第14話 二人にとって長い一日の終わり
「……えっと。私たちの『約束』のせいで、ちょっと修正しないといけないところが出てきたわ。だから、その話は後で……いい?」
冷たい彼女の言葉が沈黙を破り、俺はうなずいた。返事を待たず、彼女は自分の部屋に戻っていった。
いつもとは少し違う様子だった。何か気に障るものがあるように。たぶん、少し時間をあげたほうがいいんだろう。
数秒後、彼女は再びリビングに出てきて、テーブルに置きっぱなしにしていた紅茶のグラスを手に取った。
「これを忘れてた。じゃあ……後で」
彼女は部屋に戻り、その過程でドアを閉めた。俺は立ち尽くしたまま、状況を分析していた。
何か言おうと思った。何でもいい。でも、きっと無駄だろう。後まで待ったほうがいい。
彼女には、考える時間が必要なようだった。
ちょうどそう思った時、彼女の母が来る前に起きたことが頭をよぎった。
顔を赤らめた黒川さんの顔が、頭の中をぐるぐる回って離れない。すごく可愛らしかった……
いや。そんなこと考えちゃダメだ。
なんで今、それを思い出さなきゃいけないんだ?
ちょっと休憩したほうがいいかも。思ってたより疲れてる。
そう考え、体が重いのを感じながら、自分の部屋まで歩き、ベッドに倒れこんだ。
◇◆◇◆
もう……人生でこんなことするなんて、思ってもみなかったわ。
あんなこと言おうって、いったい何考えてたんだろう。
今日、彼の母が来るなんて思わなかったけど、それにしても、あんな関係だって嘘つくのは最悪のアイデアだった。
そう言えば、余計な説明をしなくて済むと思った。でも、そうはならなかった。
名前まで呼ばなきゃいけなかったし……
あれは行き過ぎだったわ。
気持ちを少し落ち着けようと、紅茶を一口飲んだ。
今日はほとんどエネルギーを使い果たした。
それでも、この紅茶の温かさだけが、少しだけそれを取り戻してくれる気がした。
しばらくゆっくりと飲み、それから、昨日慧翔くんが書いた原稿を取り出した。
デスクの上に置いた。持ってきてから、まだ手を付けていなかった。正直、どこから手をつけていいのかさえわからなかった。
直すべきところはそれほど多くなかった。文章の細かい部分を除けば、メインはもっと視覚的に感じられるようにすること。
実際、プロットもキャラクターも悪くない。それが唯一の問題なんだ。
「もう……仕方ないわね」
いつもより疲れたため息が唇から漏れた。
デスクに向かって座り、読み始め、少しずつ物語を修正していった。
そうしているうちに、時間はあっという間に過ぎ、気づけば外は夕暮れ時になっていた。
数時間後、ようやく手元の分が終わった。
とても疲れていて、頭が痛かった。
ストレスを溜め込みすぎると、よくこうなる。でも、小説を書いたり直したりしている最中にこうなったのは初めてだった。
とにかく……少し読書でもすれば、この痛みが和らぐかもしれない。
そう考えていると、スマホが振動した。
メッセージが届いたの。
開くと、真昼さんからのものだとわかった。
『真希ちゃん、ちょっと話せる?話したいことがあるんだ』
連絡先を交換してから、彼女からのメッセージはこれが初めてだった。
何の話だろう……?
『ええ、時間はあるわ。大丈夫よ』
慧翔くんの話かもしれない……とはいえ、確信はなかった。
真昼さんからの着信はすぐに鳴り始め、結局、俺はそれに出た。
「こんばんは、真昼さん。急な電話、どうしたの?」
「真希ちゃん、真希ちゃん、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ」
彼女の声には、いつものあの熱心なトーンがあった。少しも驚かなかった。
平静でいたかったが、彼女の話を聞く以外に選択肢はなさそうだった。
「はい、はい……どうかしたの、真昼さん?」
私の元気のない口調は、彼女の熱意を増すばかりだった。
「ちょっと手伝ってほしいことがあってね……ふふふ」
「慧翔くんの話でしょ?」
彼女は即座に、私の推測を裏付けるような明るい声で答えた。
「そうなんだ。知りたいことがいくつかあるんだけど、詳しいことは明日話すほうがいいかも。手伝ってくれる?」
「…………いいわよ。それだけ?」
「ううん、ちがう。慧翔くんのことで、ちょっと真希ちゃんと話したくて。幼なじみなんだから、もしかしたら私を手伝ってくれるかと思って」
「……ええ、たぶんできると思うわ」
そうは言ったものの、実は彼のことをよく知らなかった。そして、自分の経験に基づいて言うなら……男の人のことなんてほとんど知らない。慧翔くんのことを、やっと知り始めたばかりだった。
「真希ちゃん……慧翔くんを落とすコツ、なにかアドバイスしてくれない?」
彼の好みを想像するしかなかった。
慧翔くんに迷惑をかけたくないし、それに、もし直接彼に聞いたら、きっと誤解されるに決まっている。
「具体的に、何を知りたいの?」
「えっと……へへへ……彼が好きなタイプの女の子を知りたいんだ」
ありとあらゆる質問の中で、まさかこれだったとは。
彼に本当に夢中なんだろう、こんなことを聞いてくるなんて。
「ごめんなさい。彼が好きなタイプの話なんて、一度も聞いたことないから、それについては助けられないわ」
それ以外のどんな質問でも期待していた。彼が好みそうなタイプの女性を作り出すこともできたが、彼がそんなことに同意するわけがないと確信していた。
彼女の声が一瞬途切れ、文句を言い始めた。
「好きなタイプも知らないの? 幼なじみなのに……」
「……ごめんなさい。あまり役に立てなさそうだわ」
彼女が話し終える前に、何か思いついたようだった。
「じゃあ……代わりに聞いてみてくれない?」
「…………」
提案があまりに突然で、なんて返事しようか考える時間すらなかった。
ちょうど私が何か言おうとした時、彼女がまた話し始めた。
「よし、頼んだよ、真希ちゃん」
私が止める前に、彼女は電話を切った。
もう……この子には。
やるしかないみたいね。
ほとんど反射的に窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。
夕食の支度をしないと。
少なくとも、頭痛は消えていた。これで、もっと落ち着いて考えられる。
部屋からリビングに出て、周りを見渡した。慧翔くんはいなかった。
たぶん、まだ自分の部屋で横になっているんだろう。こんな時間に出かけるわけがない。
とにかく、自分のことに集中しないと。
小説の原稿をリビングのテーブルに置き、キッチンへ向かった。
数分後、バランスのとれた夕食を作っていると、慧翔くんが部屋から出てきた。
眠そうな顔は、彼が起きたばかりだということを明白にしていた。特に何も言わず、私は料理を続けた。
彼はテーブルまで歩き、そこに置いてあった原稿を手に取り、黙って読み始めた。
「…………」
彼の表情が少しずつ変わっていった。驚いているようだった。ページを次々とめくり、注意深く分析している。
「黒川さん、すごいな」
彼は、はっきりと面食らった様子で言った。
そんな反応は予想の範囲内だった。
「褒めてくれてありがとう。でも、私が足した部分がなくても、十分いい話だと思うわ」
「いや……そうじゃないと思う。正直、あのレベルのままじゃ、ここまで到達できなかった」
その返答も想定内だった。ただ、思っていた以上に心に響いてしまったのは予想外だった。
「えっと……ありがとう、ってとこかしら。気に入ってくれて嬉しいわ」
どう直すか、かなり長い間考えていた。結局、三人称視点から書き直すことにした。最初は難しかったけど、そのうち慣れた。
間違いなく、この話を最大限に活かすための最善の方法だった。
彼はほとんどすぐにそれに気づいた。私の仕事をそんなに真剣に見つめる彼の様子に、満足感を覚えた。
夕食の支度を続け、気を散らさないようにしながら、彼はまだ黙って読み続けていた。
………………
…………
……
料理が終わり、二人で食卓についた。
慧翔くんは原稿を脇に置き、私と一緒に夕食を食べに来た。
完全な沈黙で夕食をとると思っていたが、沈黙を破ったのは彼だった。
「ところで……今朝のあれ、全部演技だったんだよね?」
「え? ああ、そうよ。もしかして、偽物だってわかってがっかりしてる?」
慧翔くんは腕を組み、少しむっとした表情をした。
「いや、そんなことは全然気にしてない。ただ、本当にうまくやってたから、真耶も全然気づかなかった。俺もまだ驚いてるくらいだ」
彼は少し間を置き、視線をお皿に落とした。
「ただ、それだけが理由で聞いてるわけじゃないんだけど」
じゃあ……?
「どういうこと?」
彼は一瞬フォークとナイフをテーブルに置いた。まるで、考えを整理する時間が必要なようだった。
「俺は……真昼には本当のことを話したほうがいいと思う」
彼は、少し警戒しながら私を見上げた。
「もちろん、あなたがそうしたいなら、だけど」
彼女とあれだけ話した後では、いいアイデアとは思えなかった。
それに、彼女が私に対して抱いているあの幻想を、壊すことはできなかった。考えるだけで罪悪感でいっぱいになった。
「話すなら、直接会って話すべきだと思うわ。それに……彼女の持ってる私のイメージを、壊したくないの」
慧翔くんは少し目を細めた。
「つまり……真耶と仲良くなったってこと?」
否定はできなかった。
彼女があんなに幸せそうで、遠慮なく笑っているのを見た後では、それを壊すことすら考えづらかった。
「……そうかもね」
私はお皿に目を落とした。
「彼女が悲しむところを想像したくないの。一葉さんが何も言わなかったのも、たぶんそういう理由だと思う」
慧翔くんは、一つ一つの言葉が腑に落ちるように、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど……本当に仲良くなったんだな」
彼は笑わなかった。
でも、機嫌を損ねているようでもなかった。
それでも、何か他のこと、声に出して言わないことを考えているような、奇妙な感覚がした。
そして、たとえ否定したかったとしても……
もう、それをするには遅すぎるとわかっていた。




