冷酷なファリエ(2)
「リュディエ様。素敵な扇ですわね。」
招待主から話しかけられた侯爵令嬢リュディエの手には、珍しい細工の扇があった。透き通りそうな薄い生地に、美しい白糸と銀糸で繊細な刺繍が施され、どのようにしたものか透かし彫りのような刺繍が組み込まれている。骨の素材は光沢があり、要のところには緑光石が嵌められていた。リュディエの髪と瞳の色に合せた仕立てだ。
「『子爵夫人のハンカチーフ』より美しいわ。」
「本当に。このように細やかな刺繍は見たことがございません。」
「まるで女神の手による織物のようですわね。どちらのお品ですの?」
「頂いた物ですから、私は存じません。このような飾りは他に見ないものですから、子爵夫人と同じところの品かもしれませんわね。」
「まあ、どなたからですの?」
「いやですわ。ビフェルン伯に決まっているではありませんか。ねえ、リュディエ様。」
「あのような素敵な方が許嫁だなんて、羨ましいですわ。」
どの令嬢もとろけそうな顔をして、甘い夢想に浸っているようだ。確かに、見目良く、才気溢れ、前途洋々たる次期公爵は、令嬢達の憧れの的だ。その婚約者の座も然り。
ただ、実際に婚約者になってみれば、あの伯爵がそう甘い人物でないことは良く分かる。いずれ、かの人の隣で、ライヒス公爵夫人として振る舞わなければならなくなるのだ。リュディエ自身は、そう甘い気分に浸ってはいられない。飲み込まれないように、気を引き締めていなければならない。
手元の扇に目を落とす。
これの制作者が誰か、リュディエは知っている。ビフェルン伯に聞いたわけではないが、かの子爵夫人が、どのように評判のハンカチーフを手に入れたのかは明らかなのだ。分かっていない者もいるようだが、リュディエからしてみれば明白だ。女神ではなく、異境の民が作ったものだと言ったら、目の前の令嬢達はどのような反応をするのだろうか。
彼女達は職人ではなく、本職で多忙のはずだ。どのように言いくるめたものか、このような仕事をさせるのだから、きっと彼女達は困惑したことだろう。
ただ、伯爵には相手に不快な思いを残さない器用なところがある。あの総長がどのような顔をしたのかは、少し見てみたかった。
サロンから見える回廊で、騒めきが広がる様子が見えた。すぐにそれは、押し殺したような静けさに変わる。その中を、彼女が颯爽と歩いていく。周囲の雑音を気にする様子もなく、真直ぐに前を見据え、相変わらず堂々とした様子だ。
「いやだわ。あの異民。」
対して、こちらの令嬢達は一斉に眉を顰め、潜めた声で囁き交わす。
「お聞きになりまして?子供でも容赦なく斬り捨てるのだとか。」
「聞きましたわ。恐ろしい。心が氷でできているのですよ。異境の民ですもの。」
「身の内に魔神を潜ませているという話もありますわ。私達も気をつけなければ。」
「目を合わせたら、氷漬けにされてしまうかもしれませんわね。」
リュディエは努めて平静を保ったが、内心では大きな溜息をついていた。
その噂は宮廷貴族にも速やかに広がっていた。彼らは庶民より正確な情報を得られるはずだが、宮廷で囁かれる話は、街のものと大して変わらない。暇潰しの話題だから、面白い方が良いのだ。しかし、目の前の令嬢達は、半ば本気で噂を信じているようにも見えた。
「そのような者が王城に足を踏み入れるなんて。世も末ですわ。」
「全くです。それでなくとも、異境の民など、野蛮で教養もありませんのに。そうお思いになりませんか、リュディエ様?」
リュディエは扇を広げて口元に寄せ、とぼけた顔をしてみせた。
「さあ。然るべき方々のお考えですから、私には何とも・・・。それより、私は魔物が人に化けて都に入りかけたということの方が、恐ろしいですわ。」
「え?」
令嬢達は戸惑った顔になった。ビフェルン伯の婚約者であるリュディエは、同世代の令嬢の中では一目置かれている。高貴な人の代表格でもある彼女の賛同を得られなかったのは、意外だったようだ。
「もう少しで人を殺めるところだったというではありませんか。都の中まで入り込んでいたらと思うと、恐ろしいですわね。」
「え、ええ。そ、そうですわね。」
思わしげに眉を寄せてみれば、それもそうだというように、令嬢達も身を竦めている。その様子を想像してみたのだろう。
場の雰囲気が重くなりかけたのを見て、リュディエは扇を閉じ、にっこりと微笑んだ。
「そのようなことより、フェリーシア様のお話を。」
「そ、そうですわね。」
招待主の令嬢が近々婚儀を上げることになっている。令嬢達の興味は容易に移り、他愛なくも和やかな茶会が再開した。
街中を制服で歩くと、以前は警戒感や蔑みを含んだ視線が多かったが、このところは怖れが多くを占めているように思う。王城の中も概ね同じだ。さすがに上層部になるとそのような様子は微塵も感じさせないが、控えの場で待機している貴族達は、距離を置いて恐々と様子を窺ってくる。
おかげで、必要もないのに絡んでくる貴族は皆無になったし、テラスからなぜかお茶が降ってくることもなくなった。個人的には快適だ。
視界の端に、いつぞやの伯爵が引っ掛かったが、目が合う前に向こうが視線を逸らした。その傍にいる貴族達の中には、憎々し気な視線を投げてくる者もいる。どうやら噂に尾鰭がついて、目が合っただけで心臓を取られるとか、石にされるとか、氷漬けにされるとかいう話も出ているらしい。
馬鹿げている。それではもはや人間とは言えない。
薄く笑う。
それを見て身を縮みこませる者がいても、気に留めない。
貴族といっても、本物は一握りだ。良い教育を受け、先祖にはそれなりに優れた人もあったのだろうに、血筋しか誇るものがない者達が、くだらない話題で右往左往する様は滑稽だ。
とは言え、今や自分もその階級社会の一員だ。成り行きでこの立場になっただけで、本当は何者でもないのに、平民の従僕に頭を下げられ、それを当然の顔で受けている。
自分は一体何者か。
鬼やら魔神やらではないが、氷の心を持つ人間というなら、それもいい。それで余計な干渉を受けずに地歩を固められるなら、その役を演じてみせても良いと思った。
その後ろ姿を、苦虫を噛み潰した顔で眺める一団がある。レヒバウエン伯爵とその取り巻きだ。
異境の民など、どこから湧いてきたか知らないが、視界に入らないところにおれば、別段気にしない。末端の兵士か、下働き程度なら、いても構わない。しかし、登城を許され我が物顔で歩き回り、自分にも手の届かない顧問議会に名を連ねるなど、とてもではないが許せることではなかった。しかもあれは、息子の敵の仲間なのだ。とっくに葬り去られて然るべき者のはずだった。
カラム峠の敗北で跡継ぎを失ったため、親族から養子をとらざるを得なくなった。その親達は、早くも爵位と領地を得たかのようにつけ上がっていて、腹立たしいことこの上ない。それもあの異民どものせいなのだ。魔物討伐で死んでくれればまだ良かったものを、その功績を認められたとかで昇進してくるのだから図々しい。
王城の従僕に言い含めて任命式を邪魔してやろうとしたが失敗し、取り巻き達に何かと嫌がらせをさせてみたが響いている様子もない。むしろ、こちらから差し向けた者達が、まるで氷の刃を心臓に押し当てられた心地がした、と揃って怯える始末だ。何とも忌々しいことである。
しかしこちらには、あれに恨みを持つリーデンベルフ侯爵という強い味方もある。
「今度こそ思い知るがいい。」
そう呟いて、伯爵は深緑の軍服が遠ざかるのを見送った。




