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第09話 二人の約束

 ◆◇◆◇◆


 黒川くろかわさんとの約束だった分の作業を、ようやく終えることができた。

 とはいえ、彼女の方はまだ続けているようだった。休み時間が終わっても、机の下でスマホをそっといじり、わずかに顔を伏せて誰にも気づかれないようにしている。


 その集中ぶりはすさまじく、まるで彼女だけ別の世界に入り込んでいるようだった。

 見ているこちらの方が、先生に見つかりやしないかと心配になるほどだ。


 メッセージでも送ってみようかと思ったが、もし音が鳴ったら逆に目立ってしまう。

 結局、ただ静かに様子をうかがうしかなかった。


 彼女の指先は驚くほど速かった。

 ちらりと教室の様子を確認したかと思うと、すぐに画面に視線を戻し、滑らかに文字を打ち込んでいく。

 ときにはスマホを見ずに、指先だけで文章を打っていることさえあった。

 まるで、言葉が自然にあふれ出しているみたいだった。


 二十分ほど経ったころだろうか。

 ようやく彼女は手を止め、スマホを机の下に隠しながら小さく息を吐いた。

 その吐息には、達成感と安堵あんどが入り混じっていた。


 ――今回は、どんな内容なんだろう。


 そう思いながら、俺は窓の外に視線を向けた。昼の光がぼんやりと教室に差し込み、黒川さんの横顔を柔らかく照らしていた。


 ◆◇


 アパートに戻ると、約束していた通り、お互いに書いたものを見せ合うことにした。

 先にリビングへ向かい、机の上にスマホを置いて画面のページ数を確認する。


「……二十ページ?」


 思わず声が漏れた。

 彼女の集中力は本当に恐ろしい。まるで一日中、その物語だけに全てを注いできたみたいだった。


 きっと、強い“衝動”のようなものが彼女を突き動かしていたのだろう。

 ――あの時の表情を思い出す。まるで、書くことが呼吸のように自然だった。


 彼女はすでに自室へ入っていて、おそらく俺の書いた分を読むのは後になる。

 なら、俺も彼女の作品を読むとしよう。

 ……単純に、気になるのだ。あれほど夢中に書いていた“理由”が。


 自分の部屋に戻って着替えを済ませ、廊下に出たときだった。


 洗面所の前に立っている黒川さんが目に入った。

 タオルで濡れた髪をゆっくりと拭きながら、白いパジャマを着ている。

 ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、湿った髪が肩に貼りついて光っていた。


 時間の流れが止まったように感じた。


「……どうかしたの、和泉いずみくん?」


 不意に名前を呼ばれて、思考が現実に引き戻される。


「えっと、いや……なんでもない。」


「そう? ……ふふっ。」

 小さく笑うその声が、なぜか耳の奥に残った。


「さ、読もうか。今日書いた分。」


 俺たちはリビングのテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの作品を読み始めた。

 やはりというべきか、彼女の方が読むのも書くのも早い。

 俺の文章なんて、ページ数でいえば半分にも満たない。


 彼女の作品を読み進めていくと、前回と似た構成が目についた。

 ゆっくりとした導入、そして少しずつ惹きつけていく展開。

 最初は地味に見えるのに、気づけば目が離せなくなるタイプの物語だ。


 ただ、舞台設定や展開には既視感があった。

 主人公は今度は男子生徒になっていたが、学校という舞台は変わらない。

 前よりも“王道”寄りの雰囲気になっていた気がする。


 要素は増えていたが、基本の構造は前と同じ。

 率直に言えば――悪くはない。だが、どこかで見たことがあるような感覚もあった。


「まあ、俺の方が出来はいいと思うけどな……」

 そう心の中でつぶやきながら、ページを閉じた。


 向かいで彼女は俺の原稿を読み終え、驚いたように目を丸くしていた。


 互いの読みが終わると、机の上にスマホを置き、感想を交わし始めた。


「おもしろいけど、前回と比べるとあまり変わってない気がする。」


「“変わってない”って、どういう意味?」


「設定とか展開とか、だいたい同じだよ。登場人物の性別が変わったくらいで。」


 黒川さんは少し困ったように笑って、それから考え込むように視線を落とした。

 前よりずっと、文のまとまりはよくなっている。それだけに、彼女なりの悩みが見える。


 やがて、彼女はスマホを手に取り、前の原稿と見比べ始めた。


「……ほんとだ。ほとんど同じね。」

 そして、かすかな声でつぶやいた。

「こうすれば……もっと和泉くんに気に入ってもらえると思ったのに。」


 聞き逃すには十分小さな声だった。

 それでも、胸の奥がかすかにざわついた。


「じゃあ、次はあなたの番ね。感想、聞かせて。」


 彼女が顔を上げ、真っすぐこちらを見つめてきた。

 その瞳の奥に、わずかな期待と緊張が混じっているように見えた。



「そうだな……てっきり俺と同じように書き直すのかと思ってたけど、今回はずいぶん違うみたいだな。まるで新しい挑戦って感じだ。展開も深みが出てて、ちゃんと“物語”として成り立ってる。

 ……すごいよ、黒川さん。」


「私は、同じことを繰り返すのが好きじゃないの。頭の中に浮かぶ“次の言葉”を、狭めたくないから。」


 彼女は小さくうつむき、その言葉を噛みしめるように考え込んだ。

 その横顔には、少しの苛立ちと、ほんのわずかな自己否定が混じっていた。


「……そうね。あんな中途半端な修正じゃなくて、最初からやり直すべきだった。

 私、本当にバカね。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな罪悪感が残った。

 慌てて言葉を探し、少しでも誤解を解こうとした。


「いや、そういう意味じゃない。むしろ、今回の方が良かったと思う。

 内容も面白かったし……前のバージョンとはまた違う良さがあったよ。」


 黒川さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。

 それはいつもの無表情とは違い、ほんのり柔らかい表情だった。


「……ありがとう。慰めてくれてるのは分かってるけど、でも嬉しい。

 次は、もう少し別の物語を考えてみようかな。

 ねえ、どう思う? この二つの話、どっちも試しに投稿とうこうしてみるのは?」


「別々に? 悪くないけど……どっちか一つに絞って、完成させた方がいいかもな。」


「つまり、どっちの物語にするかを決めるってことね。

 それに、今後の展開も一緒に考えなきゃ。……これが私たちの“最初の挑戦”なんだから。」


 彼女は顎に手を当て、テーブルの上に並ぶ二つのスマホをじっと見つめた。

 その瞳には真剣な光が宿っていて、まるで小説の中の一場面のようだった。


 数秒の沈黙のあと、黒川さんは小さく息を吐き、俺のスマホを手に取った。


 ――どうやら、俺の物語の方が“採用”されたらしい。


「……決まりね。最初の作品は、この話でいきましょう。」


 その言葉に、俺は静かにうなずいた。

 それで、その日の“打ち合わせ”はひとまず終了となった。


 次の予定は、もっと現実的なこと――夕食と、夜の課題かだいだ。


 リュックを開けながら、ふと昼間のことを思い出した。

 坂本さかもとさんが黒川さんに親しげに話しかけていたあの光景。

 あの二人、まるで前からの友達みたいに自然だった。


 ……もっとも、人前では二人ともやけに冷静だったけど。

 特に黒川さんは、まるで完璧にプログラムされた機械みたいに、感情の起伏がない。


 まあ、それでも少し安心した。

 たぶん二人はもう連絡先を交換したのだろう。


 ほんの短い間で、彼女にも話せる相手ができた。

 それだけで少し、俺の中の空気が軽くなる――

 ……まあ、俺自身は十四年以上も“友達ゼロ”の人生を続けてるけど。


 別に、うらやましいとは思わない。

 本気でそう思ってる。


 一人の方が楽だ。

 他人に合わせなくていいし、時間を無駄にすることもない。


 ――少なくとも、そう“信じてきた”。


 夜。課題を終え、自室で少し時間をつぶしてからリビングへ戻る。

 いつものように、二人並んで無言で食事をとった。


 明日は週末。彼女にとっては部屋を整理する絶好の機会だろう。


「そういえば、まだ部屋の片づけ終わってないのか?」


「うん、時間がなくて。なかなか進まないの。」

 彼女は皿を見つめたまま、淡々と答える。


 今日の夕食はカレーライス。

 香辛料こうしんりょうの香りが部屋に広がり、炊き立てのご飯の湯気が湯呑を曇らせた。


「明日、手伝おうか? 予定ないし。」


 黒川さんはわずかにうなずいた。

 その仕草は控えめだったけれど、確かに“了承”の意思があった。


 ――それが、その夜、最後の会話になった。


 明日には、俺たちが選んだ“物語”の続きを決めなければならない。


 * * *


 翌朝。

 結局、約束したくせに、目が覚めたのは予定よりずっと遅かった。


 ドアの向こうから、黒川さんが軽くノックする音が響いた。

「コン」と一度だけ――それでも、なぜか心臓が跳ねる。


「……っ」


 眠気に負けながら、俺は体を起こした。

 最近は夜更かしが続いていて、昨夜も気づけば深夜を過ぎていた。


 重たいまぶたを無理やりこじ開け、足に力を入れる。

 立ち上がった瞬間、まだ夢の中にいるような感覚に襲われた。


 軽く伸びをして気分を切り替えようとするが、あまり効果はない。


 ドアを開けると、そこに黒川さんがいた。

 いつもの冷静な表情で、廊下に立ったまま俺を待っていた。


 それでも、彼女は何も言わなかった。

 ただ静かに背を向け、音もなく廊下を歩き去っていった。


 あまりに突然のことだったから、言葉も、反応もできなかった。


「おはよう、黒川さん。」


「おはようございます、和泉くん。朝ごはん、できてます。」


 その声は、いつもより少し冷たく感じられた。

 思わず、「何かあったのか」と口に出しそうになる。


「……機嫌、悪い? 何かあった?」


「…………」


 一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。

 その沈黙こそが、何かを隠している証拠だった。


 朝食の間、彼女は一言も話さなかった。

 箸の音と、時計の針の音だけが、部屋に響いていた。

 まるで僕が何か悪いことをしたような、そんな息苦しい静けさ。


 どうすれば彼女の機嫌を直せるのか、答えは見えなかった。


「……やっぱり、何かあったんだよね?」


「……そう。でも、あなたのことじゃないの。ただ、少し別のこと。気にしないで。」


 そう言われても、気にならないわけがない。


「話してみてよ。もしかしたら、力になれるかもしれない。」


 その言葉に、黒川さんは驚いたように顔を上げた。

 その瞳には、どこか弱さが宿っていた。


「……本当に、助けてくれるの?」


 少し震える声。

 僕は迷わずうなずいた。


 すると、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。

 ほんの一瞬の、柔らかい表情だった。


「……わかった。じゃあ、朝ごはんのあとで見せるね。」


 何を「見せる」のかは分からなかったけれど、

 彼女が真剣なのは伝わってきた。


 朝食を終え、皿洗いを手伝ったあと、僕たちは彼女の部屋へ向かった。

 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に息をのむ。


 壁際に、いくつものゴミ袋が積み上げられていた。

 見た目よりもずっと重そうで、すぐに「これか」と察した。


「これが問題。昨日言ってたでしょ? 手伝ってくれるって。ありがとうね。」


 確かに、そう約束していた。

 ここで逃げるわけにはいかない。


 僕は数袋を持ち上げ、玄関へ運んだ。

 袋の口を押さえながら、できるだけ静かに動かす。

 黒川さんも「一緒に持つ」と言って譲らなかった。


 最後の袋は、特に重かった。

 二人で持つしかない。


 僕が後ろを持ち、彼女が前を持って歩き出した瞬間——


「わっ……!」


 足が袋の端に引っかかり、バランスを崩す。

 次の瞬間、僕はそのまま彼女の背中に倒れ込んでいた。


「きゃっ——!」


 二人とも床に倒れたまま、息が詰まるような沈黙。


 至近距離で見つめ合う形になり、

 彼女の頬は真っ赤に染まり、目を見開いたまま固まっていた。


 息が触れるほど近い。

 彼女の髪からは、洗い立ての甘い香りが漂ってきた。


 ——早く離れなきゃ。


 そう思っても、身体は動かない。

 時間が止まったようだった。


 もし誰かに見られたら、完全に誤解される。


 その直後、玄関の方で「ガサッ」という音が響いた。

 同時に、小さな悲鳴が聞こえた。


 僕と黒川さんは、同時にそちらを振り向いた。


 そこには、明るい茶色の髪をした少女が立っていた。

 年の頃は十三歳くらい。目をぱちくりさせ、次第に笑顔を浮かべる。


「……え?」


 黒川さんはぽかんとしたまま動かず、

 僕はようやく現実を理解した。


「ま、まさか……真耶まや……?」


 そう、妹の真耶だった。


 僕が何か言う前に、彼女は駆け寄ってきて、黒川さんの手をぎゅっと握った。


「お兄ちゃん、なんで彼女がいるなんて言ってくれなかったの!? しかも、すっごく可愛いじゃん! ねぇ、抱きしめていい!?」


「ちょ、ちょっと待って! か、彼女って——!?」


「え、ええ……そうよ。あなたが和泉くんの妹さんね?」


 黒川さんの頬はりんごのように赤く、声も震えていた。


 僕は頭の中が真っ白になった。

 よりによって、なんでそんなことを……!?


 でも、今さら否定すれば余計ややこしくなる。


 ——仕方ない。今は、乗るしかない。


 問題は、この「嘘」をどこまで続けられるか、だ。

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