第22話 ちょっと危ない選択
佐藤さんと一緒に部屋を出て、エレベーターへ向かった。無言のまま階下へと降りる。言葉は交わさないのに、彼女は少しずつ僕との距離を詰めてきて、いつの間にか肩が触れそうなほど近くにいた。
「ねえねえ、私の“妹”のこと、ちゃんと頼んだよ。手を出したら許さないからね〜」
からかうような口調だったけど、一瞬、本気なのか冗談なのか迷ってしまった。
「そんなこと、するわけないです。そういう気持ちはありませんから」
ちょうどそのとき、エレベーターのドアが金属音とともに開いた。彼女もそれで納得したようだった。
ビルを出ると、冷たい風が顔を叩いた。思っていた以上に夜の空気は冷たくて、厚着をしていても肌が粟立つのを感じた。手袋を忘れたことを後悔する。こんなに寒くなるなんて、思ってもみなかった。
「寒いね…だから、手を温めたいんだけど…嫌じゃない、よね?」
「……いや、別に構いませんけど…」
「よかった、じゃあこうしよ。」
返事を待たずに、彼女は僕の手を取った。
「誰かに見られて、誤解されてもいいんですか?」と、ほとんど人のいない通りを横目に尋ねてみた。
「全然。」彼女は迷いなく答えた。「他人の評価なんて気にしない。それに、周りがどう思おうと、実際に起きてることなんて変わらないし。」
その返答は揺るぎなかった。引き下がる様子はまるでない。
僕は彼女の手を振りほどく代わりに、そっと指を絡めた。まるで、彼女の言い訳に乗ってあげているかのように。
彼女に恋愛感情はない。
それなのに…不思議な気分だった。
どこか、罪悪感もあった。
「ねえ、和泉くんは…好きな人、とかいるの?」
風にかき消されそうなほど、小さな声だった。
あんまりにも突然の質問で、虚を突かれた。
「いや、特にいないです。言われてみれば…考えたことなかったかも。」
彼女の手のひらが、じんわりと汗ばんでいくのがわかった。それでも、彼女は手を離さなかった。
「そ、そうなんだ…じゃあさ、誰かと付き合ってみたいとか、そういうの、ないの?か、勘違いしないでよ、ただの興味本位だから、ほ、ほんとにただの…」
「……わからないです。経験ないし、良いアイデアかどうかも。でも、もし付き合うなら、ちゃんと好きになった人じゃないと。今のところ…それはないですね。」
深く考えずに、ありのままを口にした。
一瞬、彼女の表情が曇ったように見えた。読み取るのは難しかったけど。
「そっか…きっと、運命の人は思ってるよりずっと近くにいるよ。和泉くんがまだ気づいてないだけで。」
面白い答えだ。それに、ちょっと混乱する。
「さあ、どうでしょう。でも今は別にいいです。誰もが楽しめる話を書くことに集中したいんで。」
「本当に小説書くの好きなんだね。ははは。」
「ええ、あなたも知ってるでしょう。ずっと前からやりたかったことだし…今さら諦めるつもりはないです。」
彼女は黙ってうなずいた。僕たちは街灯の淡い光の下を、ただ歩き続けた。アスファルトに響く足音だけが、静かに夜に溶けていく。
そして——
「和泉くんさ、こんなこと聞くの変かもしれないけど…私のこと、どう思う?」
あまりにも突然の問いかけに、足が止まった。考えるまでもなかった。
「いい友達だと思いますけど…」
「バカ!そういうことじゃなくて…女として、どう、なの…」
彼女の声はだんだん小さくなって、最後は風に消されてしまった。
「すみません、もう一度言ってもらえますか?よく聞こえなくて。」
自然に笑ってみせたけど、彼女は突然手を離すと、明らかに怒った様子で足を速めた。
何かまずいこと言っただろうか?どうして急に態度が変わったんだ…まったく、女性は理解できない。
「もし失礼なことを言ったなら、謝るよ。そういうつもりはなかったんだ。」
彼女は数歩先で立ち止まり、誇りと挑戦が混ざったような目で僕を見た。
「本当にそう思ってる?」
できるだけ誠実な表情を心がけて、うなずいた。
「…わかった。」彼女はまだ固い口調で答えた。でも、少し声が和らいだ。「許してあげる…でも、週末、一緒にあるところに行ってほしいの。」
その提案に、僕は驚いた。
今、理由を尋ねたら、また怒らせてしまうだろうな…だから、聞かないでおこう。
「いいですよ。じゃあ黒川さんにも伝えておかないと…」
「ダメ!…わ、私と、あ、あなただけ、で…」
「………………」
えっ?!
それって、デートってこと?
それで、一体どうすればいいんだ?それに、さっきまであんなに様子がおかしかったのに…
選択肢はなさそうだ。
「わかりました…行きます。」
「バカ、ただの外出だよ。デ、デートなんかじゃないから。」
そう言うと、彼女は微笑んで、少し照れくさそうに目をそらした。
「とにかく、楽しみにしてるね。ここまで送ってくれてありがとう。もう家は近いから…またね。」
彼女は先に歩き出し、街の明かりの中へ消えていった。
……………… ………………
ため息をついた。
どうやら今週末は時間を空けないといけないらしい。
黒川さんに話したら、なんて言うだろうな…
◇◆◇◆◇
はあ…なんでこんなに苦しいんだろう。二人が手をつないで出ていくのを見たあと…一体何があったんだろう。それに…なんでこんな気持ちになるんだろう。
理由もわからないのに、胸が痛む。
なんでよりによって今、こんなことに…。
無視するのが一番だ。理由すらわからないんだ。馬鹿らしい──。
布団の中で丸くなった。シーツに少しでも暖かさを求めて。ただ何も考えずに、ぼんやりと天井を見つめていた…そんなとき、ドアが開く音がした。
「ただいま、熱はどう?」
なぜだかわからないけど、彼の声を聞いた瞬間、すぐに安心した。嬉しい…そして、落ち着く。
ほとんど考える間もなく、裸足でドアの方へ歩いていた。何かに突き動かされるように、彼に会いたくなった。
ダメだ。落ち着かないと。自分に何が起きてるのか、私にもわからないんだ。きっと、考えすぎで大袈裟に感じてるだけだ。
「おかえりなさい、和泉くん。」
普通を装って、彼を迎えた。彼は上の空で、考え事をしているようだった。
「和泉くん?ねえ〜、聞こえてる?」
彼は瞬きをして、すぐに我に返った。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてた。休んでていいよ、夕飯を作るから。」
「私…もう少し良くなった気がする。お風呂に入ろうかな。」
彼はうなずいてキッチンへ向かった。歩き方はゆっくりで、まだどこか上の空だった。
「じゃあ、お風呂沸かしておくよ。」
感謝の気持ちを込めてうなずき、自分の部屋に戻った。
その時、携帯が震えた。
まひるちゃんだった。
通知を開き、読み始めると、またあの胸の痛みが蘇った。
[和泉くんと進展あったかも。今日、手つないだし、週末にデートの約束もしたの。]
呼吸が乱れた。
幸い、メッセージは続いていた。
[ちょっと無理やり感もあったけどねえへへ、罪悪感もちょっとあるかな。]
なぜか…それで少し安心した。
彼がなぜあんなに上の空だったのか、今はわかった。
思い出して微笑んでしまい、小さく笑いが漏れた。
「あの和泉くんがね…えへへ。」
[良かったね、まひるちゃん。大きなチャンスみたいだね。] 少し考えてから、そう返信した。
携帯を脇に置き、お風呂場へ向かった。湯気が立ち込め始めていて、浴槽はもう準備できていた。
キッチンの前を通ると、彼は夕食の準備に集中していた。動きは丁寧で、いつも以上に気を配っているように見えた。
最近、彼は前よりも色々と気を遣ってくれている…まるで、私が快適に過ごせているか確かめようとしているみたいに。
まひるちゃんは、良い人に目をつけたんだな。
実際…彼と付き合えるなら、どんな女の子でも幸せだろうな。
そんなことを考えながら、お風呂に入った。温かいお湯が肌を包み込み、今日初めて、本当に休める気がした。
それでも…胸の小さな痛みは、まだ完全には消えていなかった。




