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蒼天の星と漆黒の月  作者: 紫月ふゆひ
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湖中の光(3)

『戻れ!!レーナ!!』


 誰の声だろう。それは、私の名前だっただろうか。

 溶けていく意識に引っかかるその声は、引き戻そうとするその響きは、あの人のものか。


『なぜ?』


 淡い茜色が散っていく。

 暗い湖面に揺らぐ二つの月。木の葉のように浮かぶ小舟。投げ込まれた影は二つの月を赤く染めながら、ゆっくりと沈んでくる。


『なぜ、うらぎったの?』


 空間が弾けた。

 細かな泡が周囲で渦を巻き、背中を強く突き上げる流れを感じる。

 取り囲む泡が消えた時、(くさむら)と、大勢の人間が囲んでいるのが見えた。皆、青い膜の向こうで盛んに何かを言っている。

『何をやっているのだ、お前は!』

 この人が感情を顔に乗せるところを、初めて見た。けれど、その姿も、声も、全てが遠い。


 草の臭いがした。ミントのような、それより刺激のあるような。

 その臭いは急速に強くなっていき、唐突に感覚が戻った。音も、色も、痛覚も。

「レイナ!」

「レーナ!」

「総長!」

 周囲で複数の人間が叫んでいるが、答える余裕はない。突然襲ってきた腕の激痛に、息が詰まりそうだ。皆、少し落ち着いて欲しい。しかも、痛む腕をきつくきつく抑えているのは誰だろうか。




 その後、少し気を失っていたのかもしれない。気が付いた時には、小屋の中に寝かされていた。

 左腕にはきつく包帯が巻かれていて、心なしか指先の色が右手と違う気がする。小屋の窓は少しだけ開いていて、晩秋の柔らかな光が差し込んでいた。

 左腕を持ち上げ、手を開いたり閉じたりしてみる。どうやら動く。おかしな筋は斬っていないようだ。

 全く、馬鹿なことをした。ニキに怒られるだろうな、と想像して溜め息をついた。


 まさか精神干渉をしてくるとは。いつの間に飲み込まれていたのだろうか。

 魔物討伐に関わるようになった時、どうしてここの人達は対策を立てて対応しないのだろうかと思ったが、空気の振動を利用したり、人型になったり、精神干渉をしたり、これほど多様であれば、対策の立てようもなかったのだろうと納得してしまった。


 本当なら、この国にはない、桜や雪を見た時点で気づくべきだった。あれは、故郷の光景だ。夢か幻でもなければ、見るはずもない。

 故郷の町には、桜の名所になっている公園があって、一面に桜が植えられている広場があった。子供の頃は、毎年家族でお花見に行っていたものだ。最近は予定が合わなくて行けない時もあって、あの年もそうだった。あの時は、また来年行けばいいと思っていた。


 また今度。

 また来年。


 その『来年』は、やってこなかった。その年に、ここに来たのだから。


 不意に、こみ上げてくるものがあった。

 何とも言いようのない痛みがある。腕の傷とは異なる場所の、見えない痛み。抑えようもなく溢れてきた涙が、一筋、二筋、頬を伝う。


 帰りたいと思ったことは、何度もあった。あの場所が、快適で安全だったからだ。

 けれど、ヘザーがなぜ心を病むほどに故郷を思っていたのかは分からなかった。そこまでの強い想いは持っていなかった。

 だから、私は帰れないことを受け入れた。この世界に順応しようとすることができた。


 けれど。


 二度と帰れない場所。二度と見ることのない風景。二度と会えない人達。

 そう認識してしまった今、ようやく彼女の心の一端に触れたのだ。

 あの時の、悲痛な叫びが、痛みを伴って甦る。


 苦しさを感じて、胸を押さえながら深呼吸を繰り返した。こんなところを誰かに、あの人に見られたら、何と思われるだろうか。

 知られてはならないのだ。私の中にある弱さを。






 思いがけない状況にはなったが、侯爵令孫の救出と討伐は完了した。飲み込まれていた兵士達も戻った。

 最後の瞬間、何かが破裂したように湖が盛り上がり、溢れるように岸辺に押し寄せたことで、人間以外のものも岸に打ち上げられた。消えた村人が身に着けていたと思われる衣類の切れ端だ。念のため、泳げる者に水中も探させたが、視認できる範囲に、人の姿はなかった。村人にとっては、残念な結果だろう。


 侯爵への報告と怪我人への対処の指示を終え、リオディスは湖近くの小屋に向かっていた。レーナを運び込んだ小屋だ。彼女が飲み込まれたのは想定外だった。水上で飲み込まれたのは、彼女だけだったのだ。漕ぎ手は、いつ彼女が消えたのか気づかなかったと言っていた。矢だけで倒せなかった時のために、槍を握っていたというから、自ら飛び込んだ可能性はある。

 なぜいつも向こう見ずなことをするのか。それに、彼女の腕の傷は、明らかに刃物でついたものだった。自らあのような深い傷をつけるとは、一体、飲み込まれた先で何があったのか。 


 小屋に入ると、既に彼女は目を覚ましていた。小屋の中は薄暗いが、囲炉裏に火が焚かれ、扉と窓から幾ばくかの光が入る。その中で見る彼女の様子は、何かおかしかった。血を失った為に顔色が悪いのは致し方ないが、よく見ると顔に筋がついていて、目が少し赤い。


「傷が痛むのか?」

「・・・少しばかり。」


 それは違う。

 傷の痛みならば、彼女は意地でも隠そうとする。別の何かが、あったのだ。しかしそれは、今は触れない方が良いような気がした。


「その腕は、自分で斬ったのか?」

「そのようです。うろ覚えですが。」

「そうか」

「・・・・・」

「討伐は完了だ。侯爵が治療の場を用意してくださった。後で運ばせるから、それまではここで休んでいろ。」

「歩けます。」

 白い顔で、弱った眼でそのようなことを言われても、信用できるわけがない。

「血を多く失ったのだ。途中で倒れるぞ。大人しく運んでもらえ。」 

 そう言うと、少し不満そうな顔で頷いた。


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