第2話「執筆と運命」2
書く、書く、書く、書く、書く。
自分の思いを形にすることほど、素晴らしいものはない。
まずはノートに書き出して、それをスマホで清書する。
――私は、昔からずっと「書くこと」が好きだった。
幼い頃に読んだ小説は、どれも心を震わせるほど素敵で、今でも鮮明に覚えている。
恋愛、ファンタジー、ミステリー……いろんなジャンルを読んだけど、やっぱり一番惹かれるのは日本のライトノベルだと思う。
そして今も、こうして机に向かい、新しい物語の下書きを書いている。
もう何ヶ月もかけて構想している作品だけど――最近、読んでくれる人が減ってきた。
もっと頑張らなきゃいけないのに、文学部にすら入らなかった。
でも……あれは、入らなくて正解だったのかもしれない。
だって、どれだけ頑張っても「読まれない」現実が、どれほど苦しく、苛立たしいものか、きっと誰も理解してくれないから。
私はずっと、「完璧な小説」を目指してきた。
三日間、ほとんど寝ていない。
ただひたすらに、書いて、書いて、書いて――。
今の私は、完全に集中していた。
まるで締切直前のプロ作家みたいに、デスクにかじりつきながら、無言でキーボードを叩く。
一見、退屈な作業に見えるけど、何度も推敲していけば必ず面白くなる。
それを私は信じてる。
私の名前は、黒川真希。
15歳。
もし、今の私をひと言で表すなら――
「親とケンカしたばかりの、面倒な女子高生」だ。
親は言った。
「小説なんかで未来を築けるわけがない」と。
――うるさい。
そんなの、やってみなきゃ分かんないでしょ。
私は、本気でこの道を歩こうとしてる。
勉強だってしてるし、サボってるつもりはない。
それでも、どうしても時間が足りない。
たった数時間の執筆時間すら、まともに確保できない。
……そんな私でも、学校じゃ目立ってる方だった。
成績は上位。でも――
私は、ひとりの方がいい。
誰かとつるむより、孤独でいる方がずっと楽。
人間関係とか、強制的な付き合いとか、そういうのが本当に面倒くさい。
小説に本気で向き合おうと思ったのも、そういう「くだらないこと」から逃げたかったのかもしれない。
考えれば考えるほど、イライラしてくる。
今も――私は、怒っている。
「……ほんと、うっとうしい。」
こんな時は、シャワーでも浴びよう。
ちょっと早いけど、熱いお湯にでも包まれれば、少しはマシになるかもしれない。
私はだるそうに椅子から立ち上がり、ふらふらと風呂場へ向かった。
シャワーを終えた後、キッチンでインスタントのコーヒーを淹れる。
そう、私は今――一人暮らし。
朝になったことがすぐ分かるように、カーテンはいつも開けたまま寝ている。
閉めてしまったら、絶対に寝坊してしまうから。
……でも、このままだと、家賃すら払えなくなる。
そろそろ短時間でできるバイトを探さなきゃ。
それでも、「書くこと」は絶対にやめたくない。
私に残された、たった一つの道だから。
気がつけば、もう着替えも終わっていた。
外は寒い。
赤いマフラーを巻き、厚手のコートを羽織って、私は玄関を出た。
風邪をひくのは、どうしても避けたかった。
朝食はパンだけで簡単に済ませ、それから少しだけ化粧をした。
昨夜のせいで、目の下には隈がくっきりと残っていた。
ついでに、乱れた髪も軽く整える。
私の髪は、夜の闇のように深い黒。
正直、化粧は得意じゃないけど、今日は仕方ない。
玄関のドアを閉め、鍵をかけようとしたそのとき——
隣の部屋のドアが開く音がした。
現れたのは、一人の少年。
髪は暗めの色で、よく見ると微かに茶色が混じっているようだった。
肌の色は私より白くなく、どちらかといえば明るい褐色という感じ。
その顔立ちにはどこか影があって、世の中に対して無関心な雰囲気を纏っていた。
一瞬だけ彼に視線を向けたけれど、すぐに鍵を閉める作業に戻った。
彼は私の存在など気にすることもなく、エレベーターの方へと向かっていく。
私も、黙ってその後を追う。
遅刻は絶対にできない。
エレベーターに乗り込み、何気なく後ろを振り返ると、彼の顔が視界に入った。
……クマ、ひどい。
声をかけようか一瞬だけ迷ったけれど、やめた。
彼が寝不足でも、それは私の問題じゃない。
ただ、そう思っただけ。
私はエレベーターの中央、彼は左奥の隅。
じっと天井を見上げているのも落ち着かないし、かといって周囲を見渡すのも変に思われそう。
……こういう沈黙って、やっぱり苦手。
しかも、男の子と二人きりなんて……余計に。
1階に到着すると、私は自然と彼の後を追う形になった。
徹夜で執筆すると、どうしても頭がぼんやりする。
そのせいで、道を間違えそうになることも多い。
だから、誰かの後ろについて歩くのが一番楽だった。
彼と同じコンビニに立ち寄る。
お昼を買うために。
少し気まずいけど……仕方ない。
食べなきゃ、午後までもたない。
私はサンドイッチと缶コーヒーを手に取り、再び彼の後を追うように駅へと向かった。
——山手線の駅へ。
他に行く場所もないし、選択肢はここしかない。
……でも、なんだか自分が彼を尾行しているみたいで、少しだけ恥ずかしくなった。
だから、視線を足元に落としたまま歩く。
やがて電車に乗り込むと——
一瞬で、周囲の学生たちの視線が私に集まった。
まるで、芸能人でも見つけたかのような反応。
……なんで?
居心地は最悪だったけれど、そんな風に思っているのを悟られたくなくて、何もなかったふりをする。
目立たないようにしていれば、そのうち視線も逸れていくだろう。
——少なくとも、そう思ってた。
電車が動き出す。
混み合った車内で、私は彼の隣に立つことになった。
しばらくして、スマホを取り出し、《X》を開く。
最近の投稿の読者が減ったを確認するためだ。
……でも、全然伸びていなかった。
予想よりもずっと少ない数に、ほんの少しだけ落胆する。
「はぁ……」
気づかないうちに、小さくため息が漏れていた。
その瞬間——
電車が大きく揺れた。
バランスを崩した私は、手に持っていたスマホを床に落としてしまった。
スマホは和泉 慧翔の足元へと転がっていき、私の体もそのまま、彼の胸の上に倒れ込んでしまった。
まるで、抱きつくような形で。
今まで誰かにこんな風に倒れ込んだことはなかった。
数秒の沈黙。
顔を上げると、彼は少し驚いたような表情を浮かべていた。
恥ずかしさはあったものの、すぐに平静を装い、
何事もなかったかのように体勢を整えた。
そして、彼の足元に転がったスマホを拾い上げる。
……なんだか、すごく気まずい。
ものすごく。
そんな気持ちのまま、電車は目的の駅に到着し、私は再び彼の後ろを歩くことになった。
彼が向かうのは、おそらく学校。
私も同じ方向へ向かっているのだから、結果的に後を追う形になってしまうのは仕方がない。
けれど、数メートルほど距離を空けていたとはいえ、
彼からすれば、きっと気味が悪かったに違いない。
それでも私は、ただ無言で、彼の足跡をたどって歩き続けた。
◆◇◆◇
しばらくして、学校に到着した。
登校する生徒たちの中には、やはり私に注目する者もいた。
特に男子生徒たちの視線が痛いほどに集まる。
電車のときと同じように。
彼らは私の学校での人気について噂をしていた。
「黒髪の女神」とか、「完璧な外見」とか、そんな風に。
正直、うっとうしい。
けれど、下手に反応すると余計に面倒なので、いつものように無視を決め込むことにした。
教室に入ると、自分の席へと向かう。
私の席は一番後ろの右端。
そして、和泉 慧翔の席は左の一番奥。
ちょうど私とは対角線上の位置だった。
彼が席に着くのを横目で見ながら、私は静かに自分の席へ座る。
周りの生徒たちはいくつかのグループを作り、談笑していた。
しかし、私と彼だけは誰とも関わることなく、一人で過ごしていた。
その隙に、私はスマホを取り出し、最近読者が減ったが減ってきた自分の小説の執筆を再開する。
何がいけないんだろう?
自分では面白いと思っているのに、なぜか読者が減っていく。
もしかすると、最初から見直した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、授業が始まった。
◇◆◇◆
眠い。
ほぼ徹夜だったせいで、授業中の眠気は尋常ではなかった。
それでも、私は学業の成績が良い方だった。
だから、授業内容はちゃんと理解できる。
ただ、意識を保つのが大変だった。
小説を書いたら、少しは眠気が覚めるかもしれない。
そう考えながら、なんとか授業を乗り切る。
◇◆◇◆
ようやく、昼休みになった。
今朝の朝食は少なかった。
そして、今から食べる昼食も決して十分とは言えない。
でも……良いこともあった。
上里れんじの小説。
彼の物語の構成力は本当に素晴らしい。
もし、あの才能が私にあれば……。
もし、あれほどの技術を手に入れたら、私の小説も「完璧」に近づくはず。
……いや、「完璧」そのものは存在しない。
どれだけ天才でも、それは作れない。
でも、限りなく完璧に近い小説なら、私にも作れるかもしれない。
考え込んでも仕方ないので、まずは読むことにした。
私はサンドイッチを食べながら、
今日更新されたばかりの最新話を開く。
彼の小説のジャンルはファンタジー。
私が普段書かない分野だ。
だけどーー
やっぱり、面白い。
授業は特に問題なく始まった。
ほとんど寝ていないはずなのに、なぜか集中力はまだ残っている。
……でも、それでもやっぱり、眠い。
眠気に耐えるのは、重労働のように感じた。
少しでも小説を書けば、目が覚めるかもしれない。
◆◇◆◇
必死に眠気と戦いながら時間を過ごし、ようやく昼休みになった。
今朝の朝食は少なかったし、これも足りない気がする。
けれど――少しだけ楽しみなこともあった。
それは、上里れんじ(Renji Kamisato)の小説。
彼のストーリー構成は本当に素晴らしい。
――もし、私にその才能があれば……。
もし、あれほどの技術を持っていたら、
「完璧な小説」に近づけるかもしれない。
天才でも、完璧な作品は作れない。
だけど、限りなく完璧に近い小説なら――。
そんなことを考えていても仕方ないので、まずは読むことにした。
サンドイッチを食べながら、
今日更新されたばかりの最新話を開く。
ファンタジー小説。
私が普段書かないジャンル。
やはり、面白い。
作家には、それぞれ得意な分野がある。
だけど、私にファンタジーは向いていないと感じる。
あんな壮大な物語を作る想像力は、私にはない。
それを考えるだけで、なんだか疲れてしまう。
昼食を終え、今日の話を読み切る。
そして気づく。
「次回が楽しみ」――そんなふうに自然と思えた。
この感覚は、つまり…… もう次の話が完成しているということなのだろう。
……羨ましい。
私も早く続きを書きたい。
残りの授業が終われば、すぐにでも。
◇◆◇◆
午後の授業は、最初こそ普通に始まった。
だが今度ばかりは、本当に《眠気》との戦いだった。
どれだけ耐えても、意識が《遠》のいていく感覚に襲われる。
それでも――私は、なんとか耐え抜いた。
◇◆◇◆
授業が終わると、ほとんどの生徒たちは部活動へと向かう。
私はその時間を使って、明日の小説の《更新》作業を進めるつもりだった。
……けれど、あまりにも集中しすぎて、
気がつけば、時間が《過》ぎていることにさえ気づいていなかった。
ふと顔を上げたとき――
和泉 慧翔が、すぐ後ろに立っていた。
「やっぱり、お前が『あかね藤』か」
その一言で、私は思わず肩をびくっと震わせた。
反射的に、両手でスマホを強く握りしめる。
彼は、小さく微笑んでいた。
まるで、大事な《秘密》を暴いたかのように。
もしそれが本当なら――
彼は今、私の《正体》を知ったということになる。
でも、本当にそうなのだろうか?
まだ確信までは持てなかった。
「……どうして私のことを知ってるの? この小説、そんなに読まれてないはずだけど。」
彼は突然、《謎》めいた笑みを浮かべた。
その表情が何を意味しているのか、私にはわからなかった。
そして次の瞬間――彼の《雰囲気》が変わった。
まるで物語の登場人物になりきったかのように、
どこか《軽快》で、堂々とした《態度》へと変わっていた。
「まあ、俺は君の読者の一人ってことかな。」
そう言って、意味深な視線を向けてくる。
「せっかくだし、一つ《提案》があるんだけど、どう?」
「……提案?」
何か言おうとしたけど、そのまま言葉を飲み込む。
結局、私は無言のまま彼を見つめながら、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「それで、何を提案したいの?」
私の声は、まるで形式的な質問のように淡々としていた。
――きっと彼は、ただのファンか、
もしくは何か変な頼みごとでも言い出すだけ。
深く考える必要なんてない。
そう、思っていた。
「うーん、どこから話せばいいかな……」
「最初から説明して」
「了解。じゃあ、まずは自己紹介から」
「必要ない。あなたの名前は知ってる。このクラスの人なら、みんな知ってるはず……たぶん」
彼は、ふっと小さく笑った。
まるで、《君》きみ《は何も分かっていないね》とでも言いたげな顔だった。
やがて、笑みを収めた彼は、真っ直ぐ私を見つめながら、はっきりと言った。
「俺は蓮司上里。君と同じ、小説家だ」
――え?
思わず、息をのんだ。
……そんな、はずがない。
彼が……?
ありえない。信じられない。
考えられるのは、二つ。
嘘か、もしくは悪質な冗談。
でも、そう思った直後――
彼はポケットからスマホを取り出して、何やら操作したあと、それを私の目の前に突き出した。
「ほら、嘘じゃないよ」
その画面には、彼が本物だと示す決定的な証拠が映っていた。
私は、驚きのあまり言葉を失った。
……けれど、数秒後には、いつものように無表情に戻る。
「……なるほどね。それで、目的は?」
彼は、私の目をまっすぐ見つめたまま、今度は真剣な表情で微笑んだ。
「この世界には、《良》よ《いもの》がたくさんある。でも、《完璧》かんぺき《なもの》は何一つ存在しない。 たとえ《天才》てんさい《でも》、それは完璧であることを意味しない。 《人間》にんげん《は必ず、何かが欠けているんだ。 それは、》大統領でも、政治家でも、同じこと。
もし完璧を求めるなら、自分で創り出し、分析し、磨き上げるしかない。
君の物語も、完璧ではない。 でももし、俺たちの作品を《アニメ化》に値するレベルにまで引き上げたいのなら―― 本当に《特別》とくべつ《な何か》が必要になる」
彼はそこで一度言葉を止め、少し視線を落としてから、続けた。
「この世界には、こんな言葉がある。
『この世に完璧なものは存在しない。完璧なのは、神だけだ』ってね。
でもな、だからといって、俺たちが挑戦しない理由にはならない」
そう言って、彼は手を差し出した。
そして、静かに問いかける。
「完璧な物語を、俺と一緒に作ってみないか?」
その言葉を聞いて、私は少し《安心》あんしん《した。 でも、それと同時に、驚きもあった。
彼が優れたストーリーテラーであることは知っていたけど―― それでも、これは簡単に断れる話じゃない。
むしろ、うまく使えば、私にとっても《利益》りえき《があるかもしれない》
私は彼の手を握ろうとしたが、一瞬だけ動きを止めた。
「いいわ。でも、一つ条件がある」
「条件? どんな?」
彼は手を伸ばしたまま、興味深そうに尋ねてくる。
私は軽くため息をついて、落ち着いた声で答えた。
「私を、あなたの家に住まわせて」
その瞬間、彼の顔が驚きに染まった。 まるで、想像もしていなかったことを聞かされたかのように。
「……え?」
「実は、お金がもうほとんどないの」
私は静かに言った。
「両親とは喧嘩して、もう三ヶ月も仕送りを止められてる。 一人暮らしを続けるのは正直、厳しいの。 もちろん、男と女が一緒に住むのは問題があるかもしれないけど…… 誰にもバレなければ、大丈夫でしょう? どう?」
彼は、しばらく沈黙した。
当然だろう。
普通、女の子にこんなことを言われたら……驚くに決まってる。
でも、数秒の沈黙のあと、彼は言った。
「……いいだろう。ただし、条件がある」
「条件?」
「住むのはいいけど、家事は手伝え」
私は、満足げに微笑んだ。
それくらいなら、まったく問題ない。
彼が何を言いたいのかも、すぐに理解できた。
「わかった。それなら、よろしくね」
私は彼の手を、しっかりと握り返した。
――こうして、私たちは一緒に住むことになった。
……おかしい話よね?
《欠けた部分》かけたぶぶん《を補い合う二人の小説家の物語》――
なんだか、とても素敵だと思わない?
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