第18話 家族からのプレッシャー
◇◆◇◆◇
しばらく昼寝をしていたら、気づけばもう夜になっていた。
何かに導かれるように、リビングへ向かう。
自分の部屋のドアを開けると、黒川さんが座って電話をしているのが見えた。ドアはわずかな隙間しか開けず、そっと閉めて、耳を澄ます。
よくないことだとは分かっていた。でも、好奇心には勝てなかった。
なぜそんなことをしているのか、自分でも分からない。まるで、体の奥の何かに押されているみたいだ。
彼女の声は、いつもより少し弾んでいる。それが、ますます好奇心を煽った。
「そうなんだ……そんなことがあったんだね。よっぽど好きなんだね」
――え?
どうやら女友達と話しているみたいだ……それで、誰かを好きだって言っている。
いや……そんなはずない。
彼女に友達なんて、坂本さん以外に……。
突然、胸の奥がちくりと痛んだ。
胃のあたりをぎゅっと締め付けられるような、嫌な熱さ。
もう、そこに長くはいられなかった。
部屋を出た。
ドアを開けた瞬間、黒川さんは小さく跳び上がり、電話に向かって何か呟いた。
すごく怪しかった。
でも、女の子同士の話だったから、ああなっただけかもしれない。
そう思いたかった。
――最後に友達がいたのは、いつだったっけ?
ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。
たしか九歳の頃だ。
どのアニメが一番かっていう、馬鹿みたいな喧嘩で離れた。
今思えば、本当にバカバカしい。
それ以来、友達がいなくても別に困らなかった。
むしろ、一人の方がいいとさえ思っていた。
俺は、集団には馴染めないけど、孤独には馴染めるタイプなんだ。
黒川さんは、そうじゃない。
彼女は、普段は冷たく見えても、時間が経てばどんな集団にも自然と馴染める。明るい笑顔があって、人に寄り添うのも上手い。
――俺は、そこが好きだ。
待て。
今、何て考えた?
そんなふうに思うべきじゃない。
でも、その考えはもう頭の中に居座っていて、どれだけ無視しようとしても消えてくれない。
ふと、あの日のことを思い出した。
二人で転んで、俺が彼女の上に覆いかぶさってしまった時のことを。
間違いなく……彼女は綺麗だ。
いや、違う違う。
そんなこと考えちゃいけない。
俺たちはただの同士だ。
創作の、そしてクラスの。
このままじゃ、好きになってしまいそうだ。
彼女にもっと惹かれる前に、考えるのをやめないといけない。
こんな感覚、初めてだ。
洗面所に少しだけ入り、顔を洗って出てきた頃には、頭も少し冷えていた。
これなら、もう少しちゃんと考えられそうだ。
彼女はまだリビングに座っていた。
でも、今度は俺を待っているようだった。
彼女の表情に、心配そうな色はない。
ただ誰かを待つ、普通の少女の顔だった。
「部屋にいるみたいだったから、夕食、作っておいたわ。今日は何もしなかったし、あなたが全部やってくれたから」
「今日は俺がやるって言ったのに。そんな気遣い、しなくていいのに」
彼女の前に座った。
でも、ちょうど何か話そうとした時、スマホが鳴り始めた。
ポケットから取り出す。
母からだった。
『お父さんが、将来の娘に会いたいって。もうすぐ電話するってさ。準備しておいた方がいいよ』
言葉が出なかった。
少し不安になりながら、黒川さんにそのメッセージを見せる。
何をするにも、まずシャワーを浴びたかった。
スマホをテーブルに置き、慌てて風呂の準備をする。
少しでも頭を冷やしたかった。
どうやら彼女は、もう入浴を済ませていたらしい。
髪がまだ少し湿っていて、シャンプーの香りがほのかに残っていた。
◇◆◇◆◇
風呂から上がり、ようやく電話を受ける準備が整った。
母が「電話」と言う時、それはほぼ間違いなくビデオ通話のことだ。
スマホを持ってからずっと、そうだった。
黒川さんも準備万端だった。
あとは待つだけ。
そう長く待たないうちに、電話が鳴り始めた。
彼女は俺の隣に座り、軽く寄りかかってきた。まるで新婚夫婦みたいに。
通話に出る前に、声をかける。
「名前で呼ぶからな。いいか?」
彼女は迷いなくうなずき、こう返した。
「じゃあ、私も名前で呼ぶね」
俺も小さくうなずき、通話を開く。
映像が映ると同時に、彼女はぱっと大きく微笑んだ。俺はいつもの表情を、ほんの少しだけ柔らかくする。わざとらしくならない程度に。
黒川さんは頭を俺の胸に預け、まるで最初からそうしていたかのような自然な距離を作った。
画面には、きれいに髭を剃ったスーツ姿の男性が映っていた。厳格そうな雰囲気だが、まだどこか若々しい。
それが、父だった。
父は明らかに驚いた様子で、俺たちを見つめていた。
黒川さんは胸の前に置いた手をそっと重ねたまま、輝くような笑顔で画面に向かって挨拶した。
「おや……母さんの言う通りだったな。お前、本当に彼女を作ったのか」
父が微笑むと、母も通話に顔を出した。
彼女が隣にいるだけで、どこか穏やかな温かさを感じる。
父の言葉に軽くうなずき、黒川さんに視線を送った。自己紹介してくれ、という合図だ。
彼女はすぐに察した。姿勢を正し、軽くお辞儀をする。
「初めまして。黒川真希と申します。慧翔くんとお付き合いさせていただいております。お会いできて光栄です、お義父さま」
父は、彼女の礼儀正しさに満足したようだった。あそこまで丁寧に対応されると、悪い気はしないらしい。
「こちらこそ、黒川真希さん。息子をよろしくお願いします……そして、息子を幸せにしてくれてありがとう」
父はそう言って、軽く頭を下げた。
あまりに真剣で、俺も彼女も少し照れてしまう。
「いえ、とんでもないです……むしろ、彼が私を守ってくれています。一緒にいてくれて、いつも助けられています。本当に、私の方が恵まれているんです」
彼女は、ほとんど完璧な謙虚さで微笑んだ。
ここまで来たら、もう後戻りはできない。あとは、この流れを保つだけだ。
ふと、母が前回別れ際に言った言葉を思い出した。
『本当に付き合い始めたら、二人で遊びに来なさい。そう遠くはないでしょうけど……待ってるから』
その言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回っていた。
突然、黒川さんの肘が軽く脇腹に当たった。
はっと我に返る。
今はぼんやりしている場合じゃない。
何か言おうとした瞬間、真耶が画面に飛び込んできた。
彼女の第一声は、俺たちがこんなに近くにいることへの驚きだった。
「わあ、お兄ちゃん……想像以上に進んでるね。お二人とも、幸せになってね」
黒川さんはその言葉を無視しようとしたが、真耶はまったく引き下がる気がないらしい。
「ところで、お兄ちゃんたち……どこまで進んだの?」
父が、じっと観察するように尋ねてきた。
その質問が来ることは分かっていた。
別に答えるのが嫌なわけじゃない。
でも……何て言えばいい?
俺が迷っている間にも、いつものように黒川さんが素早く、落ち着いて答えた。
「私たち、お互いをもっと知りながら、少しずつ距離を縮めていこうって決めているんです。ですから、まだそこまで進んではいませんね」
彼女の改まった口調に、また緊張が走る。
俺は黙ってうなずいた。
父はさらに数秒、俺たちを観察していた。
「では……まだそういう関係ではないんだな?」
だんだん恥ずかしくなってくる。
これほど率直で観察力の鋭い父親を持つと、少し怖い。
「はい、お義父さま。手を繋ぐ以上のことには、まだ進んでおりません」
今度は、完璧に演じられた照れくささを声に乗せて。
そして何より不気味なのは――それが完全に信憑性を持っていたことだ。
真耶と父は、明らかにがっかりした様子だった。二人とも大げさに手を頭に当てる。
そんな中、唯一反応が違ったのは母だけだった。
彼女だけが、真実を知っている。
母は数秒間、何か言葉を探すように考え込んだ。
そして突然、微笑んだ。
「じゃあ、今から始めてみたら?」
その言葉は、まるで冷水を浴びせられたみたいに俺の胸に突き刺さった。
母は、俺たちの関係が偽物だと知っている。
それなのに、そんなことを言うなんて。
黒川さんを見る。
彼女は、完全に顔を赤らめていた。
演技には見えなかった。
そして、気づいた。俺も、同じだった。
父と真耶は、すぐにその提案に乗ってきた。
「キス、キス、キス!」
三人はからかうような笑顔で、それを繰り返す。
プレッシャーで息が詰まりそうだった。断ろうとしても、きっと無駄だろう。
数秒間しつこく催促されたあと、黒川さんは俺を見上げ、そっと囁いた。
「慧翔くんなら……嫌じゃないけど。でも、するなら、ちゃんとした時がいいな。二人ともちゃんと準備ができている時がいい。……ねえ、慧翔くん?」
彼女の言葉に、俺は思わず言葉を失った。
あの恥ずかしそうな眼差し。あまりにも繊細な言い方。
説得力がありすぎた。
その瞬間を逃さず、俺は照れているふりをしてうなずいた。
「ああ。真希とそう決めてるんだ」
信じてもらえただろうか。
数秒間、彼らは黙って俺たちを観察していた。
それから互いに顔を見合わせ、父が口を開いた。
「そうか。それでいい。時間をかけるのは悪いことじゃない……だが、あまり遅くなりすぎるなよ」
母がすぐに続けた。
「そうね。でもあんまり遅くしないでよ。私、将来の孫に早く会いたいんだから」
あまりにも自然な口調で、それがまるで避けられない未来であるかのように言った。
「まあ、二人のペースで進めるのが一番だろう」
父は、ため息まじりに付け加える。
「結局、お前たちの関係だ。俺たちが口を出すことじゃない……お前たちが望まない限りはな」
俺たちは同時にうなずいた。
心の中では、ただこう思っていた。
――助かった。
黒川さんも、ほっとした様子だった。一瞬、本当に付き合ってもいないのに、無理やりキスをさせられるんじゃないかと思ったくらいだ。
会話はもう少し続き、やがて夜も更けてきた。
彼女は夕食の準備をするために立ち上がり、俺だけが画面の前に残された。
去り際、彼女の顔にはほのかな笑みが浮かんでいた。
楽しんでいるように見えた。
そして、不思議なことに――それが俺を嬉しくさせた。
彼女が俺の家族と仲良くしているのを見るのが、好きだった。
キッチンからは、両親や真耶と話す彼女の声がまだ聞こえてくる。
どうやら彼らも、彼女のことを気に入っているらしい。
「息子よ」と、父が突然言った。「お前を誇りに思う。いい娘を見つけたな。逃がすなよ。きっと、お前たちはお似合いだ」
キッチンから、かすかに金属の触れ合う音が聞こえた。
黒川さんが、顔を赤くしながらそれを隠そうとしている姿が、目に浮かぶ。
俺だって、同じだった。
「ああ。彼女を守るし、そばにい続けられるように、できる限りのことをする。今は……彼女は、俺の人生の一部なんだ」
そう言いながら、これがどれほど馬鹿げているか、自分でもわかっていた。
でも、信じてもらいたければ、他に選択肢はなかった。
けれど――
今思えば。
彼女と一緒に暮らし始める前、自分が何て言ったのかは、はっきり覚えている。
そして、なぜか――
その言葉は、もう以前ほど嘘には聞こえなかった。




