太陽の影
『昔、空には太陽が一つ、あるだけでした。太陽が休む夜は真っ暗で、完全な闇でした。夜にも光が欲しいという願いを聞き届け、神々は、太陽の影を夜に置きました。太陽が隠れた後は、影がその代わりを務めたのです。』
近衛隊長の辞任が、顧問議会に通達された。同じ頃、魔物討伐部隊の総長が交代したことは、人々の関心を引かなかった。『第一王子』にまつわる事件に注視していた宮廷貴族達は、他の全てのことに、興味を引かれなかったのだ。
議会が終了し、宰相の執務室に向かうライヒス公を、すれ違う官吏や貴族達は強張った顔で見送っていた。
王の御前では、穏やかな表情と態度を崩さなかった公爵だが、御前を辞すると、途端に硬い表情になった。この若い公爵は、温厚で優雅な人物と思われていたのだが、今は、眼光鋭く、纏う雰囲気は冷たく、まるで強い怒りの中にあるようだった。
実際、彼は怒っていた。
近衛隊長の辞任は、いずれ宮廷中に知れ渡るだろう。罷免や追放という形を取らなかったのは、王の強い希望だ。それを甘いと捉える者もいるだろうが、この場合は、それで正解だ。
彼の忠誠も功績も本物だ。それを無視するような沙汰は、彼への同情を高め、状況を悪化させる。自ら職を辞し、宮廷から去る。それ以外にないことは理解しながら、納得はしかねた。
ライヒス公は、近衛隊長の能力を買っていた。同じ感覚で話ができる、数少ない人間だ。その彼が、このような事で失われることになるとは。
何某とかいう男爵は、くだらない私欲でこのような騒動を引き起こしたのだろうが、おかげで貴重な人材を失うことになった。どう報いを受けさせたものか、と若い公爵は冷たい怒りを滾らせていたのである。
宰相の元へは、本来、挨拶以上の用件はない。儀礼的なやり取りをしながらも、二人の意識は彼に向いていた。常は穏やかな宰相が、この数日は気難しげな顔をしている。
「宰相閣下。」
ライヒス公としては、確認しておきたいことがあった。今は従者も下がらせていて、室内は二人きりだ。
「彼は本当に、太陽の影だったのではありませんか?」
それは、軽い質問ではなかった。踏み込むべきではない領域かもしれない。しかし、公爵の一人として、これから王を支えていく者として、知っておくべきことと、ライヒス公は考えていた。
王の直系子孫以外の、潜在的な王位継承者を、神話になぞらえて、『太陽の影』とか『月』と言い表す。今までは、最も血縁の近い『月』は、ヴァルトレーテ公であった。しかし、もし兄王子が生きているのなら、それは最も近しい、王の影なのだ。
宰相は、静かに見返すだけで、何も答えなかった。肯定も、否定もしなかった。
根拠のない話ではない。良く注目してみれば、彼の存在は、初めから疑問が多い。
彼には、記録がないのだ。エルゼー伯爵家縁の家に養子に入る前の、記録がない。
流民や異境の民でもない限り、どこで誰から生まれたかという記録はある。正規のルートで売買されたなら、奴隷でさえ記録を辿ることが出来る。それは神殿の管轄だから、個人や国が介入して消せるものではない。
それに加えて、彼の年齢、近衛隊への入隊が許された事実、そして、彼の容貌と先の王妃の肖像画。それらをつなげれば、ある程度の推測は成り立つ。
今まで、誰もその可能性に思い至らなかったのは、そんなはずがないと思っていたからだ。当時、何の手掛かりも得られなかったのに、五歳の王子が生きているなどと、誰も期待していなかった。
しかし、もしその可能性に気付いてしまったのならば、彼の能力も人望も、王と国を支えるはずだったものが、王位の安定を脅かすものへと反転してしまう。
今回の騒動は、つまりはそういうことだった。
確証はなく、状況証拠だけではある。だが、おそらく、この件について最も多くを知っているのは、王子の拉致事件から中枢にいた、宰相であるはずだった。
「陛下は、父君に似ておられます。しかし、第一王子は―――」
「母君に、似ておられた。利発な御子であったよ。」
表情を変えることなく、呟くように、宰相は言葉を発した。
当時、宰相位にあったのはケルヴィッツ公ではなかったが、王子の捜索に関わり、国王夫妻の悲嘆を間近で見てきた。王妃は第二子を懐妊したばかりで、その時点では唯一人の王位継承者が消えた事件は、宮廷に恐慌を齎した。その時の恐怖は、今も忘れようがない、あまりに苦い記憶であった。
翌年、無事に第二王子が誕生して、ようやく宮廷は落ち着いたものの、第一王子が戻らないことは、王と王妃を悲しませ続けた。王妃が若くして逝去されてしまったのは、心労が重なったせいでもあった。
「彼と初めて会ったのは、彼が十三歳の時だった。似ている、と思ったよ。面影があると。先王陛下も、そう思われた。だから、エルゼー伯爵に彼を託し、近衛隊への入隊を許可されたのだ。」
「証は?」
「ない。」
「彼を連れてきたのは、先代のエルゼー伯爵ですね。何を以て、王子であると?」
「彼が身に着けていたという衣服と、腕の痣だ。確かに、高位貴族や王族が身に着けるような、上等な生地ではあった。」
そのような家の子弟が行方不明になれば、すぐに知れ渡る。第一王子の他に、そのような事件はなかった。
「疑念が?」
「エルゼー伯は、信頼できる人物だった。彼を養育したという樵も、純朴で嘘をつける人間ではなかった。だが、服は後から用意することも出来る。王家や王子の印がついていたわけでもない。誰にでも示せる証としては、弱い。それに、王子と同じという痣だが、覚えている者は、エルゼー伯以外にはいなかった。」
「エルゼー伯は、第一王子の近侍でしたか?」
「事件の時にはその任になかったが、その少し前まで、近侍していた。他の者は、事件に際して処分を受けている。侍従も女官も、小間使いや衛兵に至るまでな。最も王子を知る乳母は、殺されてしまったし。」
「しかし、調べ直せば、証を見つけることは可能だったのでは?処分と言っても、生きている者もいたでしょう。」
「時間がなかったのだ。」
静かに語り続ける宰相の顔に、苦悩の色がよぎる。
「もしや、先王陛下の病は、既に?」
その問いに、宰相は頷いた。
「時間が十分にあれば、彼が第一王子であるか否か、もっとよく調べることも出来ただろう。しかしあの時点で、既に第二王子を王太子として、ご逝去後の体制は固まっていた。覆すことは、出来なかったのだ。」
第一王子の帰還となれば、王位継承に関する全てが変更される。既に立太子された第二王子を廃し、より継承順位の高い第一王子を王太子とするのは、簡単な事ではない。王位継承を前提に結ばれた第二王子の婚約も、その国との関係も、見直さざるを得ない。
そうであるならば、王子であるか否かの証明は、厳格に成されなければならず、病に侵されていた先王には、その為の時間は、残されていなかった。結果的に、彼の出自も、立場も、あやふやで不安定なままになってしまった。
もし、彼が本当に王子であったのなら、そうだと証明できていたのなら、色々なことが変わっていただろう。彼は臣下でも影でもなく、彼こそが太陽となっていたであろうし、有能な王となっていただろう。そして、現在の王は、ただ一人、寂しい思いを抱えて過ごすこともなかった。
時折、王は、まだ見習いであった彼を傍に召した。講義を受けたり、武術の鍛錬をするのを見守るだけであったが、それでも、まるで兄弟のように見えて、その都度、心苦しく思ったものだ。
ライヒス公は、額に手を当て、長い溜め息をついた。
そうであるならば、彼は二度と戻っては来れない。王子ではないという証が立てられない限り、彼は王を脅かす存在であり続ける。彼が一部の貴族や他国に利用されるようならば、存在そのものを消さなければならなくなる。例え、王がどれほど嘆こうとも。自分も、出来ればそのようなことはしたくない。彼には、完全に身を隠してもらわなければならない。これは、大きな損失だ。
この時期に、魔物討伐部隊の総長も宮廷を去る。彼女の牙は折れたが、彼女だけなら、まだ復活は可能だった。しかし、彼は無理だ。状況が、大きく変わらない限りは。
「臣下とするならば、疑いの余地を、残すべきではありませんでしたね。」
若輩の自分が言わずとも、宰相は分かっているだろう。状況証拠になるものを、全て消すべきだった。あるいは、宮廷に入れず、生涯を平民として生きるよう、隠すべきだった。
「忍びなくてな。」
この宰相にしては、甘い判断である。事件をつぶさに見てきた宰相ならではの感傷であろうか。
しかし、寂しげに笑う宰相を、ライヒス公は責める気になれなかった。
後腐れなくこの件を処理するならば、彼を偽王子として処断し、支持者を名乗る者達も一掃すべきかもしれない。それは、反発を引き起こす可能性がある以前に、ライヒス公自身が避けたいと思う方法だった。そう思うあたり、自分にも甘さがある。
それに、宰相は彼の可能性を潰したくなかったのだ、ということも分かる。今はまだ王に子はなく、王族もいない。将来のことを考えれば、彼が王家の血筋である可能性を、残しておきたい。その可能性が高いと、宰相自身が考えているなら尚更だ。残念ながら、彼を残しながら、この件を処理することは、出来なかったのであるが。
ライヒス公は、むしろ自身に対して苛立っていた。
今まで、目立つ場所に立ちながらも、彼の出自に注目する者はいなかった。それが俄かに掘り起こされたのは、きっかけになることがあったはずだ。他国の内部まで目を光らせてきた自分が、事前にこの動きを察知することが出来なかった。まさか、あのような小物から、このような損害を被るとは。
「思わぬところで足を掬われるのは、これが最後ではなかろう。神ならぬ身で、全てを見通すことは出来んのだから。国を率いていくのならば、心せよ。」
師が弟子に含めるように、宰相は語った。いずれ国を背負う若者へ、後事を託す。何事も起こらなければ、墓場まで持っていくはずだったことを、ここで語ったのは、そのためだ。自分が見届けられない顛末を、間違いなく導いてくれるように。
隊長が交代し、果断に動き始めた近衛隊が、騒ぎを抑え込んでいくのは、少し先の話だ。
発端となった男爵には、窃盗と詐欺の集団との関りが明らかになり、同調者にも、少なからず、後ろ暗い部分が見つかった。世を騒がせた罪はあるが、偽王子を祭り上げたと大々的に喧伝することは出来ないから、別の方向から潰したのだ。その中には、捏造された罪状もある。それにはライヒス公も多少加担したが、現在の体制に不満を示しただけでも、本来は処罰の対象だ。どのような理由をつけてでも、公爵に彼らを許すつもりはなかった。
老宰相が、年齢を理由に退き、世を去るのは、更にもう少し先の話だ。
第一王子の件は、結局うやむやになった。最終的な決着を見るには、十年近い時を要したのだった。




