第20話 早とちり
翌日。
案の定、彼女は朝食を作っていた。
今回は起こしに来なかったらしい。昨日は早めに寝たし、体内時計が戻ったのか、自然と目が覚めた。
部屋を出てすぐ目に入ったのは、エプロン姿で朝食と弁当の準備をしている彼女だった。
……なんかおかしい。
目の下にくっきりとクマができている。まるで一晩中寝ていないみたいだ。
部屋を出る前から、なんとなく嫌な予感はしていた。
「黒川さん? そのクマ……パンダみたいになってるけど。まさか、寝てないのか?」
変だよな。俺はぐっすり眠れたのに、彼女は一晩中起きていたみたいだ。
でも彼女は、フライパンの卵焼きから目を離さずに答えた。
「気にしないで。大丈夫だから」
――そう言い終わった直後、彼女の体がぐらりと揺れた。
反射的に駆け寄り、倒れる前に支える。
……熱い。
「大丈夫なわけないだろ。なんで言わなかったんだよ、具合悪いって。迷惑とか、そんなの気にしなくていいのに」
彼女は小さく首を振り、無理に笑った。
「和泉くん、バカ……私なんかのこと、気にしなくていいのに。学校行く準備しなよ。私は……大丈夫だから」
うつむきながら、どこか後悔しているような顔で目をそらす。
「こんな状態で置いていけるわけないだろ。絶対に放っておかない。学校には連絡して、事情はちゃんと伝えるから」
彼女を部屋に連れて行き、ベッドに寝かせた。
顔は、熱のせいか……それとも別の理由か、赤くなっていた。
「ちょっと待ってて。学校に連絡してくる」
彼女は弱々しくうなずき、そのまま横になった。
俺は部屋を出る。
担任に連絡して、彼女が体調を崩していることと、俺が看病することを伝えた。他の人には言わないでほしい、とも頼んでおく。
一緒に住んでいることは伏せて、今は俺しか面倒を見られる人がいない、とだけ説明した。
……深く聞かれなかったのは助かった。
さて、看病に集中しないとな。
部屋に、念のために買っておいた体温計があった。
まさに、その「念のため」が今日だったらしい。
少し探して見つけ、冷蔵庫から保冷剤も取り出す。ついでにタオルも用意した。
すぐに彼女のもとへ戻り、体温を測る。
――三十九度。
かなり高い。
彼女には相当つらいはずだ。こんな様子を見ていると、こっちまで苦しくなる。
汗を拭いてやり、額に保冷剤を当てる。
すると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
彼女は、もう限界だと言いたげな目で俺を見て、そっと手を握ってきた。
「私のことは気にしないで……学校、行きなよ……私は、大丈夫だから……」
「嫌でも残るよ。俺がそう決めたんだ。それに、君が苦しんでるのに放っておけるわけないだろ」
「和泉くん……」
(バカ……私なんかのこと、そこまで気にしなくていいのに。自分のことを優先してよ……でも、お願いだから……これ以上、近づかないで。このままじゃ、私……)
突然、黒川さんは俺の手を離し、そのまま布団に潜り込んでしまった。
…………。
え? さっきまで握ってたのに……なんで急にそんな反応なんだよ。
首を振る。
今はそんなことを考えてる場合じゃない。彼女の回復にいいものを作ってやらないと。
「何か作ってくるから。それまで休んでて」
彼女は小さくうなずき、そのまま目を閉じた。
キッチンに向かい、彼女が用意していた弁当箱を見て、思わず笑みがこぼれる。
体調が悪いのに、これを作ってたのか……。
……ほんと、すごいな。
あとでちゃんと食べよう。せっかく作ってくれたんだ、無駄にはしたくない。
でもその前に、体に優しいものを用意しないと。
最初に思い浮かんだのは味噌汁だった。
よし、材料を探すか。
幸い、母親のおかげで作り方は覚えている。問題はなさそうだ。
今、黒川さんは俺が看病している。
『看病しなかったら、小説の共同作業者がいなくなるだろ。一緒に始めたんだから、一緒に終わらせるんだ』
そう自分に言い聞かせる。
でも、本当はそれだけじゃないことも分かっている。
それでも、そう思うことで前に進める気がした。
「よし……今は余計なこと考えてる場合じゃないな」
小さく呟き、手を動かす。
――三十分後。
味噌汁ができあがった。
少し冷ましてから、彼女の部屋へ運ぶ。
中に入ると、彼女はまだ横になっていた。さっきとほとんど同じ体勢で。
違うのは、今はぐっすり眠っていることくらいだ。
起こすのはかわいそうで、そっと近づいて様子を見る。
……やっぱり。
安心しきった寝顔だった。
あまりにも無防備で、思わず隣に横になりたくなる。
……その考えは、すぐに打ち消した。
今は、こうして休んでいるのを見ていられるだけで十分だ。それ以上は、必要ない。
一瞬、彼女の家族に連絡することも考えたが、その考えはすぐに消えた。
その必要はないし……あの時のことを思い出すと、それが正しいとも思えなかった。
……やっぱり、俺が看るしかないか。
部屋の中は静まり返っている。
冷蔵庫のかすかな音と、窓の外から遠くに聞こえる車の音だけ。
そんな中、スマホが震えた。
画面を見る。
坂本さんからだった。
開く前に、続けて二通メッセージが届く。
たぶん、俺が学校を休んだことはもう知っているんだろう。それが自然だ。
トーク画面を開いた。
[和泉くん、真希ちゃんと何かあったの?]
[先生から事情聞いたよ]
[放課後でいいから、真希ちゃんの住所教えて。絶対お見舞い行くから]
既読をつけた瞬間、メッセージは止まった。
……助かった。通知音で起こさずに済む。
すぐに返信した。
[大丈夫。俺が看てるから、授業に集中してて。あとでノート貸してくれ。真希も助かると思う]
送った直後――メッセージではなく、着信が来た。
スマホが再び震える。
音が大きくなる前に部屋を出て、静かにドアを閉めてから通話に出た。
「だから大丈夫だって。ただの熱だよ」
一瞬、向こうが黙る。
息が少し荒かったが、俺の声を聞いて落ち着いたみたいだった。
「放課後、お見舞いに行ってもいい? 絶対迷惑はかけないから。だから……真希ちゃんの住所、教えてほしいの」
閉まったドアを見つめる。
「……坂本さん。実は、俺と真希から話さなきゃいけないことがある。来たときに直接話した方がいいと思う」
向こうの呼吸が、また少しだけ速くなる。
ひと呼吸おいて――
「わかった……どこに行けばいい?」
「俺の部屋でいいよ。住所は送る。別に変な話じゃないんだけど……ちゃんと説明しないといけなくて」
「了解。じゃあ放課後に」
通話が切れた。
壁に額をつけて、しばらく動けなかった。
あとは――黒川さんの体調が戻るのを待って、一緒に話すだけだ。
深く息を吸って、部屋に戻る。
すると、彼女はもう起きていた。
布団から少しだけ顔を出して、じっとこちらを見ている。
「誰と話してたの? ……彼女?」
「彼女? いるわけないだろ。いたら、こんなことになってないって」
彼女は視線をそらした。
顔がほんのり赤い。何か言いかけて、でも言葉が出てこないらしい。
……熱のせいだけじゃなさそうだ。
「坂本さんが、かなり心配してた。お見舞いに来たいってさ。ちょうどいい機会だし、俺たちのこと話そうと思ってる」
「先に相談してよ!」
頬がさらに赤くなる。
今度は怒りのせいだろう。でも、それも一瞬で、すぐに抑え込もうとしていた。
「……いいよ。でも、やっぱり真昼さんには、嘘を通した方がいいと思う」
その言葉に、思わず眉が上がる。
「へえ。やっぱ真希、坂本さんのこと好きなんだ? 最近、だいぶ仲いいし」
口元が緩む。
ここでからかえば怒られるのは分かっているが、つい言いたくなった。
「当たり前でしょ。初めてできた友達なんだから。ああいう人に、嘘なんてつきたくない……」
――その通りだと思った。
高校で初めて彼女を見たときから、ずっと一人だった。
周りの女子たちは、まるで手の届かない存在みたいに遠巻きにしていた。
それが変わったのは、坂本さんが話しかけるようになってからで――
……まあ、俺も少しは関わったけど。
今でも、勇気を出して近づこうとする女子は何人かいる。
「ねえ、和泉くん」
スマホを見ながら、彼女が言った。
「真昼さん……私たちのこと、受け入れてくれるかな」
その質問は、俺もずっと考えていた。
離れていく可能性もある。
でも、受け入れてくれる可能性だってある。
全部――あの人次第だ。
「わからない。でも……やるしかないだろ」
時間はゆっくりと流れていった。
差し込む日差しが、床を伝って壁へと伸びていく。
授業が終わって三十分ほどした頃、スマホが再び震えた。
新着メッセージだった。




