湖中の光(4)
湖から引き揚げた後、侯爵が用意した治療所で、傷の処置を受けたり、処方された薬を飲んだりして過ごしたが、三日もすると、普通に歩けるようになった。
頭痛はするし、すぐに息が切れるが、動くことは出来る。本当はすぐに動けるだろうと思っていたのだが、小屋から移動しようと立ち上がったところで気分が悪くなり、二メートルも歩けなかった。悔しいが、あの人の言っていた通りだ。
他の怪我人はとっくに治療を終えて、通常の活動に戻っている。一番ひどいのが自分だったのだ。それも、自分でつけた傷と言う間抜けな理由で。帰りは荷馬車で運んでもらうことになるだろう。
「動けるか。」
引き揚げ準備が進む中、隊長がやってきてそう聞いた。
「動けるようなら、侯爵にご挨拶に行くが。」
「動けます。」
「痛みは?」
「大丈夫です。」
痛みはもちろんある。痛み止めは使ってもらっているが、じんじんとしていて、左腕はあまり動かしたくない。
隊長はじっと顔を見て、珍しく大きな溜め息をついた。
「何か?」
すると隊長は、そっと私の左腕を取った。
それでも走る痛みに、反射的に体が強張ってしまう。
「やせ我慢をするな。痛くないわけがないだろう。この傷は、しばらく熱も痛みも続く。」
そう言って、額に手を触れる。何か、信用されていないような気がする。
「気分が悪くなるようならすぐに言え。侯爵のところまでなら、俺が運ぶ。」
「いえ大丈夫です問題ありません動けます。」
心臓が大きく打つとともに頭痛がした。自分で自分を傷つけるという失態を見られた上に、この人に抱えられて移動するなんて失態を上塗りできない。意地でも自力で歩く。
治療を受けていたのは、侯爵邸の敷地内の建物だ。本邸まではすぐだが、いつもよりゆっくり歩いているのは、もしかしたら合わせてくれているのだろうか。ときどき疑わしげな視線を感じる気がする。
本邸に到着すると、館の中が慌ただしい様子なのに気が付いた。通常ならすぐに応対に出てくる執事もいないので、通りがかった使用人を捕まえて、何があったか聞いてみると、
「お嬢様が・・・」
とだけ言って足早に去って行ってしまった。
せっかく助けた女の子に、何かあったのだろうか、と不安を抱きながら、勝手に上がって行くこともできず、その場に留まっていたら、ようやく使用人の一人が近寄ってきてくれた。他の使用人より良い服を着ているから、従者かもしれない。
「大変失礼を致しました。お嬢様が目を覚まされまして、皆さま、お嬢様のお部屋にお集まりです。」
良かった。無事だったのだ。今回、唯一の生還者だ。
「それは、我々にとっても喜ばしい。ご挨拶にお伺いしたのだが、お取込み中であれば、改めることにしよう。」
と隊長は告げたのだが、その使用人は首を振った。
「いえ、旦那様からは、お二人がお出でになられましたら、お通しするよう仰せつかっております。」
「よろしいのか。」
「どうぞこちらへ。」
恭しく案内してくれるのに従い、階段を登って廊下を進んでいく。気は焦るのだが、いつも通りには歩けない。いつもは決して使わない手摺をつかみながら登り、息が荒くなるのを押し隠しながら歩いていると、時々隣から呆れたような視線を向けられる気がする。先導する人も何かを感じたのか、ゆっくりめに歩いてくれるのがありがたい。
部屋に着く頃には、息切れも頭痛もおさまっていた。
女の子の部屋の中は、侯爵一家と女中が一人いるだけで、執事も案内してくれた人も、部屋の入り口で待機していた。
ベッドで横たわる少女を囲むようにしている一家は、全員が泣いていた。苦り切った顔しか見せなかった侯爵も、孫を案ずる言葉を一言も発しなかった夫人も、硬い表情を崩さなかった子息も。母親である子息夫人は、当然の如く、止め処ない涙を流している。
安心した。ちゃんと心配していたのだ。そして、無事を喜んでいる。
こちらに気づいた侯爵が、涙を拭い、感極まった表情のままで近づいてきた。
「孫を救ってくださったこと、深く感謝する。貴公らには、心からの礼を言わねばと思っていたのだ。孫の為に傷を負った総長殿には、孫からも礼をさせたい。」
そう言われると逆に後ろめたい。精神干渉を受けたせいなのだし、本当はこれほどざっくり斬らなくても良かったはずなのだから。
「ただ、この部屋で見聞きしたことは、領民達には言わないで頂きたい。孫の他は、結局戻らなかったのだ。」
ようやく理解した。なぜ、家族に対して冷淡な態度を取っていたのかを。
領民を、慮っていたのだ。
最初に会った時も、二度目の時も、他者の目があった。自分の家族の心配だけをして、その無事だけを喜ぶことは出来ない。それがこの侯爵の、領主としての覚悟であり、この侯爵家の在り方なのだ。
帰投の日、侯爵父子が村を訪れているところを見た。家族を亡くした村人達はまだ悄然としていて、侯爵父子も硬い表情を崩さなかった。
館の窓から見下ろせるところに、一抱えの荷物を持った若い女性が立っている。少しやつれた様子でこちらを見上げ、やがて膝を折って挨拶をすると、ゆっくり背を向け、歩いていく。その様子を、侯爵の令孫エリアンネは、窓に張り付くようにして見ていた。
世話係の彼女のことが、エリアンネは大好きだった。彼女が暇を出された理由が、自分のせいであることを、少女はもう知っていた。
あの日、湖を見に行きたいと、しつこくせがんだのはエリアンネだった。それでも、自分に何かあれば、責めを負うのは彼女なのだ。もしエリアンネが死んでいたら、彼女も命を以って償うことになっていた。
だから、上に立つ者は、自らを律し、その言動に責任を持たなければならない。祖父の侯爵は、エリアンネにそう言い聞かせた。
「覚えておきなさい。エリアンネ。お前は私の宝だが、お前の願いであっても叶えてやれないことはあるし、筋は通さねばならない。」
「はい。おじいさま。」
項垂れる孫の頭を撫でながら、侯爵は優しく問いかけた。
「総長殿に、きちんとお礼は言えたか?」
「はい。」
少女は祖父に向き直り、胸につけたブローチに触れた。
「おじいさまにいただいたこのブローチを、ほめて下さいました。ほんもののお守りだから、たいせつにと。」
「そうか。」
侯爵は目を細めた。
それは、誕生日に、お守り代わりと思って孫に贈ったものだ。魔除けの草の話を聞き、その花を根の液で覆い、樹脂で固めた特注品だ。本当の意味での魔除けになるとは思っていなかったし、孫が助かった理由がそれなのかも確信がない。だが、もしそうなら、嬉しく思うとともに、心苦しくもある。一般の民は、このようなものを持つことは出来ないのだ。
「こわい方かと思っていましたが、やさしい方でした。」
それは侯爵も感じていた。色々と噂のある人物であったが、直に接すると印象は異なる。分かっていたつもりではあったが、噂を鵜吞みにせず、自ら確かめなければ判断を誤る。
今はただ、感謝のみだ。




