此岸の境
その瞬間に何が起きていたのか、その時は分からなかった。
「広間から出ろ!!」
あの人の声だと思った。
でも、その切迫した響きの意味は分からず、多分、立ち止まって状況を確認しようとしたのだと思う。或いは、そのまま、あの人に目を向けようとしたのだったか。直前までオリファと何を話していたのかは、忘れてしまった。
声が聞こえた次の瞬間には、ひどくうるさい金属音が響いて、視界が遮られた。まるで雷が落ちたような音が響き渡り、耳の中でわんわんと反響して、周りの音が聞きづらくなった。視界は暗いまま、背中に衝撃を感じて息が詰まり、何か重石が乗ったような苦しさを感じた。
周りで大勢の人間が何かを叫んでいる。けれど、くぐもったような音で、あまりよく聞こえない。
『持ち上げろ』
『治療師を』
『誰か』
『急げ』
そのうち、圧し掛かる重みが和らぎ、体が引きずられるように移動した。どうにか起き上がろうとして、誰かが自分の上に覆い被さっていたことに気づいた。
そして、それが近衛隊長であると分かった時、動けなくなってしまった。
なぜなら、彼が動かなかったからだ。
「隊長?」
顔は伏せられて良く見えないが、ピクリとも動かず、ぐったりとした体の重みが増していくのが、不安で、怖かった。
「隊長・・・」
体を揺すろうと背中に置いた手に、湿った感触を感じた。見ると、手が赤く染まっている。
頭の中が真っ白になった。
「どうして・・・」
どうして、この人が倒れている。どうしてこの人は動かない。こんなことはあり得ない。
「たい、ちょう・・・」
声が震え、手が震え、心臓は早鐘を打つようで、息が苦しい。自分の体が、自分のものではないようだ。
周りの音が意味を持たない。
何を見ているのかが分からない。
自分が何を口走り、何をしたのかが分からない。
踊り場の天井から、燭台が落下し、その下敷きになったのだと理解したのは、しばらく経ってからだった。
気が付いた時には治療院にいて、大したこともない傷の手当てを受けていた。
痛みの場所など聞かれたけれど、あの人に庇われたのだから、擦り傷程度のものしかない。突き飛ばされたオリファの方が、痣を作っていたくらいだ。
だから、私のことなどどうでも良い。
「あの人を助けて。」
治療師は、「全力を尽くしています。」と答えたように思う。
それから数日、目を開かないあの人を、ずっと見ていた。
いや、官舎には戻っていた。夜になると誰かがやってきて、引っ張られるように治療院を出た。
昼はまた治療院に来ていたが、輝くように晴れ渡る空が鬱陶しくて、状況に合わない、と思ったのを覚えている。
顧問議会にも出席していた。
王は沈んだ表情をしていたが、あの人のことに関しては何も言わなかった。後は、何を訊かれて、何を答えたのか、よく覚えていない。一緒に出席したオリファには、間違ったことは答えていなかった、と後で教えてもらった。
治療院には、何度か、近衛騎士達もやってきた。
二言三言、言葉を交わしたが、なぜか彼らも責めなかった。
お前のせいだと、お前を庇ったせいだと、罵っても良さそうなものなのに。
治療師達には、傷の処置の仕方を教わった。傍に付き添って、何をすれば良いかも教わった。
その通りにしているのに、この人は目を開けない。
ふと不安になって、じっと眺める。
胸が規則的に上下しているのを確認できると、生きている、と安心して息をつける。
「出来る限りの事は致しました。あとは、ご本人の生きる力に賭けるしかございません。」
王城の治療師は、国でも最高の技術と知識を持つ人達だ。その彼らにこれ以上のことが出来ないのなら、私に出来ることは、もっとない。神頼みしかないというのなら、どの神でもいい。いくらでも祈る。
(どうか、助けて―――)
日が陰って、薄暗くなった。
<愛し子よ。悲しい―――悲しまないで―――>
飛竜達が騒めいている。
すぐ傍にいないのに、つながってしまったらしい。
飛竜が神話になる種族なら、この世界の神々と通じることも、できはしないだろうか。そんなことを、ふと考えてしまう。飛竜の感覚では、人に見えないものが見える。人が気付かないものに触れられる。それでも、この人の意識を引き戻すことは出来ない。力なく横たわるのを、ただ見ているだけだ。
<吾子よ―――>
意識を広げ、手を伸ばしているうちに、何かに触れた。
<吾子よ。星の娘よ。>
何だろうか。飛竜ではない。何かもっと、大きな存在。
大きすぎて、触れようにも触れられず、輪郭すら捉えられない。
いつの間にか、ぼんやりとした白い光が周りを満たしていた。
<生命を分け―――淵より、戻り―――お前、の>
茫洋として掴みにくい意識だ。
途切れ途切れの音声を聞いているような、すぐにぶれる映像を見ているような掴みづらさ。
けれど、もし、命を分ければ助かると言っているのなら、いくらでも分ける。本当なら、生死の境を彷徨っていたのは、私だったはずなのだから。
<―――込めよ。>
手を開くと、耳飾りがあった。
なぜここにこれがあるのだろう。淡い乳白色だった石が、青白くくすんでいる。
いや、それはどうでも良い。これに生命を込めていけば良いのだ。飛竜の感覚を辿れば、涙に力を移した方法が分かる。その応用だ。
石が熱を帯びる。
石の中に、黄色い炎のように揺らめく光が躍る。時に白く、赤く、その色を変え、弾けるように火花が散る。宙に散った火花は、一部が石に戻り、一部は横たわる彼に落ちかかり、吸い込まれた。
『―――止せ。』
石の中の炎は次第に力強くなり、石自体が黄色い輝きに満たされてきた。それを、横たわったままの彼の上に翳す。この石を媒介にして、この命を送り込めば、きっとこの人は目覚める―――
『何をしているのだ、お前は―――』
声が聞こえた気がして、思わず目を上げた。いつの間にか、ベッドに突っ伏していた。寝てしまったのだろうか、こんな時に。
治療院の中は静かで、緩やかに風が通り抜けていく。そこから見える中庭は強い日差しが明るく照らし、それが余計に、回廊と室内の陰を際立たせた。
彼はまだ、目を閉じている。もしかして、いつものように、冷静で、少し呆れたような目を向けてきているのではないかと、期待したのだけれど。
体の横に伸ばされた腕に、手を置く。治療師からは、時々腕をさするように言われている。
それで、微かに動きがあることに気付いた。
もう一度目を見ると、少しだけ、瞼が動いたような気がした。
「隊長。」
思わず、呼びかけてみたが、反応はない。
「隊長。」
再度呼びかけて、じっと見ていると、また少し、動いたように見えた。
どうしたらこの人は目覚めるだろうか。
手を握り、口元を寄せて、低く囁く。
「リオディス。」
王は、この人のことを名前で呼ぶ。王と勘違いしたならば、あるいは、目を覚ますのではないだろうか。
それが、正しかったのかどうかは分からない。けれど、確かに反応はあった。握った掌に少し力が加わり、それから、ゆっくりと、瞼が開いた。
虚ろな視線はしばらく天井を彷徨い、それからゆっくりと、こちらへと向いた。幾度か瞬きをする瞳に、いつもの強さはない。
「怪我は・・・」
掠れた声で、開口一番に発せられた言葉に、思わず戸惑ってしまった。
「・・・怪我をしたのは、貴方です。」
「お前は・・・」
「ありません。」
すると、深く息を吸い込み、
「ならば、良い。」
と言って、また目を閉じてしまった。
良くはない。ちっとも、良くはない。
治療師に、隊長が目を覚ましたことを告げて、回廊に出た。なぜかこぼれそうになった涙を我慢して、壁に寄りかかりながら、大きく深呼吸をする。
少し、腹が立っている。
怪我がなくて良かったと、あの人は言った。
良いものか。あの人は私の代わりに死にかけたのだ。
王の信頼厚く、部下の信頼も厚いあの人と私では、存在の重さが全く違う。何かが起きた時のインパクトも違う。それなのに、他人の心配をしている場合だろうか。これほど長く眠り続けて、これほど長く、心配をかけて。
ずいぶん長い時間のように感じていたけれど、ほんの数日の事だったということは、後で知った。




