挫折か解放か
「やあ、ファリエンの。」
呼び止められたオリファが振り向くと、近衛隊の副長が笑顔で立っていた。
「カリベルク卿。」
挨拶をすると、涼やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「今日は一人なのか?」
「事務に用がありましてね。隊長殿は復帰できるそうで、おめでとうございます。」
「思っていたより早い復帰で良かった。陛下も、安堵なされている。」
王だけではない。事故の直後は、すぐ傍にいたこの副長も、色を失くして、硬い表情を崩さなかった。近衛隊の中にも緊張感が漂っているのが、部外者であるオリファにも分かるくらいだったのだ。
「総長が日参して面倒を見てくれたおかげかな。うちの隊長は、自分のことにはあまり頓着しない方だから。」
「それを言うなら、うちの総長もですけどね。」
思わずぼやくように言うオリファに、カリベルクは苦笑とも取れる笑みを向けた。
「あの二人は似ている。自分より、他の何かを優先するところが。自分のことは常に後回しで、だから、肝心なところに気付かないのだ。」
オリファは、ちらりとカリベルクの様子を観察した。
はっきりとは言わなかったが、自分と同じ立ち位置で上官を見守っているこの副長も、やはり気付いているのだろう。ならば本人の代わりに、文句の一つも言ってやりたくなる。
「隊長殿は本当に分かってないんでしょうかね。二十七でしょう、確か。」
すると、カリベルクは澄ました顔で肩を竦めた。
「うちの隊長は仕方がない。森の中の男所帯で育ったのだ。社会生活という点で言えば、十四、五の少年と変わりない。そちらの総長はどうなのだ。」
オリファは呆れて、白い眼を向けた。
「十四、五であの威圧感はありですか?」
「森の獣相手に、気合で勝負するのは日常茶飯事だそうだ。」
「あ、そうですか。」
なんだかもう、脱力感しかない。
妻帯者なのだから、先輩として助言してくれても良さそうなものなのに、この副長はどうやら上官を甘やかすつもりのようだ。これ以上あの隊長が現状を放置するつもりなら、直談判してやろう、などと思っていたら、副長に釘を刺された。
「だがまあ、今度のことで気が付いたのではないかな。周りが手を出すのは控えた方がいい。いずれ、落ち着くところに落ち着くだろうから。」
「そう願いますよ、本当に。」
「なぜ、私を助けたのですか?」
そう問うレーナの目には、珍しく不安が見え隠れしていた。
「お前が死ぬと、思ったからだ。」
あのままでは確実に、彼女は死んでいた。それは確かだが、レーナは溜息をついた。
「代わりに、貴方が死にかけました。」
「その方が、マシだろう。」
しかしレーナは、不服そうな顔をした。
「でも貴方は、近衛隊長です。」
彼女の言いたいことは分かる。
なぜ彼女を助けたのか、それは、目覚めてからずっと、自問してきたことだ。あの刹那の時、自分が何を考え、なぜあの行動を取ったのか。
最優先すべきは、王の安全だった。王と国に身命を捧げるという誓いは、決して変わりない。あの場にいたのが王ならば、王を守る為に動いていた。あの場にいたのが部下であっても、助けようとしただろう。それが隊長である自分の責任だ。
では、王と彼女があの場にいたならば、どうしたのか。きっと、自分は王を守ることを選んでいた。ただし、その場合は、彼女は死ぬことになる。
それはとても、受け入れ難いことだった。
身が引き裂かれるような、全てが暗黒に塗り潰されるような拒否感を伴った。
―――容認できない。
そこまで考えて、愕然とした。
それほどに、重い存在か、彼女は。
初めは、少し気にかかる程度だった。その瞳の強い輝きに、魅かれもした。しかし、失われることが絶望に結び付くほどの存在になったのは、一体、いつからだったのか。
「王の安全は最優先だ。だが、レーナ、お前も、死んではならない。」
レーナは意外そうな、そして、戸惑った顔をした。
「お前は生き延びる為に、闘ってきたはずだ。だから、まだ、死んではならない。」
それが己の勝手な願望であることは分かっている。それが、彼女を混乱させるであろうことも。
「あれは、俺が望んでしたことだ。お前に、生きていて欲しかった。その結果がどうなろうと、それは俺の決めたことだ。」
「でも、貴方が危険に身を晒すのは、違います。私は、異境の民だから。だから貴方も・・・」
そう言い淀む彼女の言いたいことも、想像はつく。
彼らは、どこの国の民でもない。どこの庇護も受けられない。だからあの時、あのような事態に陥ったのだ。そして自分も、彼女達を死の淵に陥れた側にいた。彼女達の無実を知りながら。
だから彼女は、今でも仲間以外を信用できずにいる。この国の一部になりながらも、誰に心を開くこともなく、気を許すこともなく、ただ懸命に役目を果たしている。生きる場所を確保するために、そして、仲間を守る為に。
「異境の民に、疑惑の目が向いた時期は確かにあった。だが今は、お前達を疑う者はいない。」
そう言われても、容易に信用は出来まい。あの時向けられた憎悪と敵意は、彼女の心に深く刺さっているはずだ。解消するのは、容易ではない。
異境の民は今でもよそ者で、それゆえに警戒され、監視下に置かれている。魔物討伐部隊ですらそうだったことを、彼女は知っている。だが。
「異境の民であることは、卑しむことではない。ただ異なる世界から来たというだけのことだ。それはお前が、一番よく知っているはず。俺とお前の命に、大した差はない。」
彼女の目は、納得しかねると言っているかのようだった。この世界の者から、このような言葉を聞くことは、まずなかっただろう。まして、宮廷に属する人間から。
「お前達は、謂れのない責めを負った。」
だからこそ、彼女は心に鎧を纏った。向けられる敵意から自身を守る為に、存在を阻む全てのものと闘う為に。全てを警戒し、常に気を張り、決して弱みを見せようとせず。
意地を張る性格だから、仲間にも心の内を明かしていないかもしれない。
「その責任は、俺にもある。」
レーナが目を見開いた。そこには驚きと、まだ晴れない疑念がある。
最初に恐怖を与えた。見せしめと称して。
あの時は、必要なことだと考えていた。同じことを繰り返さぬために。
だがそれが、彼女を追い詰める端緒となった。彼女の心を凍らせた衝撃は、その後も緩むことなく付きまとい、自身を守るはずだった鎧は、次第に重みを増した。
「間者と通じたあの娘を処断したことは、後悔はしていない。あれは必要なことだった。しかし、それ以外のことは、誤りだ。」
処刑を見せる必要はなかった。八つ当たりのような処罰も、不要だった。
彼女の瞳には、戸惑いと、それを上回る不安が見て取れた。
鎧はいつしか檻となり、鎖となり、本人を縛り付け閉じ込めて、軋みを上げながら押し潰そうとしている。しかしその一方で、立ち続けるための支えともなっている。もし、それを取り払ってしまったなら、彼女は自由を取り戻しはするが、闘い続けることは困難になるかもしれない。
―――それでも。
初めて彼女の視線を受け止めた時のことを思い出す。あの時の瞳の輝きは、既に弱まっている。彼女にかかる負荷は、一人で受け止めきれるものではなかったのだ。このままでは、彼女は壊れてしまうだろう。
―――その前に、今、ここで、解放する。
「お前達には、すまないことをした。」
もう、手放していい。その怖れも、苦しみも。
「お前達を脅かすものは、もう、無い。」
レーナの顔が歪む。息を呑み、肩を上下するようにして、苦しい息を押し出すようにしている。その表情は、悲観とも失意とも取れる。
テーブルについた手が震え、崩れそうな体を支えようとしているのに気が付いて、手を差し出す。
その痛みは、彼女だけのものではない。自分が引き受けなければならないものだ。そう、心に刻む。
「なに、を・・・」
謂れのない責めと、誤りだったと、この人は言ったのか。
悪かったと、謝るのか。
なぜ、そんなことを言うのだ。
この人は、監視者ではなかったのか。この国の害にならないように、見張っていたのではなかったのか。
この人は、嘘は言わない。言ったことがない。
ならば、この人はとうに、脅威ではなくなっていたのか。
私達は、断罪の口実を与えないよう、怯えなくても良かったのか。
それは、私達の生き方の、大前提だった。生きる場所を得るためには、価値を示し続けるしかないのだと。その前提が、既に消えていたというのか。
確固としたものが壊れていくような、足元が崩れていくような感覚がして、息が苦しい。
もしそうならば、これまでしてきたことは、何だったのか。死んでいった仲間達は、何だったのか。
私が引きずり込んだのだ、この道に。
「何を・・・今更、何を!」
差し伸べられた腕を掴み、思わず叫んでいた。
勢いよく振り上げた拳は、けれど、振り下ろすことは出来ず、震えるまま宙を彷徨う。
だって、この人は怪我人なのだ。私のせいで怪我をした。
(違う。そうじゃない。)
本当は、どこかで気づいていた。
この人が、脅威だったのではない。
この国が、私達を憎んでいたのだ。
上層部は、冷徹に見定めていた。その筆頭がこの人だと思ったのは、ただ、一番身近だったからだ。
『あの人でなかったら、評価してもらえたかも分からないんだぞ。』
きっと、それは正しい。いつからか、どこからか、私達は無意味な足搔きをしていたのだろうか。
ならば私は、どうすれば良かったのだろう。
何が正解だったのだろう。
分からなくなってしまった。
頭の中も、心の中も、収まりがつかなくて、ぐちゃぐちゃだ。膨れ上がった感情は抑えることが出来ず、堰を切ったように流れ出す。後から後から溢れる涙は、止めることが出来ない。
気が付いたら、彼にしがみつき、子供のように泣いていた。
ようやく涙が止まった時は、鼻が痛くて頭の中は真っ白だった。こんなに泣いたのは子供の時以来だ。一体どれだけの間泣いていたのかは分からない。感情に任せて、何か叫んだかもしれない。
「お前が悔いることではない。」
宥めるように、頭に手が置かれる。背中を支えるように包む腕が、温かい。
「お前は、すべきことをした。全力を尽くした。」
首を横に振る。出来ることは、もっとあったかもしれない。頭を使えば、目を凝らせば、もっと他に。
「お前は、仲間を守ることに、手抜きをしたか?」
「いいえ。」
それだけは、ない。その時に出来る全てを尽くした。
「ならば、前を向け。お前に、非はない。」
その言葉は、空白になった頭には染み入ってきたけれど、何かに弾かれたように、心の中にまでは入ってこない。
少し頭が冷えてくると、今更ながら、人前で大泣きしたことが恥ずかしくなってくる。
顔は、とても上げられないと思ったのだけれど、このままでいるわけにもいかない。
「すみません。」
こすった眼は腫れぼったくて、なかなか元に戻らないのではないかと思った。
「少し、休んでいけ。」
そう言う彼の表情には、軽蔑も呆れも、憐れみすらなかった。ただ、深く静かで、どこか、痛みを感じる目をしていた。




