第19話 真希の小説日記
会話はあと数分続いた。両親が別れの挨拶を始めると、黒川さんも画面に近づき、同じように挨拶をした。
間もなく、夕食が完成した。いつもよりずいぶんバランスの取れた食事に見えた。それに、今回は髪を高い位置で一つに束ねていて、それが彼女を違って見せていた。
何か言おうとしたが、声が出なかった。
彼女はもう笑ってはいなかった。それでも、やはり良く見えた。
俺たちの視線が交わった。
彼女は少し眉をひそめ、不機嫌そうな口調で言った。
「何かついてる?」
俺はすぐに目をそらした。
「いや、ごめん……その髪型、似合ってるなと思って」
「え? あ……ありがとう、たぶん」
彼女は顔を赤らめた。
気まずい沈黙が流れた。どちらも、それを破る方法がわからなかった。
俺はうつむき、キッチンへ歩いていった。何か手伝えるかもしれない。
歩みを速めたが、彼女の視線が背中に突き刺さっているのを感じた。
キッチンに着くと、立ち尽くした。
突然、彼女が後ろに立った。彼女の手が俺の肩に触れ、俺は小さく跳び上がった。
「ごめんね。ちょっと、きつく言いすぎちゃったかも」
「え?」
「それで、怒った?」
「気にするな。そうじゃない。ただ……夕食の様子を見に来ただけだ」
彼女はコンロを不思議そうに見つめ、小さく笑った。それがやがて、大きな笑い声に変わった。心からの笑い声だった。
俺は、ただ彼女を見つめていた。
「へえ……もうお前の本当の笑顔と偽物の区別がつくようになったぞ」
彼女の笑いは、即座に止まった。そして、赤面した。
「ありがとう。でも、そんなこと言われなくてもいいし。それより、そういうこと女の子に言う前に、彼女でも作ったら?」
「……今、気になる子なんていないよ。それに、俺たち一緒に小説を書いてるんだ。誰かと付き合ってる場合じゃない」
彼女は数秒間考え込み、ゆっくりと口を開いた。
「真昼さんは? そういう風に見たことないの?」
まさか坂本さんの名前が出るとは思わず、驚いた。
「ないよ。そういう風には見てない。それに、さっきの話と坂本さんが何の関係があるんだ?」
彼女は背を向け、俺から目をそらした。
「今の、忘れて。何も聞かなかったことにしてくれる?」
その口調は、不機嫌そうだった。
苛立ち交じりのため息をついて、俺は黒川さんの方へ戻った。
近づくと、彼女はスマホを見つめていた。
「もし何か気に障ることを言ったなら、謝る。そんなつもりじゃなかったんだ」
彼女は俺を見ずに答えた。
「怒ってないよ。謝らなくていい。あなたは何も悪くない」
俺は黙った。そう言ってはいるが、彼女の表情は違うことを物語っていた。
「お前の顔は、そうじゃないって言ってるぞ。怒ってるのはわかってる……だから、謝らせてくれ」
「……わかったよ」彼女はようやく認め、小さく微笑んだ。「でも、大したことじゃない。忘れよう。気まずくなってきちゃった」
うなずいた。その話題は、そこで終わった。
夕食は、静かに進んだ。気まずいほどの静けさだった。お互いに目を合わせることさえできなかった。
「……ところで、小説の方はどうだ?」
沈黙を破ろうとした。
彼女は皿から目を離さずに答えた。
「すごくいいよ。評価も良いし。読者からは続きが早く読みたいって。こんなにたくさんの人に読まれるなんて、思わなかった」
俺は少し誇らしげに微笑んだ。
「当然だろ。何せ、俺が勧めたんだからな。それに、俺が久しぶりに書いた中でも、最高の出来だ」
ようやく、彼女は顔を上げた。俺の目をじっと見つめた。
「ねえ、和泉くん……さっきは、ごめんね。私、時々、子供みたいな態度を取っちゃうから」
「気にするな。さっきお前が言った通り、忘れよう。もう過ぎたことだ」
「……優しいね、ありがとう。一緒に書いてるのに、気まずくなって、それをダメにしたくないから」
彼女はうつむいたが、ほっとしたように微笑んだ。心からの笑顔だった。
「ありがとう、和泉くん。もう大丈夫」
俺も微笑み返した。
初めて、一緒に皿を洗った。小さなことだった……でも、違った。
片付けが終わり、俺は自分の部屋へ行こうとした。でも、ドアを閉める前に、彼女がリビングにいるのが見えた。
彼女はソファに座り、端が焼けた古いノートを読んでいた。懐かしそうな表情で、それを大事そうに抱えていた。
音を立てずに近づき、彼女が俺の存在に気づくのを待った。
「何を読んでるんだ?」
彼女は顔を上げ、慎重にノートを閉じた。
「子供の頃に書いた小説。見てみる?」
ノートを、こっちに差し出した。
そっと受け取り、読み始めた。文字は拙かった。中学生になったばかり……いや、もしかしたらもっと小さい頃のかもしれない。
でも、物語は――幸せになりたいだけの王女が、城から逃げ出す話。王女は森へ逃げ込み、迷子になり、木の下で休む。そこから見える小道が、小さな家に続いている。そこには、二人の子供がいる家族が住んでいた。近づくのをためらう王女。すると、長男が家から出てきて、王女に手を差し伸べる。
「僕が守ってあげる」
少年は、強い決意を込めて、そう言った。
「中学に入る前に書いたの。小学生の頃だよ」彼女は、懐かしそうに上を見つめながら言った。
「その年齢にしては、文章がしっかりしてるな。本当に驚いたよ、黒川さん。それに……面白い話だ。でも、どこか、お前の未来を予言しているようにも思える」
彼女は、困惑した表情で俺を見た。そして、しばらくして俺の言葉の意味を理解すると、目を見開き、慌ててノートを奪い返そうと飛びかかってきた。
「もう、恥ずかしい! 今すぐ返して! そんなこと書いてたなんて、忘れてた」
俺はソファに背を預け、ノートを遠ざけながら読み続けた。彼女はますます身を乗り出し、必死に手を伸ばす。
そして、彼女は滑った。
彼女が、俺の上に倒れ込んだ。彼女の頭は、俺の肩に寄りかかっていた。彼女の体は、俺の体からほんの数センチの距離にあった。
俺は硬直した。
ノートを閉じ、彼女の背中をそっと叩いた。
「黒川さん……大丈夫か?」
返事はなかった。軽く体を揺すった。無反応。
もう一度試してみた。
「黒川さん〜、起きてるか?」
沈黙。
俺は息を吸い込んだ。唇を彼女の左耳に近づけ、ささやいた。
「真希……起きろよ。寝るなよ……」
言い終わらないうちに、彼女は反応した。両手を俺の頬に当て、耳まで真っ赤にして、俺を見つめた。
「ちょ、ちょっと……誰があんたのこと、名前で呼んでいいって言ったの? それに、何ジロジロ見てるのよ」
彼女は目を合わせるのを避け、子供のように怒った小さな拳で、俺の胸をポカポカと叩き始めた。
思わず、小声で笑ってしまった。
「寝ちゃったのかと思ったんだよ」
彼女は、起き上がらずに、少し口を尖らせた。
「ちょっと横になったっていいでしょ? そういうこと。別に、ずっとこうしてるつもりなんてなかったし」
俺はため息をついた。そのままにしておいてやることにした。
「真希」
名前を呼ばれただけで、彼女の体が微かに強張った。
「そんな風に、いきなり名前で呼ぶのやめてくれない? 呼ぶならせめて、ちゃんと付けてよ。変な感じがするから」
「……すまん、黒川さん」
一秒、間を置いた。
「お前、母さんと真耶に会ってから、俺たち、もっと近づいたと思わないか?」
また苗字で呼ばれたことで、彼女はほっとしたように見えた。少し考えて、うなずいた。
「仕方ないでしょ。真耶ちゃんを納得させるために、私たちは付き合ってるふりをしてるんだから。ああいうことを続けてれば……近づくのが普通でしょ」
そう言いながら、彼女は体を起こし、ノートを手に取った。再び座ると、彼女は話題を変えた。
「で……その話、どう思った?」
しばらくノートを見つめた。
「これ、全部お前が子供の頃に書いたのか?」
彼女はうなずき、「もちろん」と言わんばかりにため息をついた。
ちょっとからかってみることにした。
「疲れたなら、また横になってもいいぞ」
彼女は、あまりに冷たい目で俺を睨みつけた。
彼女が答える前に、続けた。
「話のことだけど……すごいと思った。子供の頃はみんな想像力が豊かだけど、お前のは次元が違う。キャラクターの作り込み方が、大人の作品よりしっかりしてる。俺は、お前の年齢でこんなものは書けなかった」
彼女はすぐに顔を赤らめた。
彼女はうつむいた。
「ありがとう……この調子なら、いつかあの頃の話をしてあげてもいいよ。今は、それで我慢して」
彼女は立ち上がり、自分の部屋へ歩いていった。
「おやすみ、慧翔くん~」
不意を突かれた。でも、そのほんの少し悪戯っぽい笑顔を見て、それが彼女なりの小さな仕返しだと理解した。
返事を待たずに、彼女は部屋に入っていった。
俺はしばらくソファに座ったまま、天井を見つめていた。俺もそろそろ寝よう。明日は授業だ。




