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第26話 当たり前みたいな時間」

 映画を観ていると、不意に彼女がこちらを向いた。


「和泉くん……ちょっといい?」


 その一言で、胸がぎゅっと締めつけられる。


 理由は分からない。でも、妙に緊張した。


 戸惑いながらもうなずき、彼女の方を見る。


 彼女はすぐには話さなかった。


 言うべきか迷っているようで、一瞬だけ視線を揺らす。


 数秒後、小さくうなずいた。


「もし……さっきのが本当だったら、どう答えてた?」


 言い終えたあと、慌てて付け足す。


「あ、仮の話だからね? 変な意味じゃないよ」


 ……その質問は、俺自身も何度も考えていた。


「なんて言えばいいか分からないけど……今は、まだ必要ないと思う。でも、どうしても答えろって言うなら――」


 言い終わる前に。


 映画はクライマックスに差しかかり、スクリーンの中でカップルがキスを交わした。


 静まり返った館内に、そのわずかな音だけがやけに響く。


 反射的に、二人とも体が強張った。


 ……カップル割引で入ってる以上、余計に意識してしまう。


「……」 「……」


「和泉くんなら……私、嫌じゃないよ」


 小さな声だった。


「だって……私たち、カップルってことにして入ったし」


「え?」


 意味が、一瞬わからなかった。


 付き合ってるわけじゃないのに。


「ダメだろ。付き合ってないし、そういうのは……違うと思う」


 彼女は、少しだけ寂しそうに笑った。


 そのとき、彼女の髪がふわりと揺れて――


 淡く色の抜けた一筋が、視界に入る。


「……そういえば」


 空気を変えようと、口を開いた。


「その髪、戻してみたら? その色……似合ってると思う」


 彼女の目が、ぱっと明るくなる。


 自分の髪に触れながら、少し照れたように笑った。


「え? あー……和泉くんがそう言うなら、ちょっと考えてみようかな」


「絶対似合うって。周りの反応は……まあ、気になるけど。特に風紀とか」


 彼女は入学当初、髪を明るく染めていた。


 でも風紀委員になってからは、黒に戻した。


 それ以来、周囲にはどこか距離を置くようになった――俺以外には。


 今の彼女は、素直に笑っていた。


 本当に、嬉しそうに。


「ありがとう……ちょっと考えてみるね」


「うん。黒川さんがどんな顔するか、ちょっと気になるな」


 彼女は想像したのか、小さく笑った。


「うん、それはちょっと見てみたいかも」


 少し間を置いてから、続ける。


「そういえば……真希ちゃんの誕生日、近いんだよ。来月。休みの二週間くらい前」


「え、知らなかった……あ、それ言いたかったのか?」


 彼女は微笑んで、こくりとうなずいた。


 でも、その続きを口にする前に――


 映画が終わった。


 二人で顔を見合わせて、思わず笑う。


 ラストシーンの内容なんて、ほとんど頭に入っていなかった。


 本当なら、そのタイミングで手を離すべきだったのに――


 彼女は、離そうとしなかった。


 結局、手を繋いだまま映画館を出ることになった。


 彼女はもう慣れた様子だったけど、


 俺は……まだ少し落ち着かない。


 それでも、そのまま歩き続ける。


 ただ、離すきっかけを逃しただけだと思っていた。


 ――でも。


 彼女が、そっと肩に寄りかかってきた。


「今日だけは……このままでいさせて」


 小さな声だった。


「最近、ちょっと疲れてて……お兄ちゃんがまた親と揉めてて、家の空気が重いっていうか……居づらくて」


「それは……大変だな。早く落ち着くといいけど」


 彼女は深く息を吐いた。


 その横顔には、はっきりと疲れがにじんでいる。


「でも……真希ちゃんがいるから。あの子だけが、今の私の支えなの」


 どこか、弱さをにじませた声だった。


「そっか。そういう人がいるのは、いいことだと思う。でも……こんなに早く仲良くなるなんて、正直びっくりしたよ」


「えへへ……それ、全部和泉くんのおかげだよ。で、このあとどうする?」


「……どこかで何か食べるか?」


 そう言いかけた瞬間、


 彼女がそっと俺の袖を引いた。


「うちで一緒に作って食べたいな……だから、材料だけ買って帰らない?」


 少し照れたような声だった。


 吐く息が、どこか熱っぽい。


 ……結局、うなずいた。


 断る理由もなかったし――それに、久しぶりに彼女の料理が食べたかった。


 ………………………


 食材を買い、彼女の家へ向かう。


 ここに来るのは初めてだった。


 冷たい風も、さっきよりは落ち着いている。


 彼女はすぐ隣を歩いていて――


 それでも、手は離されないままだった。


 ……何か言うべきか?


 でも、それで傷つける気がした。


 そもそも――


 本当に、彼女は俺のことを好きなのか?


 それとも、ただの思い込みか。


「あ……」


 不意に、彼女が足を止めた。


 視線を上げる。


 ――黒川さん。


 なんで、ここに。


 その目には不安が浮かんでいるのに、表情は固いままだった。


 ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。


 反射的に――坂本さんの手を離した。


「黒川さん、違うんだ。俺たち、その……」


「え? いつ私、二人がデートしてるの嫌だなんて言った?」


 そう言いながらも――その表情は、まるで違うことを語っていた。


「せっかくだし……真希ちゃんも一緒にどう?」


「え? いいの? 迷惑じゃない?」


「ううん。それに、お母さんもいるし……気にしなくて大丈夫だよ」


(本当は、和泉くんと二人でいたかったけど……今日は無理そうだな)


「じゃあ……そこまで言うなら、お邪魔しようかな」


 黒川さんが一緒に来ることになって、正直少し安心した。


 彼女は迷いなく、俺たちの隣に並ぶ。


 ◇◆


「ただいまー」


「おかえり……おや、お客さん?」


「初めまして。黒川真希と申します」


「和泉慧翔です。坂本さんの友人です」


「ほほー……いつも話に出てくる子かい。ゆっくりしていきなさい」


 坂本さんの母親は、これから出かけるのか、きちんとしたスーツ姿だった。


 どうやら、あまりタイミングは良くなかったらしい。


「母さん、もう行ったほうがいいよ。このままだと遅れるでしょ」


 坂本さんは軽く背中を押す。


 どうやら、自分でなんとかするつもりらしい。


「はいはい、もう行くわよ。うちの子をよろしくね……迷惑かけなきゃいいけど」


 軽く頭を下げると、返事も待たずに家を出ていった。


 残されたのは、俺たち三人。


 この家では、彼女が一人で回しているらしい。


「よし、じゃあ始めよっか」


 坂本さんの明るい声が、キッチンから聞こえてくる。


 俺はそのまま手伝いに向かった。


 黒川さんも、一緒に。


 彼女は家に入ってからずっと、いつもの表情を崩していない。


 ……さっきまでの様子が嘘みたいに。


「ねえ、和泉くん……邪魔しちゃって、ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど」


「え? むしろ助かったよ。二人きりだったら、どうなってたか分からないし」


 黒川さんは、何も答えなかった。


 俺の言い方――というより、その安堵したような響きが、予想外だったのかもしれない。


 視線をそらす。


 そのまま俺の横をすり抜けて、先にキッチンへ向かった。


「それで……何作るの?」


 近づいたその瞬間――


 坂本さんが、黒川さんにぎゅっと抱きついた。


 まるで、支えを求めるみたいに。


 二人で小声で何か話し始めて――


 やがて、意見がまとまったようだった。

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