清澄なる調(2)
森の中に悲鳴が響く。
それは当初、白い大木のように佇んでいたが、近づくものがいると認識するや、形を変え始めた。一部に突起ができると、腕のようにするすると伸びてくる。丈を伸び縮みさせながら、ずるずると動いている様は、肉塊で出来た塔か、巨大なナメクジのようだった。
偵察で分かったのはここまでで、警備隊員が言っていたような刃は見当たらない。
しかし、それはすぐに現れた。
飛び交う飛竜や、投げつけられた槍に反応し、それは甲高い音を発した。
空気がびりびりと震え、全てを切り刻んだ。木々も、大地も、動物達も。飛竜の反射速度がなければ離脱は不可能だ。運悪くその円の中に踏み込んでいた兵達は、無残な姿を晒すことになった。
風を操っているのではない。空気そのものを刃と化している。永続するものではなく、範囲も限られているが、その範囲が広かった。投槍器を使っても、ぎりぎり届くかどうかというところだ。そして、槍を投じても、弩を放っても、音の鳴っている間は全て切り落とされてしまう。合間を縫って放たれたものは、届きはするが、大部分は腕のように伸ばされた突起に絡め捕られてしまった。
突起に捕らわれたものは、何であれ飲み込まれた。物であれ、人であれ、動物であれ。それが生きていようと肉塊であろうと関わりなく。
こちらの手は届かず、ほとんど眺めるか逃げるしか出来ず、飛竜すら近づくことに抵抗感を示した。
これは、本当に人の手で倒せるものなのか。
兵の中には闘志を失っている者もいる。ファリエンの隊員の顔にも焦りが見え、中には恐怖に飲み込まれそうな者も出てきた。
それでもまだ組織立った行動を保てるのは、近衛隊長が控えているからだった。泰然として立ち、冷静な様子を崩すことなく、鎮めるように、あるいは鼓舞するように指示を出し続けている。その姿に、何とかなるという思いを、つなぐことが出来るのだ。兵にそのように思わせることが出来るのが、おそらく、こういう時の指揮官に必要な資質なのだろう。
カラム峠の戦いで潰走しかけたローヴェルン軍を立て直し、国境まで押し戻すきっかけを作ったのはこの人だ。その激しい戦いぶりで、『戦神の現身』の異名を取ったと聞いている。それは王都だけでなく、各地の駐屯軍にも伝わっていて、絶対的な信頼感を支えている。
そのような在り方は、簡単に真似できるものではない。だが、冷静であることを求められる以上、手本とすべきだろう。例えそれが、表面的なものであったとしても。
本来、王の近くに控えるべき近衛隊長が派遣されるのは、常にそれなりの理由がある。今回は、生命線ともいえる岩塩を守る為と、最大限の備えをという進言が容れられたからだが、このような事態まで予見して派遣を決めたのなら、王もまた、高い能力を持つのかもしれない。
またあの音が鳴る。
逸早くその兆候を認めた飛竜の騎手から、退避の声が響く。
地上部隊は、必死の形相で、魔物から距離を取ろうと走り出す。
大地を刻みながら勢いよく迫る刃に、一人の隊員が恐怖をこらえきれず、悲鳴を上げた。
それまで、押し殺していた感情を開放してしまった瞬間だった。と同時に、奇跡の光景を現した瞬間でもあった。
大気を振動させる見えない刃が、彼女の周りをきれいに避けたのだ。
「声・・・音?・・・音だ!声でも笛でも何でもいい!音を鳴らせ!」
あれの出す音が空気を刃に変えるなら、同じく音で相殺できる。そう考えた。
方々で叫び声が上がり、角笛が鳴り、呼子笛が鳴る。そうしてあれが生み出す刃の嵐の中に踏み込もうとする。
それらは、見えない刃を減弱する効果はあった。しかし全てが有効ではない。幾らか勢いを弱めるだけで、とても踏み込むところまでいかないところもある。攻撃を仕掛けるどころか、自身が重傷を負ってしまう。
最も効果があるのは呼子笛だった。隊員が思わず上げた悲鳴と同じ、高い音を出す呼子笛は、あれの繰り出す刃を相殺することが可能だった。しかも、比較的遠くまでその効果が届く。
問題は、息継ぎのタイミングだ。どこで誰が吹いているのかもよく分からず、互いのタイミングを合わせて連携するのは困難だ。相殺効果のある間に飛び込み、運悪く途中で途切れてしまったら、それで全て終わりだ。それに、飛竜にとっては好ましくない音だったようで、不快感が高まっていくのが分かる。それが他の感覚に影響を及ぼすことは、望ましくない。
間断なく、無理なく、高い音を出し続ける方法はないか。
目の前の光景を睨むように見据え、考えて、賭けに出ることにした。
「エレナ!!」
少し離れたところにいるエレナに呼びかける。考えが伝わることを願いながら、目が合ったことを確認し、大きく深呼吸をする。
そして、歌い始めた。
近くにいた兵士は驚いたような顔をしていたが、ほどなく、意図を察してくれたエレナも、後を追って歌い始めた。少しして、別の方向からも歌声が響き始める。
とりあえず、三人いれば十分。歌詞はうろ覚えだが、音が出せればよい。元はエレナの国の民謡だが、世界的に知られている曲だし、きっと分かる人はいると思った。それに、この歌は輪唱が可能だ。一人が息継ぎをする間も、誰かが歌い続けることが出来る。少しでも遠くへ届けと、腹に力を籠めて声を押し出していく。
効果はすぐに現れた。その場に歌が満ちるとともに、完全に、刃が相殺された。
裏歌詞も響き始め、より強固になった歌の盾の中、飛竜に乗った隊員や地上の兵士達が次々に飛び出していき、間近からの攻撃を試み始める。槍、弩、火矢、アルテア草を塗り込んだ武器、あらゆるものが放たれ、飛竜が爪を振るう。
音を封じられた魔物は、自らの体の一部を伸縮させながら、飛び交う飛竜や地を駆ける人間達を直接捕えようとした。傷だらけの大地は人の動きを阻み、取り込まれそうになる兵士もいたが、兵達の顔には闘志が戻っていた。
遅々として進展しない状況と増え続ける兵の損失。これだけの犠牲を出しながら、対象の力をどれだけ削れたのか、杳として知れない。触れ得ぬものという表現は的を射ている。これを本来の棲み処に追いやれるものならそうするが、人里近くに居座り、既に民にも被害が出ている以上、放置する選択肢はない。
必ず活路はある。一筋の光明は見えたのだ。
場を隅々まで見渡しながら突破口を探す。道を切り開くため、笛の吹き手を集めようとした時だった。
唐突に歌声が聞こえた。
見ると、レーナが歌っていた。
彼女の唇から零れ出た歌は、より多くの流れを伴い、谷間になった地形に染み渡るように広がっていく。普段の強張った声とは異なる、澄んだ声だった。
次々に重ねられる歌声は心地よく響き、戦いの場を覆っていく。
そこから決して目を離すことはなく、兵に指示を出し続けながらも、耳を打つ調べに、不思議な感覚に陥っていく。
目の前では死闘が繰り広げられているというのに、それを彩るように舞い上がり、斃れた兵を癒し悼むように落ちていく歌声を、その光景を、美しいと思った。
戦いに美しさなどはない。そう、知っているはずなのに。
やがて、絶望的とも思えた戦いが終わりを迎えた。
兵士達が歓声を上げ、掃討の終了を確認して、彼女達の歌が収束していく。
余韻が、消えていく。
「美しいものだな。」
呟いた声が届いたのか否か、振り返ったレーナの目には、出会った頃と変わらない、強い光が湛えられていた。




