第1話「執筆と運命」
「……くそ、くそ、くそ、くそっ。」
何度読み返しても、何度書き直しても、結局――
最初に読んだときのあの衝撃的な感覚には敵わない。
あの一読目の新鮮さ。
あれが毎回味わえたなら、どれほど幸せだろう。
だけど、現実は違う。読めば読むほど、物語は予測可能になっていく。
初見では魅力的に感じたはずの展開が、今ではどこか物足りない。
──僕の名前は、和泉慧翔。十五歳。
これが、僕なりの自己紹介だ。
暗い部屋の中、唯一灯っているのは、机の上のランプ。
その光に照らされながら、僕は原稿用紙に埋もれていた。眠気と疲労で、頭が回らない。
完璧な小説を――それを書き上げたくて、一晩中、机に向かっていた。
「……もう、諦めたいな。」
世の中には、才能に恵まれた人間がいる。
そして、報われることなく、それでも努力を続ける者もいる。
僕は、どちらなんだろう。
構想が甘ければ、作品は形にならない。
それを痛感する夜だった。
時計を見る。まだ時間はある。
でも、そろそろ支度しないと、学校に遅れてしまう。
──一人暮らしって、思ったよりずっと大変だ。
親が毎月送ってくれる仕送りで、なんとかこの小さなアパートに住んでいる。
不幸な過去があったわけじゃない。ただ、少しだけ成績が良かった。
だから、名門校の奨学金をもらって、今ここにいる。
その奨学金に見合うように、ずっと結果を出し続けてきた。
世間では、こういう人間を「天才」と呼ぶのかもしれない。
……でも僕には、できないこともたくさんある。
昨夜は、原稿に夢中になりすぎて、気づけば朝だった。
寝不足で、意識が朦朧としている。
少しでも気を抜けば、そのまま倒れそうだった。
机の隣に置いたバッグに、ヘッドホンを突っ込む。
ストリーミング配信用の、ちょっと大きいやつだ。
そして、最後にランプの明かりをじっと見つめた。
制服に着替える。
白シャツの上にジャケットを羽織り、ズボンを慌てて履いた。
僕の思考や感情の変化は、物語の台詞に現れてしまう。
それが、僕の小説における最大の欠点だ。
この結論にたどり着いたとき、ふと悟った。
「天才」っていうのは、何もかも完璧にこなす人間のことじゃない。
ある一分野で突出している者のことなんだ、と。
冷蔵庫を開け、ゼリーを取り出して朝食代わりに口へ運ぶ。
外はまだ暗い。
でも、ドアを開けた瞬間、朝の光が一気に差し込んできた。
重い足を引きずるように、僕は歩き出す。
眠気は限界。――このままじゃ、本当に倒れるかもしれない。
玄関の鍵をかけてドアを閉めた、そのときだった。
何かに気がついた。
──一人の少女。
彼女は、まるで光を纏っているかのような美しさだった。
でもその眼差しは鋭く、空気を張り詰めさせるような冷たさを持っていた。
無表情で、どこか冷ややかな雰囲気。まるでアニメに出てくる“クーデレ”キャラのよう。
すらっとした体型で、僕とほぼ同じくらいの背丈。
そして、男を一蹴するようなタイプの女。
彼女の名前は、黒川真希。
幸いなことに、彼女は僕には関係ない存在だった。
たまたま同じアパートに住んでいて、
たまたま同じ学校に通っている――
それだけの隣人。
正直――彼女の存在なんて、どうでもよかった。
僕はいつも通り、無視するつもりだった。
彼女と話したことなんて、たった一度きり。僕がこのマンションに引っ越してきた、あの日だけだ。
何も考えずにエレベーターへ向かう。
ただ、早く学校に行きたかった。
でも……どうせ彼女も同じタイミングで乗ってくるだろう。
たまたまだとしても――少し、気まずい。
……こんな時は、イヤホンに限る。
音楽で空気をごまかすのが、一番手っ取り早い。
僕はスマホを取り出し、お気に入りの一曲を再生した。
2014年4月にアニメ化された作品の挿入歌。
初めて聴いてからもう《11年》……それでもなお、僕の耳に残り続けている名曲だった。
ふと横目で彼女を見ると、相変わらずの無表情。
でもその目は、エレベーターの隅を泳いでいて……妙に落ち着きがなかった。
特に気にせず、僕はスマホで〈X〉を開く。
彼女はエレベーターの中央に、じっと立っていた。
僕はというと、壁にもたれながら、片足を軽く壁につけていた。
やがて、エレベーターが一階に到着する。
「やっと、自由に動けるな」と、そんなことを思いながら外へ出た。
まずは、学校の昼食を買いに近くのコンビニへ向かう。
今月はあまり金がない。だから、何を買うか慎重に決めなきゃいけない。
……サンドイッチと緑茶くらいにしておこうか。
でも、それだけじゃ足りないかもしれない。
そんなことを考えていると――
横から、彼女が歩いてくるのが見えた。
……たぶん、彼女も何か買うんだろう。
気にせずそのまま買い物を済ませ、駅へ向かう。
目指すのは《山手線》。
そして――当然のように、彼女も乗ってきた。
彼女の姿は、車内の学生たちの視線を集めていた。
無視したかった。
でも……《満員電車》では、それも難しい。
結局、彼女は僕のすぐ隣に立つことになった。
……やっぱり、気まずい。
それでも、何事もなかったように振る舞うしかない。
電車の中には、ガタンゴトンという音だけが響いていた。
僕は目を閉じ、うつむいたまま立ち尽くす。
……が、視界の端で何かが動いた。
彼女がスマホを取り出し、〈X〉を開いたようだった。
――まあ、みんな使ってるし、別に珍しくはない。
でも、何となくその画面を見た瞬間、違和感に気づいた。
彼女のアイコン……どこかで見たことがある気がする。
思い出せないけど――確か、僕が知ってる小説家のものに、似ていた。
その時だった。
電車が、大きく揺れた。
それ自体は、別に珍しくもない出来事だった。
だが――問題は、そこじゃない。
彼女のスマホが僕の足元に落ち、
そして同時に、彼女の体が……僕に、しがみついたのだ。
「それ」を感じたけど――何も言わず、動かずにいた。
周りにも、よろめいた人は何人かいた。
けど、小さく声を上げて、誰かにしがみついたのは――彼女だけだった。
彼女は困ったような表情で僕を見つめ、
まるで一瞬、思考が停止したみたいだった。
……数秒後、はっとしたように我に返り、
今度は睨むような目をして、素早く僕から離れた。
しゃがんで、僕の足元に落ちたスマホを拾う。
その時、一瞬だけ――警戒するような視線が僕に向けられた。
……でも、もう遅い。
僕は、気づいてしまったのだから。
彼女は無言のままスマホを拾い、そのまま元の位置に戻っていった。
やがて、電車が駅に着いた。
――彼女は、誰なんだ?
同じクラスの女子。
男子とは、ほとんど話さない。
まるで彼女の周囲だけ、透明な壁があるみたいだった。
友達がいるわけでもない。
でも――成績は、いつも上位にいた。
しかし、本当の彼女は――
彼女は、ノベリストだった。
そう、小説家。しかも、僕は彼女の作品を読んだことがある。
けれど、その小説には明らかな欠点があった。プロットの構成が甘く、物語はいつも途中で崩れてしまう。特に長編になるほど、展開が雑になっていき、読者の多くは途中で離脱する。
……それでも、文章には人を惹きつける魅力があった。
会話のテンポも自然で、不自然さなど微塵も感じさせない。
もし僕が、彼女のように書けたなら。
――僕の小説も、もう少しはマシになるのだろうか。
そんなことを考えながら登校していると、彼女はいつの間にか僕のすぐ後ろを歩いていた。
電車での出来事に気づいているのかもしれない。
けれど、教室に着いても彼女は何も言わなかった。まるで、すべてを理解していながら、それでも関わるつもりはないかのように。
上履きに履き替え、教室へ向かう。クラスにはまだ誰もいなかった。僕はいつもの、一番後ろの窓際の席へ。
――そして、彼女もまた、静かに教室へ入ってきた。
授業は淡々と進む。
歴史、英語、そして、着任して間もない若い教師による書道の試験。
昼休み。
僕はいつものように、一人で弁当を開きながら、彼女の小説を再び読み返していた。
……だが、やはり無駄だった。
彼女の「レベル」には、どう頑張っても届かない。
他のアマチュア作家の作品を読むたびに、自分の才能のなさに絶望する。
彼女にも、誰にも――追いつける気がしない。
それでも、書き続けるしかない。
たとえ、何百回絶望しても、この時間は決して無駄にはならないのだから。
昼休みが終わり、午後の授業が続く。
そして、午後三時。終業のチャイムが鳴った。
部活に所属していない僕は、そのまま教室の掃除を任されることになった。
だが、僕は一人ではなかった。
彼女もいた。
椅子に座り、スマホを片手に、できるだけ音を立てないように何かを打ち込んでいる。まるで、そこにいることを消そうとするかのように。
一人で掃除するのは、正直気まずい。
「なあ、ちょっとは掃除手伝ってくれないか? 君も部活入ってないんだし、少しくらい協力してくれてもいいだろ?」
返事はなかった。彼女は、まったく動かない。
話しかけても反応のないその態度に、ますます気まずさが募る。
だから、僕は彼女のすぐそばまで歩み寄った。
……薄々、予感はしていた。
彼女は、きっと――書いているのだ。
昼休みに僕が読んでいたあの小説の、新しい章を。
その予感は、的中した。
スマホの画面には、小説の文章。
間違いない。これは彼女の筆致だ。
「やっぱり……君は、《赤音藤》あかねふじ だろ? ――小説家なんだよな?」
彼女の肩が小さく震えた。
驚いたように、ゆっくりとこちらを振り向く。
「……なんで……知ってるの? こんな、小さな作品なのに……」
そのとき、ひとつの考えが脳裏をかすめた。
僕は表情を変え、意味深な笑みを浮かべる。
彼女には決して読み取れない、謎めいた微笑み。
そして――今朝聴いたあの歌の主人公になったつもりで、軽く肩をすくめながら言った。
「まあ、俺は君の《読者》ファンの一人ってわけさ。せっかくだし、ひとつ取引をしないか? 心配しなくていい。悪い話じゃない」
彼女は何か言いたげに唇を動かしたが、結局そのまま飲み込み、黙ったまま立ち上がった。
そして、静かに僕を見つめていた――。
「それで、君の提案って何?」
それは質問というより、ただの確認に過ぎなかった。まるで最初から、僕に何の期待もしていなかったかのような声色だった。
彼女の表情は終始として冷たく、まさにクラスでよく見る、あの無機質な顔だ。
だからこそ、僕は言葉を慎重に選ぶ必要があった。
「えっと……どこから話せばいいかな……」
「最初から説明して」
「わかった。じゃあ、自己紹介から――」
「必要ない。君の名前は知ってる。クラスの皆も……たぶん知ってる。」
彼女の素っ気ない《そっけない》言葉に、僕は思わず小さく笑ってしまった。
彼女はまだ、僕が本当に何を言いたいのか、分かっていないようだった。
「俺はレンジ、上里だ。君と同じ、小説家だ。」
その瞬間、彼女はまるで詐欺に遭ったかのような顔をした。
僕の言葉だけでは信じてもらえないと思い、スマホの画面を彼女に差し出す。
「ほら、嘘じゃないだろ?」
彼女は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「……なるほど。それで、私に何の用?」
僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ意味深な笑みを浮かべながら言った。
「この世には、素晴らしいものがたくさんある。だけど、完璧なものなんて存在しない。 天才だって、完璧とは言えない。 誰だって、何かが欠けているんだ。 それは大統領でも、政治家でも、同じこと。」
僕は少しだけ息を吸い込み、ゆっくりと続ける。
「もし完璧を求めるなら、それを創り上げ、分析し、磨き続けるしかない。 ――君の物語も、完璧ではない。 だけど、もし俺たちの作品をアニメ化するレベルにしたいなら、普通のままじゃダメだ。 この世界には、こんな言葉がある。 『この世に完璧なものは存在しない。完璧なのは神だけだ。』――だけど、それでも、俺たちは完璧を目指せる。」
そう言って、僕は手を差し出す。
「――完璧な物語を、一緒に作らないか?」
彼女は僕の言葉に驚いたまま、沈黙した。 まるで時が止まったかのように、動きを止めてしまう。
だが、次の瞬間――
彼女は、ふっと微笑んだ。
「いいわよ。でも、一つ条件があるの。」
そう言って、僕の差し出した手に触れそうになりながら、その動きを止めた。
「……条件?」
僕は手を伸ばしたまま、次の言葉を待つ。
彼女は小さく息を吐いて、静かに口を開いた。
「私を、君の家に住まわせて。」
一瞬、頭が真っ白になった。
「……え?」
「……今、一人暮らしをしてるんだけど、お金が足りなくてね。 三か月前に親と喧嘩してから、仕送りが止まっちゃったの。 もちろん、男女が一緒に住むのは問題あるかもしれないけど…… 誰にもバレなければ、大丈夫でしょ?」
……予想外すぎる提案だった。
さすがにすぐに返事はできなかった。 このままでは、周囲に変な誤解を与えるかもしれない。
受け入れるなら、いくつかのルールは必要だ。
少し考えた後、僕は答えた。
「……いいよ。でも、条件がある。 俺の部屋に住むなら、家事を手伝うこと。」
彼女は満足そうに微笑み、僕の意図を理解したかのように頷いた。
「それなら、問題ないわ。」
そう言って、彼女は僕の手をしっかりと握りしめた。
「これからよろしくね。」
これが、彼女との出会いだった。
欠点を補い合う二人の小説家。
そんな関係、すごく面白いと思わないか?
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最後まで読んでくださってありがとうございます。
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