エピローグ 3
本編終了から19年後の話です
王都は戦勝の報告に沸いていた。
久しぶりに行われた戦争であるが、王の甥であり、後継者である王太子クロトルードにとって、初陣となるものでもあった。もっとも、軍を率いたことのない王太子は、兵を激励するためだけにいて、実際には経験豊富な司令官達が指揮を執ったのだが、最後の決戦では自ら先陣を切り、勝利に貢献したと、もっぱらの評判だ。
十七歳になる王太子は凛々しさを増し、その父を知る者達からは、最近、とみに父君に似てこられた、と感慨深く見られている。
凱旋の日、先触れを聞いていた民は、少しでも良い場所で出迎えようと、城門から王城に至る大通りに詰めかけていた。中には、門の外へ出て、街道の先に目を凝らしている者もいる。
そして、いよいよ王太子とその軍勢が王都へ入ると、歓喜の声が街を包んだ。近衛隊の一団に続いて馬を進める王太子は、実に堂々としていた。精悍な印象の顔をまっすぐ前へ向け、黒い瞳で民の様子を眺めながら、時折頷きでその歓声に応えている。
そのすぐ後ろには、宰相ライヒス公の子息で、王太子の腹心であるネルヴィル子爵が付き従う。一見柔和な容貌の、白皙の美青年に、女性達が見惚れて溜め息をつく。
その後に、此度の戦争に参加した貴族や正規軍兵士達が続き、最後尾に至るまで、民衆からの惜しみない称賛の声がかけられた。
王城前の広場には、王と王妃、それにフィオラ王女が出迎えていた。
先頭の近衛騎士達が広場の中に道を作るように立ち並び、王太子がその中を進む。広場の中程まで来ると、下馬し、そのまま王の前へ進もうとした。
その時、それまで硬く両手を組んでいたフィオラ王女が駆け出した。
帰還の挨拶と報告も、儀式である。手順と異なる事を王女がすることも、そもそも人前で走るという行為も、通常では考えられないことだった。
誰もが驚く中、王女は兄である王太子に駆け寄り、そのまま抱きついた。王太子も驚いた様子だったが、叱りつけることも、押しのけることもなかった。なぜ妹がそのような行動をとったのか、よく分かっているからだ。
貴族達は複雑な表情で、中には批判的な面持ちで見る者もいたが、平民の兵士や、広場の外から様子を見ていた民衆は、王女の行動を好意的に見ていた。家族の無事を願い、その帰還を喜ぶ、素直な行動だったからだ。出立の時、都の門に立って、祈るように両手を組み合わせながら、全ての兵を見送った王女の姿を、彼らは覚えていた。
「ちゃんと帰ってきたぞ。約束したろ。」
妹にだけ聞こえる声で囁きながら、背中を軽く叩いてやると、フィオラは肩に顔を埋めたまま頷いた。
「お帰りなさい。」
そうして離れると、すぐ後ろに控えていたネルヴィル子爵に視線を向けて微笑む。ネルヴィル子爵が礼を取りながら、
「お約束通り、王太子殿下には、無事御帰還いただきました。」
と言うと、笑顔で頷いた。
「ありがとう。貴方も、よく戻ってくださいました。」
そして、広場に居並ぶ将校や兵士達を見回した後、柔らかな笑みを浮かべ、腰を落として顔を軽く伏せた。慌てた将校や騎士が敬礼をし、兵士達はあっけにとられたが、中には涙を流す者もいた。王女が臣民に対して礼を取ることはあり得ない行為だが、死力を尽くして戦った者達への労いとしては、最上級のものであり、無事に戻ってきてくれたことに対する感謝をも表していた。
「フィオラ。陛下へのご挨拶がまだだ。」
兄に囁かれて振り返ると、王と王妃が温かい笑顔で、様子を見ていた。つい、感情のままに行動してしまったことを、今更ながらに認識し、赤面しながら兄について歩いていく。
王女が王妃の横に戻ると、王太子は王の数歩前に立ち、一旦右手を左胸に充てて顔を伏せてから、また顔を上げた。
「国王陛下。神々の加護を得て、ローヴェルンの敵は退けられ、陛下の兵が勝利いたしました。御代が、更に輝かんことを。」
王は鷹揚に頷き、居並ぶ者達を見渡した。決して声を張り上げてはいないが、その声は朗々と広場の兵達に届く。
「実に喜ばしい。我が王子と、我が兵達を誇りに思う。勇敢なる我が臣民よ。神々の祝福が、皆と共に在らんことを。」
総司令官が剣を掲げるのに合わせ、全ての将校と兵士、参戦した貴族が敬礼を行う。
「国王陛下に栄光あれ!王国に栄光あれ!」
満足そうにその光景を見る王の視線が、甥である王太子で止まる。その瞳に、懐かしさと微かな哀しみが浮かんでいることに、高揚した雰囲気に呑まれる周囲の者は、誰も気付くことはなかった。
帰還から数日、様々な後処理に追われたが、一段落したこの日、執務の合間に、フィオラとルークレヒトと庭を散策した。三人でのんびり散歩をするのは、本当に久しぶりのような気がする。実際に城を空けたのは、数か月程度だったのだが。
フィオラは、とても嬉しそうだった。七年前に都に来た頃は、感情を失くしたような状態だった妹は、何年もかけて、ようやく回復した。笑えるようになったし、拗ねるし、気を許した相手なら、よくしゃべる。それに、憎まれ口も戻ってきた。
「村からライサの実が届いたの。」
「ああ。そう言えばそんなことを言っていたな。」
国中の兵士が集まった今度の戦いには、西の駐屯地に詰めている部隊も参加していた。その中に、故郷の友人が何人もいた。村を出て以来、初めて会った彼らは、昔のように気安く触れ合うことは出来なかったが、旧友の為にと、勇敢に戦ってくれたのだ。
村にいた頃の楽しみの一つは、この時期に取れる果物とナッツを使用した焼き菓子だった。その果物を、送ってくれると言っていたのだ。
「ライサとヌクの実のケーキを焼くわ。」
「出来るのか?」
「焼き方は昔教わったもの。他の焼き菓子も、練習してるし。」
少しだけむくれたように、フィオラが口を尖らせた。その練習した菓子の出来は、生焼けだったりムラがあったりボロボロだったり、色々幅があった。出陣の前には、大分マシになっていたように思うが。
「上手に焼けたらみんなでお茶会しましょう。ルークもよ。」
「光栄です。」
「え。ルークに食べさせるのか?」
ルークレヒトは優美な笑顔でそつのない返事を返しているが、フィオラが作ろうとしているのは、庶民の、それも鄙びた辺境の村で食べられるような素朴な菓子だ。生まれた時から裕福な貴族の食事しかしていない彼の口に合うのだろうか、と心配になったのだが、ルークレヒトからは妙な視線を向けられた。口元は微笑んだままだが、薄い青の瞳には明確な圧がある。余計なことを言ってくれるな、ということらしい。
「王妃様にも差し上げるわ。ヌクの実のケーキは、褒めて頂いたのよ。」
「それは、楽しみですね。」
散策の足は、自然とバラ園に向かっていた。城から遠いせいか、他の貴族は滅多に立ち入らない。バラ園が見えてくると、フィオラは先にバラ園に入っていった。この時間は、王妃様と侍女達がいる。
「ルークは、フィオラが差し出すものなら毒でも食べそうだな。」
「王女殿下が下賜されるものなら、喜んで頂きますよ。」
「フィオラが好きか?」
「フィオラ殿下を敬愛している者は、大勢おります。愛らしく、慈悲深い方ですから。」
容姿に似合わず毒舌で、言いたいことをズバズバ言ってのけるこの友人は、これに関しては本心を柔和な笑顔で包み隠す。王女への思慕など簡単に漏らせるものではないし、ルークレヒトが慎重になるのは分かる。ただ、全てにおいて完璧な彼が、フィオラに好意を持つ理由が、よく分からない。
彼は初めから、フィオラに特に気を使って接してきた。主に隠し事はしないと、キルクに対しては腹黒なところも見せているが、フィオラには決してそういう面を見せようとしない。
「そろそろ、フィオラを他国との縁組に使おうと考えている者達がいる。」
フィオラも十五歳だ。王女であるからには、国同士の同盟の為、他国へ嫁す義務がある、という考えがある。ローヴェルンはこの二十年ほど、着々と国力を増強させてきた。異境の民の力をうまく取り込む国は、他にない。その効果は、時間をかけて、様々な形で現れていた。それでも、複数の国で組まれれば、厄介なことにはなる。今回もその動きはあったのだが、宰相が潰していたので、一国を相手にした戦争で済んだ。今後のことを考えれば、ローヴェルンとしても同盟国を確保しておきたいし、婚姻による同盟は、長期の効果が期待できる。
そういう理屈は、分からないではない。
「阻止するおつもりでしょう?」
「もちろんだ。フィオラは道具じゃない。」
フィオラは王女として生まれたわけじゃない。父も母も、そんなことは望んでいないはずだ。それに、回復したとは言っても、完全に元に戻ってはいないのだ。
出陣が決まった時、フィオラは蒼白になった。流石に、行かないでくれと言えないことも、戦場にはついて行けないことも理解していたが、必ず帰ってくることを、何度も約束させられた。
両親は、行ったきり戻ってこなかった。自分に何かあれば、フィオラは独りになる。一人置いていかれる恐怖は、自分にも覚えがある。そんな妹を、政治の道具として、知らない人間ばかりのところへやるなど、出来るはずがない。幸い、王様も王妃様も、フィオラを遠くにやることには消極的だ。
バラ園を望む蔦の通路の中は、差し込む光と柱が作る陰が交互に並び、ところどころで蔦の葉の隙間から零れ落ちる木漏れ日が、ゆらゆらと動いている。
「陛下。」
通路の中から、王が目を細めるようにして、バラ園の様子を眺めていた。キルクの声にゆったりと振り向き、穏やかに笑う。
「お一人ですか?供の者は?」
「向こうに控えている。ここに来る時は、一人が良い。なに、ここまで来る者は滅多にいない。」
確かに、ここに来る人間は限られてはいるが、護衛がすぐ傍にいないのは、不用心に思える。
「キルク。」
「はい、叔父上。」
ここに来てから、公式の場ではクロトルード王子と呼ばれる。本来の父の名を引き継いだのだ。父がくれたキルクという名は、プライベートで、ごく近しい者しか呼ばなくなっていた。
私的な会話が始まることを察したルークレヒトは、距離を取ったところで、見張りを始めた。
叔父である王は、少し奥まったところにある座席に腰を掛けると、石造りのそれを懐かしそうに撫でた。
「この場所だ。兄上と初めて会ったのは。」
「父と、ですか?」
王は、頷いた。
「父上の葬儀の日だった。ここで偶然出会った年上の少年に、兄弟と思って話をして欲しいと頼んだのだ。私が生まれる前に、行方不明になった兄がいることは聞いていたから、もし、その時、兄がいたなら、どうだったのだろうと思ってね。本当の兄上だと分かっていたら、どんなに嬉しかったか。」
初めて聞く話だった。父は、自分の家族の話はしていなかった。ただ、弟がいるかもしれない、と言っていたことはあった。その時の父の目は、普段見ないような悲しそうなものだったことを覚えている。
「兄上は、知っていたのかもしれないが、臣下としてひたすら支えてくれた。それに報いることも出来ず、兄と呼ぶことも叶わなかった。」
叔父が後悔を抱えていることは、七年間身近で見てきて分かっている。叔父はしばしば、あの時の父と同じ目をした。
「凱旋の日、広場に入ってきたお前を見て、兄上が戻られたのかと錯覚したよ。雰囲気が、よく似てきた。総司令官にも、いかに勇敢に戦ったか聞いている。」
叔父は、懐かしさと哀しみの入り混じった眼で、キルクを見つめた。父のかつての部下も、同じような目をする。皆、キルクを通して、父の姿を見ているのだ。それは、こそばゆいような、足が竦むような感覚だった。父が優れた人だったのは、様々な人が伝えてくれる。自分は、その足元にも及ばない。
「兄上も、神界からご覧になって、喜んでおられるだろう。」
父と母の死を知った時、王は、二人を王族というより、王と王妃に準じる扱いで葬ることを決めた。二人は、神界に招かれる資格がある、としたのだ。
「叔父上。もしかしたら、父はまだ神界に至っていないかもしれません。」
「なぜ、そう思う?」
「戦場で、父を感じました。敵陣に向け突撃する中で、父が共に在るような、すぐ横に馬を並べて走っているような。幼い頃、弓の引き方を教わった時のように、間近に父を感じました。フィオラも、母を感じることがあるそうです。もしかしたら、二人は、世界の一部にもならず、神界にも至らず、今もすぐ傍にいるのかもしれません。」
叔父は苦笑した。
「理に逆らって、か。ああ。そうかもしれない。あの二人なら。」
守ると決めたものの為ならば、どのような障害も越えようとする、あの二人ならば、あるいはそのような奇跡もあるかもしれない。
―――共に行くのか。
―――行くわ。
―――困ったな。置いていったのは、悪かったが。
―――本当に。すまない、の一言だけで、逝ってしまうなんて。
―――子供達がいたからな。
―――ええ。だから、もう少し、子供達の傍にいましょう。
―――いつか、時が尽きるまで。
―――いつか、世界に溶けるまで。溶けてもなお。
―――どこまでも、共に。




