第09話 二人の約束
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黒川さんとの約束だった分の作業を、ようやく終えることができた。
とはいえ、彼女の方はまだ続けているようだった。休み時間が終わっても、机の下でスマホをそっといじり、わずかに顔を伏せて誰にも気づかれないようにしている。
その集中ぶりはすさまじく、まるで彼女だけ別の世界に入り込んでいるようだった。
見ているこちらの方が、先生に見つかりやしないかと心配になるほどだ。
メッセージでも送ってみようかと思ったが、もし音が鳴ったら逆に目立ってしまう。
結局、ただ静かに様子をうかがうしかなかった。
彼女の指先は驚くほど速かった。
ちらりと教室の様子を確認したかと思うと、すぐに画面に視線を戻し、滑らかに文字を打ち込んでいく。
ときにはスマホを見ずに、指先だけで文章を打っていることさえあった。
まるで、言葉が自然にあふれ出しているみたいだった。
二十分ほど経ったころだろうか。
ようやく彼女は手を止め、スマホを机の下に隠しながら小さく息を吐いた。
その吐息には、達成感と安堵が入り混じっていた。
――今回は、どんな内容なんだろう。
そう思いながら、俺は窓の外に視線を向けた。昼の光がぼんやりと教室に差し込み、黒川さんの横顔を柔らかく照らしていた。
◆◇
アパートに戻ると、約束していた通り、お互いに書いたものを見せ合うことにした。
先にリビングへ向かい、机の上にスマホを置いて画面のページ数を確認する。
「……二十ページ?」
思わず声が漏れた。
彼女の集中力は本当に恐ろしい。まるで一日中、その物語だけに全てを注いできたみたいだった。
きっと、強い“衝動”のようなものが彼女を突き動かしていたのだろう。
――あの時の表情を思い出す。まるで、書くことが呼吸のように自然だった。
彼女はすでに自室へ入っていて、おそらく俺の書いた分を読むのは後になる。
なら、俺も彼女の作品を読むとしよう。
……単純に、気になるのだ。あれほど夢中に書いていた“理由”が。
自分の部屋に戻って着替えを済ませ、廊下に出たときだった。
洗面所の前に立っている黒川さんが目に入った。
タオルで濡れた髪をゆっくりと拭きながら、白いパジャマを着ている。
ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、湿った髪が肩に貼りついて光っていた。
時間の流れが止まったように感じた。
「……どうかしたの、和泉くん?」
不意に名前を呼ばれて、思考が現実に引き戻される。
「えっと、いや……なんでもない。」
「そう? ……ふふっ。」
小さく笑うその声が、なぜか耳の奥に残った。
「さ、読もうか。今日書いた分。」
俺たちはリビングのテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの作品を読み始めた。
やはりというべきか、彼女の方が読むのも書くのも早い。
俺の文章なんて、ページ数でいえば半分にも満たない。
彼女の作品を読み進めていくと、前回と似た構成が目についた。
ゆっくりとした導入、そして少しずつ惹きつけていく展開。
最初は地味に見えるのに、気づけば目が離せなくなるタイプの物語だ。
ただ、舞台設定や展開には既視感があった。
主人公は今度は男子生徒になっていたが、学校という舞台は変わらない。
前よりも“王道”寄りの雰囲気になっていた気がする。
要素は増えていたが、基本の構造は前と同じ。
率直に言えば――悪くはない。だが、どこかで見たことがあるような感覚もあった。
「まあ、俺の方が出来はいいと思うけどな……」
そう心の中でつぶやきながら、ページを閉じた。
向かいで彼女は俺の原稿を読み終え、驚いたように目を丸くしていた。
互いの読みが終わると、机の上にスマホを置き、感想を交わし始めた。
「おもしろいけど、前回と比べるとあまり変わってない気がする。」
「“変わってない”って、どういう意味?」
「設定とか展開とか、だいたい同じだよ。登場人物の性別が変わったくらいで。」
黒川さんは少し困ったように笑って、それから考え込むように視線を落とした。
前よりずっと、文のまとまりはよくなっている。それだけに、彼女なりの悩みが見える。
やがて、彼女はスマホを手に取り、前の原稿と見比べ始めた。
「……ほんとだ。ほとんど同じね。」
そして、かすかな声でつぶやいた。
「こうすれば……もっと和泉くんに気に入ってもらえると思ったのに。」
聞き逃すには十分小さな声だった。
それでも、胸の奥がかすかにざわついた。
「じゃあ、次はあなたの番ね。感想、聞かせて。」
彼女が顔を上げ、真っすぐこちらを見つめてきた。
その瞳の奥に、わずかな期待と緊張が混じっているように見えた。
「そうだな……てっきり俺と同じように書き直すのかと思ってたけど、今回はずいぶん違うみたいだな。まるで新しい挑戦って感じだ。展開も深みが出てて、ちゃんと“物語”として成り立ってる。
……すごいよ、黒川さん。」
「私は、同じことを繰り返すのが好きじゃないの。頭の中に浮かぶ“次の言葉”を、狭めたくないから。」
彼女は小さくうつむき、その言葉を噛みしめるように考え込んだ。
その横顔には、少しの苛立ちと、ほんのわずかな自己否定が混じっていた。
「……そうね。あんな中途半端な修正じゃなくて、最初からやり直すべきだった。
私、本当にバカね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな罪悪感が残った。
慌てて言葉を探し、少しでも誤解を解こうとした。
「いや、そういう意味じゃない。むしろ、今回の方が良かったと思う。
内容も面白かったし……前のバージョンとはまた違う良さがあったよ。」
黒川さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑んだ。
それはいつもの無表情とは違い、ほんのり柔らかい表情だった。
「……ありがとう。慰めてくれてるのは分かってるけど、でも嬉しい。
次は、もう少し別の物語を考えてみようかな。
ねえ、どう思う? この二つの話、どっちも試しに投稿してみるのは?」
「別々に? 悪くないけど……どっちか一つに絞って、完成させた方がいいかもな。」
「つまり、どっちの物語にするかを決めるってことね。
それに、今後の展開も一緒に考えなきゃ。……これが私たちの“最初の挑戦”なんだから。」
彼女は顎に手を当て、テーブルの上に並ぶ二つのスマホをじっと見つめた。
その瞳には真剣な光が宿っていて、まるで小説の中の一場面のようだった。
数秒の沈黙のあと、黒川さんは小さく息を吐き、俺のスマホを手に取った。
――どうやら、俺の物語の方が“採用”されたらしい。
「……決まりね。最初の作品は、この話でいきましょう。」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
それで、その日の“打ち合わせ”はひとまず終了となった。
次の予定は、もっと現実的なこと――夕食と、夜の課題だ。
リュックを開けながら、ふと昼間のことを思い出した。
坂本さんが黒川さんに親しげに話しかけていたあの光景。
あの二人、まるで前からの友達みたいに自然だった。
……もっとも、人前では二人ともやけに冷静だったけど。
特に黒川さんは、まるで完璧にプログラムされた機械みたいに、感情の起伏がない。
まあ、それでも少し安心した。
たぶん二人はもう連絡先を交換したのだろう。
ほんの短い間で、彼女にも話せる相手ができた。
それだけで少し、俺の中の空気が軽くなる――
……まあ、俺自身は十四年以上も“友達ゼロ”の人生を続けてるけど。
別に、うらやましいとは思わない。
本気でそう思ってる。
一人の方が楽だ。
他人に合わせなくていいし、時間を無駄にすることもない。
――少なくとも、そう“信じてきた”。
夜。課題を終え、自室で少し時間をつぶしてからリビングへ戻る。
いつものように、二人並んで無言で食事をとった。
明日は週末。彼女にとっては部屋を整理する絶好の機会だろう。
「そういえば、まだ部屋の片づけ終わってないのか?」
「うん、時間がなくて。なかなか進まないの。」
彼女は皿を見つめたまま、淡々と答える。
今日の夕食はカレーライス。
香辛料の香りが部屋に広がり、炊き立てのご飯の湯気が湯呑を曇らせた。
「明日、手伝おうか? 予定ないし。」
黒川さんはわずかにうなずいた。
その仕草は控えめだったけれど、確かに“了承”の意思があった。
――それが、その夜、最後の会話になった。
明日には、俺たちが選んだ“物語”の続きを決めなければならない。
* * *
翌朝。
結局、約束したくせに、目が覚めたのは予定よりずっと遅かった。
ドアの向こうから、黒川さんが軽くノックする音が響いた。
「コン」と一度だけ――それでも、なぜか心臓が跳ねる。
「……っ」
眠気に負けながら、俺は体を起こした。
最近は夜更かしが続いていて、昨夜も気づけば深夜を過ぎていた。
重たいまぶたを無理やりこじ開け、足に力を入れる。
立ち上がった瞬間、まだ夢の中にいるような感覚に襲われた。
軽く伸びをして気分を切り替えようとするが、あまり効果はない。
ドアを開けると、そこに黒川さんがいた。
いつもの冷静な表情で、廊下に立ったまま俺を待っていた。
それでも、彼女は何も言わなかった。
ただ静かに背を向け、音もなく廊下を歩き去っていった。
あまりに突然のことだったから、言葉も、反応もできなかった。
「おはよう、黒川さん。」
「おはようございます、和泉くん。朝ごはん、できてます。」
その声は、いつもより少し冷たく感じられた。
思わず、「何かあったのか」と口に出しそうになる。
「……機嫌、悪い? 何かあった?」
「…………」
一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。
その沈黙こそが、何かを隠している証拠だった。
朝食の間、彼女は一言も話さなかった。
箸の音と、時計の針の音だけが、部屋に響いていた。
まるで僕が何か悪いことをしたような、そんな息苦しい静けさ。
どうすれば彼女の機嫌を直せるのか、答えは見えなかった。
「……やっぱり、何かあったんだよね?」
「……そう。でも、あなたのことじゃないの。ただ、少し別のこと。気にしないで。」
そう言われても、気にならないわけがない。
「話してみてよ。もしかしたら、力になれるかもしれない。」
その言葉に、黒川さんは驚いたように顔を上げた。
その瞳には、どこか弱さが宿っていた。
「……本当に、助けてくれるの?」
少し震える声。
僕は迷わずうなずいた。
すると、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。
ほんの一瞬の、柔らかい表情だった。
「……わかった。じゃあ、朝ごはんのあとで見せるね。」
何を「見せる」のかは分からなかったけれど、
彼女が真剣なのは伝わってきた。
朝食を終え、皿洗いを手伝ったあと、僕たちは彼女の部屋へ向かった。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に息をのむ。
壁際に、いくつものゴミ袋が積み上げられていた。
見た目よりもずっと重そうで、すぐに「これか」と察した。
「これが問題。昨日言ってたでしょ? 手伝ってくれるって。ありがとうね。」
確かに、そう約束していた。
ここで逃げるわけにはいかない。
僕は数袋を持ち上げ、玄関へ運んだ。
袋の口を押さえながら、できるだけ静かに動かす。
黒川さんも「一緒に持つ」と言って譲らなかった。
最後の袋は、特に重かった。
二人で持つしかない。
僕が後ろを持ち、彼女が前を持って歩き出した瞬間——
「わっ……!」
足が袋の端に引っかかり、バランスを崩す。
次の瞬間、僕はそのまま彼女の背中に倒れ込んでいた。
「きゃっ——!」
二人とも床に倒れたまま、息が詰まるような沈黙。
至近距離で見つめ合う形になり、
彼女の頬は真っ赤に染まり、目を見開いたまま固まっていた。
息が触れるほど近い。
彼女の髪からは、洗い立ての甘い香りが漂ってきた。
——早く離れなきゃ。
そう思っても、身体は動かない。
時間が止まったようだった。
もし誰かに見られたら、完全に誤解される。
その直後、玄関の方で「ガサッ」という音が響いた。
同時に、小さな悲鳴が聞こえた。
僕と黒川さんは、同時にそちらを振り向いた。
そこには、明るい茶色の髪をした少女が立っていた。
年の頃は十三歳くらい。目をぱちくりさせ、次第に笑顔を浮かべる。
「……え?」
黒川さんはぽかんとしたまま動かず、
僕はようやく現実を理解した。
「ま、まさか……真耶……?」
そう、妹の真耶だった。
僕が何か言う前に、彼女は駆け寄ってきて、黒川さんの手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん、なんで彼女がいるなんて言ってくれなかったの!? しかも、すっごく可愛いじゃん! ねぇ、抱きしめていい!?」
「ちょ、ちょっと待って! か、彼女って——!?」
「え、ええ……そうよ。あなたが和泉くんの妹さんね?」
黒川さんの頬はりんごのように赤く、声も震えていた。
僕は頭の中が真っ白になった。
よりによって、なんでそんなことを……!?
でも、今さら否定すれば余計ややこしくなる。
——仕方ない。今は、乗るしかない。
問題は、この「嘘」をどこまで続けられるか、だ。




