第03話 大きな夢
和泉慧翔の完璧な物語を一緒に作ろう───
そんな奇妙な提案のあと、私たちは並んでアパートへと戻った。
一緒に暮らそう、彼はそう言ってくれたけれど、まだその時ではなかった。
まずは荷物をまとめなければならないし、何より小説を完成させる必要がある。……あるいは、もう少し引き延ばすという選択肢も、悪くはなかった。
エレベーターに乗り込むと、夕暮れの柔らかな橙色の光が金属の壁に反射して揺れていた。
慧翔は黙ったままだった。まるで高校でのあのやりとりが、本当にただの“演技”だったかのように。
──別に、気にしているわけじゃない。
でも、あの約束はなかったことにされている気がした。
冷静に考えてみれば、それって結構マズいかもしれない……特に、私の両親にとっては。
エレベーターの低い振動音が、私の思考を静かに深く引きずり込んでいく。
数日前、私は両親と激しくぶつかった。
彼らは決して、私を信じてくれなかった。
私が夢を追えば、どんな可能性を広げられるかなんて、最初から理解するつもりすらなかった。
昔からずっとそうだった。
「私たちの望む生き方をしなさい」
その一言が、何度私の中の声をかき消したか。
肩にのしかかる見えない重圧──できることなら、今すぐにでも解き放たれたい。
幼い頃から、小説が好きだった。
世界中の物語を読みあさり、それぞれの文体や色彩に触れていくうちに、いつしか「自分も書きたい」と思うようになっていた。
けれど、ライトノベルに出会ったのは、十二歳の誕生日のことだった。
その年、祖父母が両親を説得して、日本への留学を認めさせてくれた。
両親は渋々承諾したが、それがすべての始まりだった。
あの頃から、両親は私の夢を壊そうとし始めた。
でも──祖父母のおかげで、その夢はむしろ強くなった。
「夢を追いなさい」
そう言ってくれた彼らには、心から感謝している。
……でも、今となっては、母と父は“敵”になってしまった。
ならば、私は戦うしかない。
それが起こったのは、私が十二歳の時だった。
その日、私はとても感動した小説を読んで、自分のノートに物語を書き始めた。
学校からの帰り道、次の章のアイデアで頭がいっぱいだった。胸の奥が、ぽうっと温かくなっていた。
私が書いていたのは、親の期待に縛られながらも、本当は自由を求める少女の物語だった。
それは───私自身の願いでもあった。
でも、その時だった。家の近くまで来たとき、黒い煙が庭から立ちのぼっているのが見えた。
燃え尽きた紙片が宙を舞い、すでに原型を留めていなかった。そのすぐ後ろで、風にあおられながら、私の小説の挿絵の一枚が儚く漂っていた。まるで、自らの運命に逆らおうとしているかのように。
何が起こっているのか、頭が理解を拒んだ。でも、身体のほうが先に動いていた。
私は走った。信じたくなかった。信じられるはずがなかった。
家はいつもならすぐそばにあるはずなのに、そのときばかりは、どれだけ走っても遠ざかっていくように思えた。
黒煙を目印に裏庭へ駆け込む。そこには、決して燃えてはならないものが、業火に包まれていた。
そして──彼女がいた。
炎の前に立ち、無表情で、本をゴミのように放り込んでいく母の姿が。
それは私の──ライトノベルだった。
痛かった。
叫びたかった。泣きたかった。
でも、泣いたら、負けた気がしてしまう。
目が熱くなった。それでも、私は目を逸らさなかった。
ただ、無力に見つめるしかなかった。
私の努力が、私の情熱が、炎に呑まれていくのを。
そのとき、母の手に握られているものが目に入った。
私の身体が震えた。
「母! 何してるの⁉ どうしてこんなことを……! そのノートだけは……お願いだから……!」
必死だった。ただのわがままのように響く声だった。
けれど、母の手が止まった。
一瞬だけ。
その間に母はノートを開き、最初の数ページに目を通した。
その表情が変わる。
「……そう。あなた、こんな人間になりたいのね?」
その声には、軽蔑の色が滲んでいた。
母は勢いよくノートを閉じ、炎に向かって一歩踏み出した。
「これが、あんたのやっていたこと……そういうことね? なら、燃えたくなければ取り戻してみなさい」
その瞬間、すべてが決まった。
母は──ノートを放った。
そして私は、理性を失った。
母が背を向けて立ち去る中、私の頭は必死に回転していた。どうにかしなければ。何としてでも、取り戻さないと。
でも、炎が。
手を入れれば、火傷するかもしれない。
……そんなの、どうでもいい。
私は靴を脱ぎ、炎に向かって突き出した。盾にするように、ノートをかき出すように。
必死だった。
怖かった。でも、それ以上に──
絶対に、諦めたくなかった。
ようやく引きずり出したとき───私の手は震えていた。
ノートの端は焦げ、いくつかのページは完全に失われていた。
残った部分ですら、読めるかどうか分からなかった。
それでも。
私は、そのノートに一年分のすべてを詰め込んでいたのだ。
あと少しで、完成するはずだったのに。
でも今は──。
あの夜、私は声を殺して泣いた。これまでにないほどに。
まるで、言葉そのものを奪われたような気がした。
まるで、何があっても二度と書かせまいとするかのように。
現在、私の部屋は見違えるほど綺麗だった。
そして、私の手の中には、あの時のままのノートがあった。
焼け焦げた跡は今も残っている。あの日から、私はこのノートを手放したことがない。どこへ行くにも持ち歩き、今、一人暮らしをしているこの部屋にも置いてある。
箱の中には他にも小説が入っていた。色褪せることのない物語が、そこには詰まっていた。でも今は、それを開くべき時ではない。
眠る前、私はノートパソコンを開いて、今日書き上げた最新話を投稿した。細かい部分を確認して、誤字を修正して、ようやく「公開」ボタンを押す。
特に期待はしていなかった。
最近の読者は、たった二十人ほどしかいない。
それでも——諦めるつもりはなかった。
投稿を終えると、Xでリンクを共有した。誰かが読んでくれることを、ほんの少しだけ願いながら。
そして私は布団に潜り、明日が新しい一日になることを信じた。
きっと、大きな変化が訪れる日。
なぜなら、ある疑問が頭の片隅から離れなかったから——
彼と一緒に、どんな小説を書こうか?
その答えを知るのが、待ちきれなかった。
◇◆◇◆
翌朝、私は早く目を覚ました。
今日は、一人暮らしを終え、初めて「親の金に頼らず生きる日」だ。もしかしたら、これで本当の自由を手にできるかもしれない。でも、その実感はまだ胸の奥に沈んでいた。
自分の人生で何を望んでいるのか——それを知っているのは、私だけ。小説を書くこと、それが何よりの願い。男の子と一緒に暮らすことになっても、特に問題がないなら、それでいい。
そんな考えが頭の中を巡っていたが、私はまだベッドから出ていなかった。朝食のことを考える前に、まず洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。
家には食べ物がなかった。でも幸い、クレジットカードにはあと二週間分の生活費が残っている。
鏡に映った自分の顔は、どこかぼんやりしていた。まるで、これから訪れる変化をまだ受け入れきれていないかのように。ため息をついて、もう一度水で顔を洗い、洗面所を出た。
外出するために、長ズボンを履き、帽子をかぶった。なるべく目立ちたくなかった。
サンダルを履こうとした時、玄関の隅にゴミ袋が一つ残っているのに気づく。どうせ外に出るなら、ついでに捨てた方がいい。
右手にゴム手袋をはめ、ゴミ袋を持って階段を下りる。指定されたゴミ置き場にゴミを置いた後、そのまま近くの食料品店へ向かった。
自動ドアが静かに開き、私は迷うことなく中へ入った。誰にも気づかれないだろうと思っていたが、なぜか誰かの視線を感じた。私の姿は、思ったよりも目立っていたのかもしれない。それでも気にせず、棚の方へ向かう。
インスタントラーメンを三つ手に取ってレジに向かおうとしたとき、ふとある考えが浮かんだ。
一瞬立ち止まり、新鮮な食材コーナーへ足を向ける。
たまには、ちゃんとした食事をするのも悪くない。それに、今夜からは——もう一人じゃない。
せめて今日くらいは、料理をしよう。
しばらく作っていなかったけど、試してみる価値はある。
何より、彼は私の願いを受け入れてくれた。そのお礼に、何か作ってあげたい。
私は白米とカレーを作るための材料を買うことにした。彼も、久しく手作りの料理を食べていないかもしれないから。
会計を済ませて外に出ると、さっきまで感じていた視線は、すっかり消えていた。
帰り道、ゴミ置き場の近くで、見覚えのある背中を見つけた。遠くからでも、それが和泉慧翔君だと分かった。いくつものゴミ袋を運んでいるところだった。きっと彼も朝早く起きて、部屋の掃除をしていたのだろう。
私に気づいた彼は、ゴミ置き場から少し離れ、道路の向こうで私を待った。
何か言いたいことがあるのだろうか。そう思いながら、私はまっすぐ彼のもとへ歩いて行った。
昨日よりも、少し落ち着いた顔で、彼は私を見つめていた。
「黒川さん、自分のSNSはもう確認しましたか?」
その言葉と口調に、胸の奥で何かが引っかかった。まさか、何か問題でもあったのだろうか?
「いいえ、まだ見てません。あ、そういえば、私からも聞きたいことがあるんだけど。」
私が一歩近づくと、彼は建物の方へ歩き出した。
「何の話ですか?」
「一緒に暮らす前に、冷蔵庫に何か入ってるか知りたくて。あまり外出しないだろうし、学校以外で出かけることも少ないと思うから。」
「いや、実は冷蔵庫はほぼ空っぽだよ。でも、後で買い物に行くつもりだ。黒川さんが料理できるなら、交代で作るのもいいかもしれないな。」
そんな会話をしながら、私たちはエレベーターに乗り込んだ。
「分かった。ちょうど夕食の材料を買ってきたから、後で君の部屋に置いておくよ。」
彼は軽く頷き、それからエレベーター内は再び静寂に包まれた。
そのままの沈黙の中、私たちは自分たちの部屋がある階に到着し、ぎこちない雰囲気のまま、それぞれの部屋へ向かった。
自分の部屋に入ると、私はサンダルを脱ぎ、すぐにキッチンへ向かった。買ってきたものを取り出し、とりあえずシンクの横に置いた。
その後、食材を袋に戻し、今度は和泉君の部屋へ向かう準備をした。
再びサンダルを履き、彼の部屋の前まで歩いていき、インターホンを押した。
…………………………
しばらくして、彼がドアを開けた。
顔だけを覗かせていたが、ほんの一瞬だけ部屋の中が見えた。想像以上に散らかっていた。たった数秒のことだったが、それだけでなぜ彼が片付けに時間がかかると言っていたのか理解できた。
「どうかしましたか、黒川さん?」
そう言いながら彼は視線を下げ、私の持っている袋に気づいた。
それだけで、彼は察したようだった。
「夕食の材料よ。あとは任せるわ。」
私は無表情でそう伝えた。
彼は袋を受け取り、簡単に別れの挨拶をすると部屋の中へ戻っていった。
私も自分の部屋へ戻ることにした。早くインスタントラーメンを食べたくて、足早にキッチンへ向かった。
お湯を沸かしながらパソコンの電源を入れる。彼の言葉がまだ頭の中に残っていた。
パソコンが起動する間にキッチンへ戻り、お湯を止めてラーメンに注いだ。
ラーメンを持ってパソコンの前に座り、昨日の章の閲覧数を確認した。
そして、目を疑った。
たった一日で一万を超えるアクセスがあったのだ。
信じられなかった。嬉しすぎて涙が出そうだった。
こんなことが起こるなんて初めてだった。
どうして一晩でこんなことになるの?全く分からない。でも、これはきっといいことのはず。
もしかしたらXからの流入が多いのかもしれない。そう思い、アプリを開いた。
私はスマホを「おやすみモード」にしていたため、通知は一切届いていなかった。
Xを開くと、驚きはさらに大きくなった。
通知のアイコンには「+99」と表示されている。
投稿の閲覧数も膨大で、引用リツイートもたくさんあった。
そのうちの一つを開き、新しい章への感想を期待して読んだ。
……だが、期待は一瞬で砕かれた。
それは、私の作品を酷評する投稿だった。
(@true__
「このパクリ野郎が。新人作家は他人の小説を真似ることしかできないのか?文字通り、一時間前に投稿されたRenji_Kamizato先生の新作をコピペしただけじゃないか。恥を知れ。こんなのが小説を書く資格なんてない。」)
……何を言っているの?
なぜ私が和泉君の章を盗作したことになっているの?
他の引用リツイートも確認したが、ほとんど同じ内容だった。
私の大切な作品を否定する言葉が次々と目に飛び込んできた。
コメント欄を見ると、さらに胸が締めつけられた。
「小説を書くのをやめたほうがいい。他の作家の真似しかできないなんて最低だ。」
「お前みたいな奴は死んだほうがいい。」
……耐えられなかった。
パソコンから身を引き、動揺したままスマホを手に取った。
「おやすみモード」を解除し、そのままバルコニーへ向かった。
突然、雨が降り始めた。
私は苛立ちを押し殺しながら視線を落としてスマホを見つめた。
和泉君は私を騙したの?どうして彼が私と同じものを投稿できたの?
違うのは登場人物の名前だけ。ほとんどそのままじゃないか。
なぜ?
彼には何か言い分があるのだろうか?それとも……ただの偶然?
分からない。頭が追いつかない。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとした。
――そのとき、スマホが鳴った。
母からだった。
……なんでこんなときに?
ため息をつきながら、仕方なく通話を受ける。
耳にスマホを当てた瞬間、母の苛立った声が響いた。
「だから言ったでしょう? 何度も言ったわよね。あんな小説を書くのはやめなさいって。それがあなたを不幸にするだけなのよ。いい加減、恥をかかせないで。さっさと帰ってきなさい。」
母の声が、雨の音と混ざり合う。
「そのアカウントを削除して、今すぐ帰ってきなさい。心配しなくていいわ。先生方には話をつけておくから、すぐに海外の高校へ転校できるように――」
「……お願い、母。今は……少しだけ時間をちょうだい。」
そう言って、通話を切った。
私は、親の期待に沿えなかった娘。
親の望む道を歩めなかった娘。
それでも……こんな状況になってまで、私、まだ続けたいなんて、図々しいのかな……
胸元のネックレスを握りしめる。
それは祖母がくれたものだった。
唯一、私の小説を応援してくれた人。
彼女はいつも言っていた。
「……おばあちゃん、今の私は……進めてるのかな。」
その言葉を思い出しながらも、私は迷っていた。
私なんかに、本当にできるの……?夢なんて、ただの幻想じゃないの……?
それとも、結局、親の望む道を歩むしかないの?
どうしたらいいのか分からず、ただ体を丸めて、声を押し殺して泣いた。
考える時間がほしかった。まだ夢を諦めたくない。でも、何もできない。
しばらく静かに過ごした後、部屋に戻り、ベッドの端で膝を抱えた。どうすればいいのか分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
ふと、祖父母のことを思い出した。母や父が私に義務を押し付けるたび、彼らは私を守ってくれた。
「好きなことをやりたいなら、戦え。どんなに難しくても、どんなに批判されても、諦めなければ、いつか証明できるはずだ。」
そんな言葉を思い出しているうちに、気づけばもう午後一時になっていた。
その時、不意に玄関の扉が開く音がした。
鍵を閉めるのを忘れていた――けど、もうどうでもよかった。
何が起こっても構わない。もう、どうでもいい。
目を閉じかけたとき、足音がすぐそばで止まった。
「……なるほど、諦めるつもりか。本当にそれでいいのか?」
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは和泉君だった。
彼は真顔だったが、その瞳の奥には深い真剣さが宿っていた。
視線をそらし、また俯く。
彼が勝手に家に入ってきたことも、今はどうでもよかった。
でも、ふと思った。このまま彼に、約束をなかったことにしようと伝えるべきだろうか?
そう考え、口を開こうとした瞬間――
「本当に諦めるのか?」
彼の低く、真っ直ぐな声が私を遮った。
その表情と問いかけが、まるで私の心を見透かしているようで、息が詰まる。
「――……………」
何も言えないままでいると、彼はスマホを取り出し、私の方へと投げた。
「これを見ろ。少しは落ち着くはずだ。」
彼のスマホを手に取り、画面を覗き込むと、そこには彼の投稿が表示されていた。
それを見た瞬間、驚きとともに、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
(@Renji_Kamizato
「@Akane_fuji を責めるのはやめてくれ。
彼女は何も悪くない。むしろ、彼女が俺の新しい章を書くきっかけをくれたんだ。
だから、もう批判したり攻撃したりしないでほしい。
もしこれ以上続けるなら、俺が相手になる。」)
スクロールし、コメントを確認すると、さっきまで批判していた人たちが次々と謝罪の言葉を残していた。
この投稿はすでに多くの人の目に触れているようで、状況を知らない人たちまで話題にしていた。
――気づけば、和泉君は少し離れた場所にいた。
彼は静かにキッチンへ向かい、そして戻ってくると、私の前に立ち、そっとコップを差し出した。
「飲め。少し落ち着いて考えろ。」
私はゆっくりとコップを受け取り、両手で包み込むように持ち、静かに口をつけた。
冷たい水が喉を通るたびに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。
再びスマホの画面を見つめながら、表情こそ変わらなかったが、内心では安堵していた。
――この騒動が、ようやく落ち着き始めている。
「まだ、一緒に小説を書いてくれるか?」
和泉君の問いかけに、私はふと視線を落とし、少しだけ肩の力を抜いて答えた。
「……ありがとう、和泉君。でも、まだ分からない。両親が私に家に戻れって言ってて、もう小説を書くのをやめろって……。」
「そうか。」
彼はそう呟くと、ゆっくりと部屋の左側へ歩き、机の上に置かれたノートを手に取った。
パラパラとページをめくりながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、本当に夢を諦めるのか? それが、お前の望みなのか?」
………………
「――私は、書き続けたい! 諦めたくない……でも……」
私は視線を落としながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「和泉君、もし私の両親が君に立ちはだかっても、それでも私を守ってくれる? ……そんなの、無理だよね?」
彼は、迷いのない目で私を見つめた。
「お前が本気で俺と一緒にやるつもりなら、俺はお前を守る。約束する。」
「……私の家族にとって、『約束』って、石に名前を刻むのと同じくらいの意味があるんだよ。」
「石は風化する。だけど、言葉は消えない。」
彼の声は、まるで覚悟を決めたかのように変わっていた。
まさか、こんなにも真剣に答えるとは思っていなかった。
だけど――もし彼が本当にそう言うのなら、私も……。
「分かった。和泉君がその責任を受け入れるなら、私は絶対に諦めない。」
そう言いながら、私は彼の目をしっかりと見つめた。
――もう、答えは決まっている。
私はスマホを手に取り、両親に再び電話をかけた。
コール音が鳴るのは、ほんの数秒だった。
「……ママ、もう決めた。私はここで勉強を続けるし、小説も書き続ける。
ごめんなさい。でも、これが私の本当の気持ち。」
母が何か言いかける前に通話を切ろうとしたが、次の言葉で指が止まった。
「あなた、自分が今の生活費をどうやって払っているか分かっているの?
パパも私も、もう家賃は払わないつもりよ。
それでも、ここに残るつもり?」
その言葉に、私は小さく笑った。
――まるで、私の勝利を確信するかのように。
「私は、私のやり方で何とかするから。だから、その心配はいらない。」
それだけ言い残し、私は通話を切った。
胸がスッと軽くなる。長い溜息をつきながら、和泉君へと満足げな笑顔を向けた。
「……これで、全部解決したみたい。」
すると、彼は少し考え込んだ後、あっさりとした口調で言った。
「じゃあ、さっさと荷物を運ぶのを手伝うぞ。日が暮れる前にな。」
「うん、お願い。」
和泉君―― 君が今、何に巻き込まれたのか、分かってる?
君が言った『守る』という言葉は、私の家族にとって単なる約束じゃない。
それは――すなわち、求婚を意味する。
私は結婚するつもりなんてない。でも……小説を書き続けるためなら、この契約を受け入れるしかない。