吟遊詩人(3)
「世界を渡る方法、とか。」
鼓動が早まる。
この男は危険だ。誰かに聞かれる前に、離れるべきだ。
「人によっては、何よりも貴重な情報でしょう。興味をお持ちの方には、お教えすることも、やぶさかではありませんよ。タダで、というわけには、いきませんがね。」
「っ。」
この男は、私に喧嘩を売っているのか。
この男が求めているのは情報交換だ。隊員を巻き込む可能性を示唆した上での。
瞬時に感情が昂り、様々な思いが頭を駆け巡る。きつく拳を握りしめ、男に掴みかかろうとする自分をどうにか抑え込もうとする。
「貴女方は、元の世界に戻るべきだ。どれほど尽くしても、この国で貴女方は、異物のままですよ。」
耳を、傾けるべきではない。
ヘザーはきっと、簡単に耳を傾けて、信じてしまったのだ。
今の私は、あの時のヘザーより多くのことを知る立場にある。だからこんなことは、おそらく序の口なのだ。一々動じてはならない。
けれど、今は時期が悪い。故郷を意識してしまった、二度と帰れない痛みを感じてしまった直後なのだ。
気が付くと、男は消えていた。
揺さぶりだけかけて、今日は去ったか。
握りしめていた手が痛い。
「あの男は、何と言ったのだ?」
心臓が跳ね上がるかと思った。だから、動揺を隠せなかった。
すぐ横に、近衛隊長が立っている。
非はどこにもない。だが、その前に、疑いすら持たれてはならないのだ。
「帰る方法と引き換えに、情報を渡せ、とでも言われたか?」
血の気が引く気がした。
先程までと異なり、明確に感じる威圧感。
終わったかもしれない。
とぼけるべきだろうか。それとも、言い訳をすべきか。
いや、答えは否だ。この人に、小手先の誤魔化しが効かないのは、よく知っている。
「聞いて、いたのですか?」
「いいや。言葉は聞こえなかった。」
唇を噛みしめる。鎌をかけられたのか。
確かにそう言われた。それに対して返答はしていない。
だが、ただそれだけで、見る人によっては反逆の証となる。
「では、なぜ?」
「お前がそれほど怒る理由が、他に思いつかん。」
思いがけない言葉を聞いたように思った。
ゆっくりと、隣に立つ人を見上げると、その視線は別の方向に鋭く向けられていた。威圧感の向かう先も、同様に。
こちらの視線に気づいたのか、隊長がこちらを見て、眉を顰めた。
「顔色が悪いな。まだ体調が戻っていなかったのではないか?気分が悪いなら、倒れる前に言え。」
疑っていないのだろうか。
その言葉を聞けば、この人なら、間者に通じた可能性を、考えそうなものなのに。
「聞こえているか?」
「はい。」
その顔は、既にヴィルフリーデン子爵ではなく、すっかりいつもの近衛隊長だ。
差し出された手を取るべきか否か躊躇している間に、勝手に手を取られた。まるで、年長者が子供の手を引くかのように。
心なしか、過保護になっている気がする。湖での失態のせいだろうか。
隊長はもう一度、テラスの方向へ視線を投げた後、
「戻るぞ。やることが出来た。」
と言って、歩き出した。
その後すぐ、吟遊詩人の話は聞かなくなった。
公爵の茶会にあの吟遊詩人を連れてきた伯爵夫人は、その後なぜか大人しくなり、あえて話題にする貴族もいなくなった。それとなく隊長に聞いてみたが、お前はこの件には関わるな、と釘を刺された。
あの時は動揺してしまったが、あの男に聞きたいことがあったのだ。ヘザーの件に、関わっているのではないかと。もしそうならば、私はあの男を、決して許すことは出来ないだろう。
どこにあるかも分からない牢の中は、一切の明かりがない。湿った牢の中に、男は何日もつながれていた。顔にも手足にも痣が出来ているが、まだどこも欠けてはいない。
足音がして、扉についた小さな格子の向こうに、揺らめく明かりが見えた。久しぶりに差し込む光に、思わず目を瞑って顔を背ける。扉を潜ってきたのが誰なのかは、すぐに分かった。目が開かなくとも、この男の気配は違えようがない。
「よう。騎士さんが、拷問とか、やるもんかね。」
「お前が何者かによるな。」
淡々と落ち着いた口調だ。いけ好かない。
ここまで上手くやったと思っていたが、少し、近づきすぎたか。
貴婦人でも下働きの女でも、手の平の上で転がすのは訳なかった。ただの貴婦人より使い道のありそうな鴨が転がっていたから、釣ってみようとしたところで、この男の目を引いてしまった。大層な二つ名は、伊達ではなかったか。
吟遊詩人は、自嘲も込めて笑っていた。
「お前は以前も、異民から情報を得たのか。」
「さあね。どうだったかな。」
「お前は神殿にも頻繁に出入りをしているな。持ち物から、神殿楽師の偽証も見つかっている。」
「失敬な。俺は本当に神殿の楽師だったことがあるんだぜ。」
「それで、ありもしないものを餌に、異境の民に間諜を手伝わせたか。」
楽師は答えず、ただニヤリと笑った。
「その手が使える者ばかりではないぞ。」
「あの総長とやらは、かなり動揺していたぞ。」
動揺して当然だ。この男の使った手は、三年前の出来事を彷彿とさせる。彼女達にとって、忘れようもない事だ。そして、動揺が収まった後に、レーナが何を考えるかも、容易に予測できる。この男が三年前の件に関わっているかどうか、今となってはどうでも良い。だがこの男を前にして、その可能性を確信した時、彼女は自分の感情を抑えられないだろう。
あの時、庭園で一瞬見せた、殺気とも取れる怒り。次は、堪えようとはすまい。それは、彼女にとって、越えてはならない一線を越える結果になるかもしれない。後戻りの出来ない、彼女が変質してしまうかもしれない一線だ。
だから、関わることを禁じた。
それにしても、彼女から何かを引き出そうとするには、この男の取った方法は稚拙だ。状況によっては、悪手でしかない。
「落ちると思ったか、総長が?」
男は笑い出した。初めは声を立てず、次第に肩を揺するようにして。
「どっちでも良かったんだ!本当に情報を寄越しても、そう疑ったあんたらが連中を排除しても!」
ならばこの男は知らなかったのだ。レーナは王妃を裏切らない。仲間を窮地に落とさない。だから、彼女がこの国を裏切る理由は、どこにもないことを。
「残念だったな。」
男の笑い声を背に聞きながら、リオディスは牢を出た。あの男が日の下に出ることはもうない。
『評判の吟遊詩人』は人知れず、その存在を消した。




