特訓(1)
王城の使用人達の朝は早い。主達がまだ休んでいる時分から、寝室以外の部屋や回廊を掃き清め、蝋燭を変え、調度類を慎重に磨いていく。
王の婚約が決まってから、一人一人に気合が入っている。最初に聞いた時は驚いたものだが、噂話が浸透するにつれ、高揚した気分に変わっていった。ある程度の年齢より上になると、幼い王を陰ながら見守ってきたという感覚が強くなる。
「俺達の王様が、とうとうお后様をお迎えになるんだ。」
と泣き出す老庭師がいたり、
「お祝いの席に、飛び切りの料理をお出ししなければ!」
と張り切る料理人がいたり、
「王様と王妃様に、気持ちよく過ごして頂かないと。」
と掃除に精を出す下女がいたり。
城の大階段のうち、普段使用している螺旋階段は庭を望むことが出来る。踊り場はちょっとした広間になっていて、日中は官吏や貴族が立ち話をすることもあった。
「おーい、降ろすぞー。」
ガラガラと天井に吊るされた燭台が降ろされ、短くなった蝋燭を外して燭台を磨くと、夜のために新しい蝋燭を差し込んでいく。
「なんか、わくわくするなあ。」
「三か月後には結婚式か。それまでに煤払いもして、綺麗にしておかないとな。」
「庭師長の爺さん、何かというと泣いてるらしいぞ。」
「無理ないなあ。あの爺さん、一番の古株だから。言っちゃあなんだが、王様は孫みたいなもんだろ。」
高いところから庭を見下ろせば気分はより高揚するし、うるさい上司もこの時間は別の場所にいるから、彼らは軽口をたたき合っている。やはり祝い事があるというのは、気分が明るくなる。王の婚約者が異境の民だということは、もう誰の念頭にもなかった。
「なんと仰いました?」
「ですから、舞踏のレッスンです。それから、お作法も学んで頂かなくては。」
目の前にいる上品な初老のご婦人は、優しそうに微笑んでいる。
「我々がですか?エレナだけではなく?」
「エレナ様とお呼びください。陛下のご婚約者ですよ。侯爵家の方にもおなりですし。」
マインス伯爵夫人は、エレナの教育係の一人だ。
宮廷の作法や舞踏、歴史や哲学などの教養、楽曲、詩歌など、お后教育の内容は多岐にわたる。三か月という短期間である程度身につけなければならないのだから、エレナは現在、この世界に来てから最も多忙な時間を過ごしている。そのほとんどを、身元を引き受けてくれた侯爵家と王城で過ごしているので、会える機会も滅多にない。それは仕方がないのだが、教える側も多忙なはずで、今頃エレナにかかりきりのはずのこの夫人が、なぜ急にこんなことを言いだしたのか、よく分からない。
「エレナ様には必要なことですが、我々には必要ないことでは?」
「まあ、何を仰るのです?ご婚儀に際して開かれる舞踏会には、お三方にもご出席いただくのですよ?主だった方々や、他国の大使もいらっしゃる中で、一曲も踊れないのでは困ります。」
「しかし、我々は戦闘部隊の人間ですし、会場の隅で立っているだけでも構わないのでは?」
「いいえ。皆様は王妃様の義姉君としてご出席なさるのです。総長殿はエレナ様の上官でいらっしゃいますけれど、王妃様に上官がいては具合が悪いでしょう。王妃様より上に在られるのは、陛下のみでいらっしゃいますから。」
面倒な宮廷の理屈がここにも登場してきた。
エレナの晴れ姿は見たい。だから舞踏会の会場に入れるのは嬉しい。だが、そのためのレッスンが待っているとは夢にも思わなかった。しかも、貴婦人の作法などと言う面倒なおまけまでついてくるとは。その習得が必須のエレナには申し訳ないのだけれど。
後ろの二人、オリファと、エレナの後任で副長になったナイアラを振り返って見るが、二人ともあまり乗り気そうではない。
何とか逃れたい、と思っていると、ドアがノックされ、なぜか近衛隊長が二人の部下を連れて入ってきた。
「マインス伯爵夫人。連れてまいりましたが・・・二人で良かったのですか?」
ちらりと部屋の中に目を走らせながら、夫人に聞いている。夫人はふくよかな顔をほころばせながら、頷いた。
「まあ、近衛隊長殿。しばらくお会いしないうちに見違えられて。急なお願いでしたけれど、早速お出で頂いて、有難く思います。ええ、ええ。貴方を含めて、これで三人ですから、これでレッスンが出来ますわね。」
「私も、ですか?」
心なしか、あの隊長が微かに戸惑っているような、気がする。この夫人、品良く優しそうに微笑んでいるように見えるが、只者ではないかもしれない。
「あら、貴方は随分長いことダンスをなさっていないでしょう?陛下のお傍に、常に控えていなければならない貴方が、陛下がお踊りになられている間、遠くから見ていらっしゃるおつもりですか?」
隊長は何度か瞬きをした後、諦めた様子を見せた。いや、そこは粘ってくれても良いところだった。そうすればこちらも逃れられるから。ダンスなんて、体育でフォークダンスと創作ダンスをしたくらいなのだ。
「あの、夫人。騎士の方々は習得済みでしょうが、我々は宮廷の舞踏など、拝見したことすらなく、短期間ではとても無理かと思うのですが。」
近衛騎士は教養の一つとして、宮廷舞踊など出来て当たり前だ。ちょっと復習すれば良いだけなので、ゼロスタートのこちらとは違う。隠しようもなく逃げ腰でいたのを、近衛隊長がぼそりと呟いた言葉が打ち砕いた。
「姉代わりのお前達が、作法もなっておらず、舞踏の一つも出来ないのでは、王妃の恥となるぞ。」
「・・・・・・」
そう言われたら、やらざるを得ないではないか。
あと三か月、何をどれだけ習得しなければならないか知らないが、きっとやり遂げて見せよう。
「マインス伯爵夫人。お願いいたします。」
後ろでオリファとナイアラが溜め息をついているのが聞こえたが、二人にも腹を括ってもらわなければならない。公衆の面前で、王妃となるエレナに恥をかかせるわけにはいかないのだから。
その話を聞いたアンヘラは、気の毒そうな顔をしながらも「よかった~。」と言った。
と言うのも、エレナの後任を選ぶ時に、アンヘラかナイアラかという話になったからだ。最古参で、ムードメイカーのアンヘラも、副長には適任だったが、事務棟の官吏からいろいろ聞いていた彼女は、貴族との関わりを嫌がった。間違いなく喧嘩すると思う、と断言するのを否定もできず、というより肯定しかできず、彼女よりは忍耐力のあるナイアラに決まったのだった。
「ダンスは好きなんだけど、宮廷のダンスはちょっとねえ。」
ナイアラはちょっぴり恨めしそうに、そんなアンヘラを見ていた。
「レーナ殿。姿勢を正して。そこをターン。手を突っ張らずしなやかに。」
次から次へと指示が飛んでくるのだが、ようやくステップを覚えたところなのだ。時折、変則的なステップやターンが挟まるので、手の動きが加わってくると間違えそうになる。今もうっかり足を踏みつけそうになった。相手の運動神経が良くて助かった。間違いであっても足を踏むのは気まずい。
「そこは軽やかに。顔を上げて。足元ではなくお相手の顔を見るのですよ。」
それはもう少し待ってほしい。ステップを間違えずに踏むことに必死な今、相手の顔を見たら間違いなく睨みつける。別に喧嘩を売りたいわけではない。
さすがに近衛騎士達は慣れていて、長らく踊っていないという隊長も全く危なげない。おかげでターンを忘れても勝手に回されたりして、何となく出来るようになった気がするのだが、次の瞬間に間違えたりする。先は長い。
ずっとダンスの練習に付き合うほど彼らも暇ではないので、その他は礼儀作法の時間だ。礼一つとっても簡単ではない。簡単に見えるのだが、夫人の合格点には程遠いようなのだ。
「速すぎます。もっと静かに。グラグラしてはなりません。顎は引いて目線は上げて。」
夫人の見本は大変優雅で、真似をしているつもりだが、上手くできていないのは、他の二人を見ればわかる。何かが全く違う。
休憩を挟みながらではあるが、こちらはぐったりしているのに、夫人は全く疲れた様子がない。やはり只者ではないかもしれない。
繰り返しているうちに、ふと思い出したことがあった。随分前に亡くなった祖父は、基本的に優しかったが、厳しい一面もあった。お辞儀の仕方とか挨拶とか、小学校に上がる前に練習させられた記憶がある。
何と言っていただろうか。
確か、『煙が立ち上るように立ち上がり、水に沈みこむように座る』とか言っていたような気がするが、あれは和装の時の動き方だったろうか。剣道をしていた祖父は、すり足というものもしていたが、あれらは全て腰をしっかり安定させて体の芯を造らないと、綺麗な所作にならないのだ。そう考えると、腑に落ちるものがあった。
動作の基本は、武術も舞踏も礼儀作法も全て同じだ。手足だけ真似をしても上手くはいかない。そう意識してみると、随分動きやすくなったように感じた。
「レーナ殿。良くなりましたよ。もう少し淑やかに。」
その他にも、歩き方や扇の扱い方や言葉遣いやらが色々続く。
マインス伯爵夫人は常に笑顔で柔らかな話し方をするが、妥協は全くしない、厳しい先生である。初めて、良いと言ってもらえた時はホッとしたが、その後十数回『違います』が続いた時は困った。自分ではその違いが分からないのだ。
そして、そんな時にも魔物は気を使って休んだりはしてくれない。幸い大規模な討伐はなかったものの、副長のどちらかは行かねばならず、事務仕事も間断なく発生する。
宮廷内の貴族の中には、何か言いたそうにしている人達もまだいたのだが、誰かが抑えているからか、あるいはこちらが鬼気迫る様子でいたせいか、余計な絡み方をしてくる人はいなかった。




