らんかもしれんな。二十歳になったら記念にみんなで寄ろ言うて埋めたんや。ほら、一番でっかい桜の木」
「二十歳って一年前だね」
「ああ。誰も来んかったけど」
「え? みんな集まらなかったの」
「だいたいが都会に出てるからな。残念というか良かったというか、俺一人で掘り出した。後で誰かが来たら見せたろと思て」
辻井はどうしてここを出なかったのか、ふと疑問に思ったが、それは尋ねてはいけない気がした。
「思い出は俺が大切に保管している。番人やな。何かあったら俺に言うたらええねん。したらそっと届けたるわ」
「……番人かあ」
「お前には俺の名作やるわ。ごっついええで」
「なんだか待っていたような口ぶりだね」
「ああ。前に学校と話したんやけど誰かが必ず必要とするて」
「え、小学校と?」
私は辻井の顔を見た。
表情はわからない。
「約束やで、明日。もらったって。ほなな」
辻井は闇に飲まれる寸前の風景に溶け込むように手を振った。もう帰れということらしい。確かに周囲は夜だ。
私は立ち上がり、答えるように手を振った。
次の日は朝から明るくカーテン越しにも強い日射しを感じた。
祖母は台所で朝食を作ってくれている。リズムよくネギを刻む音が聞こえた。
「里美、昨日はうろついていたけど今日は何をするの。急に帰って来て驚いたけど予定でもあるの」
「別に。あ、学校を覗きに行こうかな」
「学校?」
「昔、通っていた小学校。昨日は夕方に行ったんだけど誰もいなかったし」
私は何を欲しているのだろう。
考えていると、まな板の音が消えた。
「連絡しなかったんだけど、あそこ四年前に廃校になってるの。子供の人数が減って」
祖母がボソっと口にした。
「廃校って」
「建物は記念に残そうって話はあったんだけど」
「……」
「二年前の台風で川が増水してね。土石流で半壊したから更地にしたはず。あの辺りは被害が酷くてねえ。里美の同級生の確か――」
「全部言わないでっ」
私は思わず怒鳴っていた。
そしてその勢いで外に飛び出した。
わからない。
わからない。
私は昨日、学校に行った。
辻井にも会った。
あれは? 祖母がでたらめを言うはずがない。言う必要がない。だってそんなすぐにわかること、だって。
「里美ぃ」
ゆっくりした関西弁で呼ばれた気がして振り返った。
小学校へ続く道は放置された田んぼのあぜ道。遮るもののない場所は、生まれたての太陽と共に真っ青な空が占めていた。
私は目を射られ、思わず顔に手をあてる。
指の隙間から雲がゆっくり流れるのが見えた。
どこまでも遠く高く澄んで、吸い込まれそうな天色。
あの日からずっと続いているだろう空は黙っている。黙って。
……ああ、そうか。
そこに居るんだね。
微笑んで。
――受け取ったよ。
私は気がつくと小さくつぶやいていた。
心の中に帰れる場所があれば、現実を一歩踏み出せる。
そういう意味でも、過去と未来は繋がっていると思います。
この話の裏主役は小学校であり、故郷でもあります。
そして離れることがあっても、待っていてくれる時間です。