噂(1)
その夜、近衛隊長の家を訪れた客を、下男のマウルは丁重に出迎えた。
「これは坊ちゃま。お久しぶりでございます。」
昔の主の息子であるが、そう呼ばれた方は、近衛隊長よりも年上だ。とうに家督も爵位も継いでいる彼は、思わず苦笑した。
「坊ちゃまは止めてくれ、マウル。彼のことは、何と呼んでいるんだ?きちんと、仕えてくれているだろうね。」
「もちろんでございます。呼び方はまあ、あれですが。」
邸にいた頃の二人を知っているその客人は、現在の様子も容易に想像できて、苦笑を隠せなかった。
「フレイド殿。如何されたのだ。」
先代の近衛隊長の従卒であった頃、リオディスはその邸に世話になっていた。先代隊長の息子である彼には、兄のように良くしてもらった。一時は彼も近衛隊に所属していたが、父の跡を継いでエルゼ―伯爵となってからは、別の部署へ移り、そう頻繁に交流することもなくなっていた。
リオディスの部屋へ通された彼の様子は、下男と話していた時とは一変し、張り詰めた真剣なものだった。扉が閉まるなり、彼は片膝と片手をつき、顔を伏せる姿勢を取った。
実りの時期を前にして、宮廷はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。アルジュールとの戦後処理も終わり、近衛隊長も無事復帰した。ビフェルン伯は公爵位を継ぎ、顧問議会はようやく本来の姿に戻った。それに伴って、というわけでもないだろうが、婚儀も行われ、無事、夫人を迎えたようだ。
予測通り、今年は水が不足しがちで収穫量は減少する見込みだが、アルジュールからの補償で補うことは出来そうだ。アルジュールでも不作の傾向が明らかになってきており、その上、王の身代金の負担もあって、年長の王族を中心に不満が高まっていると聞く。当然の帰結ではある。
一方、魔物討伐部隊の内部は少々揉めていた。王都を離れるにあたり、総長をオリファに引き継いでもらおうと思ったのだが、彼女は、柄ではない、と言って渋っていたのだ。
そんな頃だった。宮廷と王都に、一つの噂が広まり始めた。
曰く、第一王子は生きている。
宮廷の人間も、最初は首を傾げた。民にいたっては、何のことか分からない人間の方が多かった。ある程度の年齢より上になると、そう言えば、と思い当たることがあったのだが、なぜ今になって、と戸惑う気持ちの方が大きかった。
その事件が起きたのは、二十年以上前だ。
王城から、王子が姿を消した。当時五歳の王子が自ら外へ出ることは考えられず、程なく、乳母と衛兵の死体が発見されるに及び、王子は何者かに拉致されたのだとされた。しかし、大々的な捜索にも拘わらず、手掛かり一つ見つからなかった。
やがて第二王子が生まれ、時が過ぎるにつれ、人々は諦め、第一王子は行方不明のまま、記憶に埋もれていった。
つまり、現在の王には、兄王子がいたのだ。
その事件の記憶がない世代は、そもそも先王に二人の王子がいたことすら知らない。王妃のお妃教育に巻き込まれた時に、魔物討伐部隊の幹部は耳にしたことだったが、そうでなければ、やはり何の話か分からなかっただろう。
ただ、行方不明の王子などと言う存在があれば、自分こそがそうだと騙る人間は出てくるものだ。その目的は様々だが、何であれ、名乗り出たとたん、取り締まりの対象になるのは間違いない。
だから宮廷は、当初、この噂を歯牙にも掛けなかった。
やがて、噂が変化した。
曰く、第一王子は、既に宮廷に戻っている。
これは、宮廷も王都の民もざわつかせた。最初の噂よりは、身近に迫った感じがしたのだ。
表面上は平静を装い、噂などに関心がない振りをしながらも、貴族達は、水面下で想像を巡らせずにはいられなかった。どこかの家が密かに庇護し、身元を偽って宮廷に送り込んでいるのではないかと、その年頃の男性をそれとなく観察している。もっとも、彼らが念頭に置いているのは、自分と同じ貴族階級か、せいぜい騎士階級であり、それ以外の者は、端から対象として考えていないのではあるが。
「ジンツェンゲルト男爵。これは・・・」
「申し上げた通りでしょう?」
とある邸に集まった、数人の貴族達が、テーブルを囲んでいる。使用人は部屋から遠ざけ、部屋の中の者以外、聞く人はいないはずだが、つい、声を潜めるような話し方になってしまう。それでも、抑えきれない興奮を、顔に上らせている者もいた。
「これが真実であるならば、事は重大だ。」
「さようでございますとも。これは、看過できぬ事実です。」
邸の主であるジンツェンゲルト男爵は、さして目立つところのない人物である。数代前に、武勲を立てた先祖が、騎士から貴族となったが、それ以降は目立つ働きもなく、本人も、地味な役職をいくつか務めはしたが、特筆すべき功績はない。
彼が、最近噂になっている『第一王子』が誰か知っている、と漏らした時は、誰もが冷たい視線を向け、嘲り、無視をした。しかし、その証がある、という彼の言に興味を持った者達が、こうして邸を訪れるようになると、それは水面下で密やかに、そして急速に広がり始めることになった。
「しかし、信用して良いのか。もし間違っていたら・・・。」
「この方の忠誠心に、疑いを持つ人はおりますまい。その方が確信しておられるのです。これほど確かな証はありますまい。」
「そうですとも。」
「しかし、ならばなぜ、公表されなかったのだ。」
「隠匿されたのですよ。陛下はまだ幼くてあられた。成人間近の第一王子がお戻りになれば、王位は第一王子が継ぐことになります。それでは都合の悪い方がいたのです。」
「それはつまり・・・」
「誰、とは申しません。が、お分かりでございましょう?」
「その威に背ける者はおりますまいな。例えこの方でも。だからこのような形で残されたのでしょう。」
「お気の毒に、ご本人も御存知ではないのでしょう。それゆえに、今も臣下の立場に留め置かれているのです。」
誰かを気に掛ける様子を見せながらも、彼らの頭にあるのは、不遇な現状への不満だった。
有力者のご機嫌取りにはずいぶん気を使っている。にも拘らず、良い評価を受けることもなく、華のある役につくことも出来ず、利権を得ることも出来ずにいるのだ。
それはきっと、正しい評価を下せない有力者のせいであり、邪魔をする政敵のせいであり、自分よりごますりの上手な誰かのせいだった。
「この状況は、正さねばなりません。王子が臣下の身に甘んじるなど。」
「さよう。誤りを正してこそ、世のありようも正されるのです。」
「しかし、容易ではないぞ。意図して隠された事実なら、この動きを嗅ぎつけられた途端、我々は潰されるだろう。」
「ですから、慎重に、下準備をしているのです。」
「というと?」
「『殿下』がご存命であることは、王都の民にも、既に広く知れ渡っております。いずれ国中に広まりましょう。密かに握り潰すことは、困難ですよ。」
「なるほど。」
「それと、同志をもっと集めることです。数が多ければ、我々の声は、陛下にも届きます。陛下はきっと、お喜びになられますよ。」
「う、うむ・・・」
浅はかな計算と欲が、彼らを動かす。やがて彼らは、表だって声を上げ始めた。
彼らが名指しした人物が、宮廷に波紋を起こした。
曰く、近衛隊長リオディス・ヴィルフリートこそ、第一王子である。




