2・慰謝料について話してみました
「婚約破棄……ですか?」
ドグス様からその話を出されたのは、手紙の件から更に数ヶ月後のことだった。
前世のネット小説では、舞踏会の場で、大衆の前で……などというのがお約束だけれど。ドグス様からの婚約破棄は、実に静かなものだった。ハイドランシアの屋敷で、私と彼の二人きりで、淡々と言い渡されたのだ。
「君が俺への手紙を見たことについて、許そう、と思っていたんだ。だけど……君に疑われたことが、自分でも想像以上に、ショックだったみたいで。今でも、あのときのことを思い出しては、胸が痛むんだ。俺って君にとって、そんなに信じられない男だったんだなって」
「そんな……」
「俺のことが信用できないんだろう? そんな気持ちで、今後上手くいくはずがない。だから、この婚約は解消した方がいい。これはお互いのためだよ」
「ま、待って。確かに私にも悪いところはあったかもしれないけど、そんなことくらいで……」
「そんなこと? 俺の心の傷を、君はそんな軽いものとして扱うのか?」
「そ、そうじゃなくて」
「それに、今自分でも認めただろう? 『確かに私も悪かった』って」
「いや、それは……」
謙遜のようにとっさに言ってしまっただけの言葉で、深い意味なんてなかった。なのに彼は、「言質をとった」とばかりに長い息を吐く。
「人を疑って、人の痛みを軽んじて。君は心の汚れた人だよ。自分を見つめ直した方がいい。そんなんじゃ、この先他の男性ともやっていけないよ?」
――これ以上は何を話しても無駄だ。そう察し、ひどく空虚な気持ちになった。
「……わかりました、婚約は解消ですね。では慰謝料のお支払いについてですが……」
当然の話を切り出しただけなのに、ドグス様は「信じられない」というように大きく目を見開いた。
「俺は何も悪いことをしていない。それどころか君が俺を傷つけたのに、金をせびろうというのか? 君がそんな人だとは思わなかった」
「ですが婚約破棄となると、家同士の問題もありますし……」
「そうだ、家同士の問題だ。ディステル領には、ハイドランシア産の薬草が必要だろう? 俺と揉め事を起こすのは得策じゃないと、君だってわかるよな?」
――ハイドランシア領にある山は、危険な魔獣が多いものの、薬草が豊富に採れる。その薬草は回復薬の要であり、ディステル領の医院などでもよく使用されている。
ディステル領の森にも野生動物や魔獣が住んでおり、それによって肉や毛皮などは採取できるものの、薬草に関してはハイドランシアの方が質がいい。もしも薬草の取引を止められたら、日々魔獣達と戦う騎士や冒険者の人々が大いに困ることになるだろう。
「そんな顔しないでくれ、俺は悪魔じゃない。君が俺から金を奪おうなんてことさえ言わないでくれたら、ハイドランシアは今後もディステルと良好な関係を築いていくと誓うよ」
――まるで「俺は寛容だろう?」とばかりに、にっこりと笑って。話はそれで終わりになった。
今思えば、もっと言い返すべきだったのだろう。いっそ暴れたっていい場面だったのかもしれない。
でも、私はいつも、とっさに動けない。後から思えば「ああすればよかった」とかいろいろ出てくるのに。衝撃的なこと、傷つけられるようなことを言われるとショックで思考が固まってしまって、反射的に上手い返しをすることが難しかった。
そして、彼の屋敷を出ようとしたところで……ドグスの母親に声をかけられた。
婚約者として、何度も顔を合わせたことがある人だ。「この人が私のお母様になるのだ」と思っていたし、彼女の期待に応えられるよう、今まで上手くやっていたと思っていたのだが――
「ドグスから、婚約破棄について、聞いたのよね? その……あの子の気持ちもわかってあげて? あの子は優しいから、あなたに本心を告げるのも、辛かったはずなの」
彼女は困ったように笑って、親としての謝罪も、慰謝料についても一言も述べなかった。
「まあ、そんなに落ち込まないでね。あなたなら、きっといいご縁に恵まれると思うから」
そんなわけがなかった。
――社交界に、「フィオーレ・ディステルが婚約破棄された」という噂がひろまるのは、あっという間だった。
ネット小説ではよくある「婚約破棄」だが、本来はそんな簡単に行われるものではなく、不名誉極まりないことだ。貴族界において、もともと別の誰かの婚約者だった女を欲しがる男性はほぼいないし、私と婚約することでハイドランシア家を敵に回す可能性だって考えるだろう。
婚約破棄「された」女。よほど何か難があるのだろうと敬遠され、白い目で見られ、結局私は良縁に恵まれなかった。パートナーがいないことと、ドグスと顔を合わせたくないという思いから、社交界に顔を出すのも気まずくなり、次第に孤立していった。私が、友人だと思っていた人達も……。
「え? あ~、その……婚約破棄はかわいそうだけど、まあドグス様のご都合もあるし、仕方ないよね。うちとしても、ハイドランシア家を敵に回したくはないし……もう話しかけないでくれる?」
「ていうか、婚約を破棄されるなんて、フィオーレにも原因があったんじゃないの? よく知らないけどさ。でも私ならもっと上手くやったけどな~」
皆、人が変わったかのように、より身分の高いドグスの方につくことを選んだ。寄り添ってくれることなどなく、弱っていた私を責め、追い打ちをかけた。私がドグスの婚約者だったときは対等な関係を築けていたはずだが、婚約破棄された女など「格下」だと認定したのだろう。
一方、ドグスは華々しい日々を送っているようだ。ローズ様も、相変わらず「花の妖精」として、社交界で愛されているらしい。
前世と違い、娯楽なんて皆無に等しい世界だ。貴族のゴシップは民にとって恰好のエンタメである。市井に出れば、噂は嫌でも耳に入ってきた。それに、社交界と距離を置くようになったとはいえ、仮にも貴族として出席しなければならない会というのもある。――だからこそ。
ドグスと、ローズ様の。二人が幸せそうにしている噂が。
嫌でも、耳に入ってきたのだ。