惑い(2)
その後数日、王城に行く用がなかったのは、幸運だった。大泣きしてしまったから彼とは顔を合わせづらい、という以上に、ぐらついてしまった精神状態で、宮廷貴族と対峙するのが難しかったからだ。
出来るだけ変わらないように振る舞っていたつもりだったけれど、隊員の中にも、不思議そうな顔をしている子が少なからずいた。元々反感を持っている貴族達なら、この隙を見逃すはずがない。
「レイナ。ちょっとバラ園行かない?」
まるで、すぐ近所に行くような気安さで、アンヘラが話しかけてきた。
「エレナが心配しているのよ。話したいんだって。」
隣にいたナイアラが補足する。
王妃に会うのは、簡単ではない。たとえ家族であっても、いつでも気軽に、というわけにはいかないものだ。城の中だと人の目も多いが、庭の片隅にあるバラ園なら、確かに人の目も耳も、あまり気にしなくて良かった。
王城の庭を歩いたのは、初めてかもしれない。用事をこなすだけで、のんびり散策することなど、なかったのだ。バラ園も、初めて訪れた。
蔦に覆われた通路の話は聞いていた。この季節は、緑が濃く、日差しを遮って、心地よい風が吹いている。
柱の間からはバラ園が良く見える。エレナは、庭師や侍女達と庭のバラの様子を見ていた。
貴族階級の侍女は、庭の手入れなどしたことはなかっただろうけれど、王妃が手ずから世話をしているのを、ただ見ているわけにはいかない。日除けの布や手袋で肌を守りながら作業に加わっていたが、中にはエレナのように、楽しみを見出している人もいるようだった。
一緒に来ていたアンヘラは、いつの間に知り合ったのか、庭師長の孫と思しき女の子を見つけて挨拶をしに行った。入れ替わるように通路に来たのは、エレナだけだった。他の人達は、素知らぬふりで、庭の中に散らばっている。
通路に設えられたベンチに腰を掛け、その様子を視界の端に収める。エレナと個人的な話をするのは、半年ぶりだ。
「大変だったわね。レイナ。」
「ご心配をおかけしました。王妃様。」
例え友人でも家族でも、序列を守るのが宮廷の決まりだったが、エレナは苦笑した。
「エレナでいいわ。その為にここに来てもらったのよ。きちんと話したかったから。」
それから、真剣な顔で向き直った。
「事故の時は、胸が潰れるかと思ったわ。陛下も沈んでいらしたけれど、貴女の様子も、とても心配だった。周りのことが全く目に入っていないようで、壊れてしまったのかと思ったわ。」
あの時のことは、うろ覚えだ。自分が外からどのように見えているのかなど、気にしている余裕はなかった。
「隊長と貴女のことは、何となく知っていたのだけれど、あれほど深く想っていたなんて。」
少し、苦い気分になった。深いのかどうかは、まだ、よく分からない。けれど、オリファもエレナも気付いていたことを、自分が自覚したのは、ほんの数日前だ。
周りにはよく見えていることが、本人には見えていないことがある。自分がそんな状況に陥るとは、思ってもいなかった。
「ずっと、監視されていると思っていた。だから、こちらも注意しているのだと。」
「ずっと、見ていたとは思うわ。でもそれは、罰する為ではなく、守る為だったのだと思う。今になってみれば、隊長は初めから、壁になっていたと思うの。私達を根こそぎ取り除こうとしていた人達から。初めの頃は、そうは思えなかったけれど。」
「そうかもしれない。もっと早く気付いていたら、何か、変わっただろうか。」
エレナは少しだけ、視線を遠くに向けて、また戻した。
「オリファに聞いたのだけれど、貴女は、後悔してるの?」
エレナは、私とほぼ同じ時期にこの世界に来た。最初から、共に同じものを見てきた。
「巻き込んでしまったからね、みんなを。生き延びるために、命を懸けるなんて、矛盾している。分かっていたのに。」
「必要なことだったわ。」
「始めは仕方がなかった。あの時だけは、逃れようのないことだった。けれど、その後は・・・。他の方法を、探せたかもしれない。私は、考えもしなかった。そして結局、大勢の仲間を巻き込んでいる。今いる人だけじゃなく、これから来る人たちも。」
「レイナ。」
エレナは、私の拳の上に、手を置いた。
「レイナ。違うわ。貴女は、切っ掛けをくれたのよ。あの時、誰もが諦めていた時、貴女だけが立ち上がった。貴女が必死になっているのを見て、私も目が覚めた。貴女がいなかったら、今頃私達は、誰も残っていなかったのよ。そして、その後のことは、貴女が一人で決めたことだった?」
エレナは、一度首を横に振り、はっきりとした口調で続けた。
「違うわ。そもそも私達に選択権はなかった。その中で、どうしたら良いのかは、話し合っていたはずよ。私達が、こうするのだと決めたの。それにね、やっぱり他に方法はなかったと思う。」
緩やかな風が吹いて、ほつれ毛を揺らす。エレナは、バラ園に目を向けた。
「この立場になって、見えるようになったものがあるわ。異境の民に対する人々の感情は、それほど変わっていない。ファリエンの扱いが特別なのよ。それは、人の生活を守っているから。その役目を拒むのなら、奴隷になるか、神殿に保護を求めるしかなくなる。今でも、それは変わっていないのよ。変わるには、世代単位の時間がかかるわ。数年では無理なのよ。」
「兵士になるしかなかった、男たちみたいだ。」
「彼らよりマシよ。彼らは、軍の中でも蔑まれて、捨て石の扱いだった。ファリエンは独立した組織で、その中に差別はない。貴女は、足掛かりを作った。それ以上を望む人が現れたら、闘えばいい。貴女がしてきたように。」
穏やかな口調だが、エレナにしては、厳しいことを言う。
「それは、大変なことだ。」
もちろん、簡単なことではない。置かれた状況に不満があるからと、変革を求めるのは。
「ええ。でも、その大変なことを、貴女はしてきたのよ。」
その過程を、レイナのすぐ間近で見てきた。
初めて会った頃の彼女は、どちらかというと、目立たない方だった。物静かで自己主張をせず、いつも控えめに笑っていた。
けれど、ヘザーが処刑宣告をされた時、真っ先に声を上げたのは、彼女だった。何が起きているのか分からないまま、魔物のいる森に連行されて、恐怖も不安も、生きる意欲も、全てが摩耗していく中、ただ一人立ち上がったのも、彼女だった。
彼女は、静かだけれど、芯の通った人だった。
初めは、成り行きで代表者になっただけ、と言っていたレイナだったけれど、次第に、前面に立って、向けられる敵意を、全て受け止めようとするようになった。私達は、それに甘えていたのかもしれない。
「貴女はいつも、私達を守ってくれた。皆を守ろうと一生懸命だった。その貴女に文句を言う人がいるなら、今度は、私が貴女を守るわ。」
いつも彼女は皆の前を歩いていた。力強く、迷うことなく。その姿に、どれだけ力づけられたか。
「私にとって貴女は、姉のような人だもの。」
「頼りない姉だね。」
レイナは自嘲するように呟いたけれど、渦中にいた者は知っている。
「いいえ。」
彼女がいなければ、この国の異境の民は、今頃もっと惨めだった。
「レイナ、貴女は自慢の姉よ。」
彼女の奮闘は、変革を起こした。人の意識は、まだ、変わらない。けれど、異境の民の扱いは、だいぶ改善した。彼女の歩みがなければ、ここまで到達しなかった。だから、俯かないで欲しい。
「顔を上げて。レイナ。貴女は多くの人を助けてる。あの時の私達も、その後に来た人も、これから来る人も。」
理想には、まだ遠いかもしれない。けれど、彼女の踏み出した一歩は、間違いなく、大きなものなのだから。




