湖中の光(2)
魔物をおびき出すことは出来そうだったが、水辺だけでなく、水の上でも戦えるようにするには、舟が足りない。近隣から舟を集めたりしている間に、本当に近衛隊長が派遣されてきた。第一報では、誰が失踪したのか、どういう状況なのか不明瞭だったのだ。侯爵か、王の叔母君である侯爵夫人が事件に巻き込まれた可能性も考えられたようだ。
ここは王都からそれほど距離があるわけではないし、騎馬のみなら移動は早い。
侯爵夫妻は、畏まった様子で隊長を出迎えたが、相変わらず表情は憮然として硬かった。
「孫の不注意、いや、私の指導が行き届かず、このような事態を引き起こしたことを恥じておる。陛下の御身をお守りすべき貴公を煩わせてしまい、申し訳ない。」
「陛下をお支えすべき私共が、陛下のお心をお騒がせしてしまい、心苦しいばかりです。」
まただ。
侯爵夫妻は、隊長の背後にいる国王に陳謝する姿勢を見せるばかりで、孫娘を心配する素振りは全く見せない。
「陛下はお身内の災難を憂えておいでです。ご令孫の救出に、全力を尽くします。」
隊長のその言葉に、夫妻はまたもや恐縮しきりであったが、孫の救出よりも、王の身内とされたことに対してだった。
隊長がこの夫妻の対応をどう思っているのかは、いつも通りの無表情と、淡々とした口調のため不明だ。この夫妻の態度が当たり前のことなら、何とも思ってはいないのだろうが。
魔物に取り込まれた人間がどうなるのかは、分からない。飲み込まれた兵士に聞いても、よく分からないうちに岸辺に転がっていたというだけなので、侯爵の孫も、今までに消えた村人も、あの中に取り込まれたままなのか、いつまで無事にいられるものなのか、見当がつかない。
急いで舟を調達したが、既に最後の失踪者が出てから、数日経過している。村人の沈痛な視線を感じているだけに、隊員にも私兵団にも、焦りの色が出てきていた。
何度か実験してみて、どうやら水の中に足でも舟でも踏み入れると、魔物は簡単に姿を現すということは分かってきた。ただし、音もなくいきなり現れるので、注意は必要だ。この近隣で生まれ育った一部の私兵以外は、泳げない。湖の只中で舟を引っくり返されたら、そのまま溺れてしまうかもしれないのだ。
湖面を、幾艘もの小舟がするすると進んでいく。それぞれの舟には一人か二人。出来るだけ泳げる者を選抜した結果だ。
陸にいるその他の者達は、盛んに音を立てたり矢を射かけたりして、魔物を水辺に引き寄せていた。水上に首のようにもたげた部分に気を取られると、いつの間にか足元に忍び寄ってきて飲み込まれる。近くの者が気がつけば救い出すことも可能だが、現時点で何人が呑み込まれたのか分からない。
気づかれる前に、陸と水上からあれを取り囲む。アルテア草を塗り込んだ武器は有効だが、一部が弾けただけでは、水中に逃げられてしまうのだ。全方向を囲み、一斉に仕掛けなければならない。
どうにか気づかれることなく、全ての舟が等間隔で魔物を囲む位置についた。
陸にいる近衛隊長に合図を送る。隊長が手を挙げたのを合図に、全員がアルテア草を塗った矢を番える。これでもまだ不十分なら、水中に逃げられる前に、槍を持って飛び込むつもりでいた。
隊長が手を振り下ろす。
一斉に矢が飛んでいき、それの膜を弾いた。
白い靄が吹き出して辺りを包む。あれの気配は、沈んでいかない。縮んだようには思うが、消えもしない。元々が、とても大きいものなのだ。矢を射かけるだけでは足りないのか。あるいは、あれにとっての毒が、少な過ぎるのか。
見極めようと、短槍を握りながら、舳先のその先を見つめる。
小舟は、わずかな波にも揺すられ、視界は上下する。
濃淡のある靄が通り過ぎていき、湖面のさざ波の上を、鮮やかに色づいた木の葉が何枚も漂ってきた。もう、紅葉の盛りは過ぎているが。
急に静かになった。
白い視界の中、さざ波が舟の縁を叩く音がする。しっとり湿った空気が頬を撫でていく。
ゆっくり瞬きをした目に映ったのは、白い靄がほんのり色づいた程度の、一面の薄紅。一面に、視界に入る全てに、その向こうが見通せないほどに。
薄曇りの空の下、満開の桜は、薄紅と言うより白に近い。全ての枝から間断なく、はらはらと散る花びらが、わずかな空気の流れに乗って舞っている。
緩やかな風が吹き抜けると、音もなく、吹雪のように降り注いだ。思わず、目を細めて両手を伸ばす。その手に降りかかる花びらは、やはり儚い薄紅だった。
やがて降りかかる淡雪がまばらになると、空の中ほどに晴れ間が見えてきた。遠くの空はまだ白く、地上まで幕が下がったように景色を遮っている。あちらはまだ雪が降っている。
畑は一面の雪野原だ。薄く青い空から光が差し込み、積もったばかりの雪の表面は、銀の粒を撒いたように煌めいている。
時折、空に白い罅が走るのが見えるが、音はしない。
『どうして?』
誰かの声がする。
振り返ると、淡い青の空間に、横たわる人影が見えた。
床もない空間を、歩いて進む。
そこにいたのは、泡に包まれた小さな少女だ。泡に触れると、柔らかく跳ね返される。少女は穏やかな顔で、目を閉じて、軽く口を開けていた。胸がゆっくりと上下しているから、眠っている。
泡を破れないかとナイフで刺してみたが、やはり跳ね返された。片手で泡を抑えながらナイフを滑らせてみたが、自分の手に筋のような傷がついただけだった。その傷が触れた時、あれほど拒まれていた泡が、ふわりと溶けて手が通った。
ああ、ならばこうすれば良いのだ。
今度はもっとしっかりと、左腕に傷をつけた。流れ出た血が触れた途端、泡が弾けた。周囲が波打ち、水流を感じる。
少女を抱え込み、渦のようなその水流に乗ると、強く押し上げられるような感じがした。
すぐに、湖畔の風景が見えてきた。青い膜の向こうで、人が大勢集まって武器を振るっているが、音はくぐもって遠い。
あの人と目が合った。
あの人に渡せばいい。きっと受け取ってくれる。
腕の中の少女を思いきり放り投げる。少女は膜の向こうに飛んでいったが、少女がその手に届いたかは見えなかった。その前に、湖中に沈んだからだ。
『一緒になるって言ったのに。』
銀色の細かい泡が、周囲を取り巻いて昇っていく。
頭上の湖面は青白く、黄金の光がその中に揺らめく帯を形作っていた。手を伸ばすと、黄金が淡い茜色に染まっていく。
『私と一緒に。』
穏やかな気分だ。
ここはとても静かで、自分が揺蕩う波のようだ。
何もない。苦しみも、悲しみも、痛みも。
このまま、消えてもいいと思った。
溶けていく。
解れていく。
『一つに―――』
一つに―――




